公開日:2025年6月13日

男性性を暴く物語としてのBL──マンガ『10DANCE』(井上佐藤)が描き込む、唯一無二のクィア・ロマンス(評:高島鈴) 

Netflixでの映画化も決定している話題のBL作品を、ライター、アナーカ・フェミニストの高島鈴がレビュー

『10DANCE』1巻 ©︎ 井上佐藤/講談社

競技ダンスを舞台に、男たちが衝突し、心を交わし合うマンガ『10DANCE』

男性性はそこに「在る」。ゆえに「見えない」し、「言葉にならない」。女性の社会進出を阻むものを「ガラスの天井」と呼ぶが、ここで「ガラス」という言葉が出てくることは、男性性という側面から語るにしても極めて示唆的だ(それを阻むものは不可視なのだ!)。この世に生まれ落ちて他者に出会った時点で、性という演技はすでに始まっていて、われらはそこから逃げ出す道をいまだに身を捩って探している最中である。先は長く、道行は暗い。われらを覆うその構造は、暴いても暴いても巨きい。

そのような世界に放り込まれた私がBLというジャンルを愛するようになったのは、ある意味で必然である。BLは確かに問題含みで、つねに明るく肯定しうるものでもないのだが(実際BLはゲイなどマセクシュアル男性表象の性的搾取であるとの批判が出ており、それは一定受け止めねばならないだろう)、そのいっぽうで男性性という不可視のからくりに肉薄する物語を生み出してきたジャンルであることも間違いがないからだ。たとえばヨネダコウ『囀る鳥は羽ばたかない』がホモソーシャルというゲームの盤面をロマンスで書き換えたように、彩景でりこ『蟷螂の檻』が家父長制を愛の名前で振るわれる暴力の連鎖として暴いたように。BLという鉈はしばしば容赦がない。そこに意味がある。そこに惹かれてしまう。

井上佐藤『10DANCE』は、この視点──すなわち、男性性を暴く物語としてのBL──に立つとき、歴史的に必読の作品と言えるだろう。本作は競技社交ダンスという徹底的に「愛を演じる」世界を舞台に、「男役」(リード)を務めるふたりの男たちが心を交わし合う物語だからだ。

「演じられる」男性性

タイトルにもなっている10ダンスとは、競技ダンスにおいて通常は別々に競われる2つの部門、「スタンダード」5種目と「ラテン」5種目の計10種目すべてを踊って競う、非常に過酷な競技である。ラテンの日本チャンピオンである鈴木信也は、あるときスタンダード世界2位を誇る「ダンスの帝王」杉木信也から、この10ダンスに挑戦するべく互いをコーチングしないかと誘われた。最初は乗り気でなかった鈴木だが、すまし顔でこちらを煽ってくる杉木を前に「こいつを負かしてやりたい」とヒートアップし、それを引き受けてしまう。こうしてお互いのダンスパートナーを連れて夜のレッスンを始めた鈴木と杉木だが、その過程でふたりはどうしようもなく惹かれあっていく……。

これだけ読めば「シンプルにダンスを題材にしたラブストーリーなんでしょ?」と思われるかもしれないが、本作のページをめくれば、決して話は単純ではないとわかるはずだ。そこには男性性という虚構が「演じられるもの」であることの証左、そして「理想の男性像」と現実の自己との間でもがく等身大の人間の葛藤が描き込まれている。

具体的にどういうことか? まず、物語が競技ダンスというものの性質を最大限活かしている点に注目せねばならない。競技ダンスは「男役」(リード)の男性と「女役」(フォロー)の女性が組になって踊る競技だ。少なくとも作中世界の競技シーンにおいて同性同士のペアが出場することは不可能であり、実際鈴木には田嶋アキ、杉木には矢上房子という女性のダンスパートナーがいる。そしてダンサーたちは、ダンスを通していかに魅力的な男女のラブストーリーを伝えるかに腐心するし、観客もそれをつねに期待するのだ。バラ園で運命的に出会った王子様とお姫様? 町外れの酒場で熱を交わす奔放な女と旅の男? どんな筋書きであるにせよ、そこには求められるキャラクターがあり、演じるべき型がある。そしてその「役」は、つねに、そして過剰に、ジェンダーに基づいて形作られているのである。

この「過剰に」という部分が肝要だ。ドラァグクイーンがそうであるように、徹底して性別役割に従ったダンサーたちの演技は、性がパフォーマンスであることをはっきりと浮き彫りにする。杉木の「男役」を学ぶべく「女役」に回った鈴木は、杉木のリードにうっとりして「ちょ‥センセ♡/なんかバラ見えてきましたぁっ」「今なら子供いっぱい産めそうです!」(1巻4話)と口走るシーンは極めて象徴的だろう(*1)。『10DANCE』は性の規範がじゅうぶんに往来可能な構築物であることを熟知している。そして鈴木と杉木は、おのれの身体すべてを使ってその行き来を味わった果てに、次第にお互いへの関心を抑えられなくなっていき、「この感情は恋なのか?」と悩み始めるのだ。

井上佐藤『10DANCE』1巻、講談社、pp.138-139

ここで始まる「恋」は極めてフィジカルである。杉木は鈴木への気持ちに関する戸惑いを「(…)今日踊ってる時 鈴木先生にちょっと興奮し」たと表現するし(3巻12話)、鈴木も最初は「男となんてセックスしたくない/触れたいなんて思わない/キスをしたいわけじゃない」と己に言い聞かせることで、「だからこれは恋なんかじゃない」と結論づけようとする(2巻10話)。ここで恋愛的関心以上に肉体関係が問題になるのは、本作の大きな特徴だと言えるだろう。それは決して、本作が「性的なシーンを魅力的に読ませることが目的のBL作品だから」というようなシンプルな理由ではない。ふたりがダンサーであり、つねにふたりを仲立ちするものが身体であるから、そのように描かれる必然性がある。

「優れたダンサーには/身体に歴史やストーリーがある」と杉木が言うように(3巻12話)、身体の使われ方はその身に現れる。どのような所作で食事をし、どのように人と触れ合い、あるいは踊ったのか。それら生きるためにしたことのすべてが、地層のごとく身体に蓄積する。そのように考えるとき、杉木も鈴木も全身で学んできたのは、あらゆる意味で「理想的な男になる」ためのパフォーマンスであった。

井上佐藤『10DANCE』3巻、講談社、p.49

杉木信也。言わずもがな、世界トップクラスを誇るスタンダードダンサーにして「帝王」。幼少期から伝説的なダンサーであるマーサ・ミルトンのもとで育ち、「皆が憧れる最高の紳士」になるようダンスを叩き込まれた。

鈴木信也。キューバ生まれで、故郷に残る9人の妹たちを養うために日本にやってきたラテンダンサー。才能あるダンサーにばかり恋し続けた母の恋人たちに影響を受け、幼少期からダンスに親しんできた。

このふたりの人間に明確に共通していることがふたつある。ひとつは、競技ダンスの「男役」であること。そしてもうひとつは、女性ばかりに囲まれた環境で、自分が「男」であろうと努力してきたことだ。

ふたりの身体に叩き込まれた所作は、つねにふたりの行動を規定する。杉木は大荷物を抱えて歩く女性を見れば見知らぬ相手でも自分が荷物を持とうとし、鈴木は女性と見れば見境なく食事に誘う。それが「あるべき男」──杉木にとっては〈紳士〉、鈴木にとっては〈ラティーノ〉──であると信じて生きてきたからである。ではその、ふたりが生きようとしてきた「男」の物語のなかに、果たして男同士の恋愛・性愛については記載があっただろうか? まるでない、どこを探しても、ないのだ!

この世が支配的に扱ってきた「男」という物語におけるクィア・ロマンスの欠如を、『10DANCE』は大胆に描き込む。言ってしまえば当たり前ではある。だらだらと有徴化されてきた「女」の物語にだってクィア・ロマンスは平然と存在してこなかったし、ノンバイナリーはそもそもまだ歴史的な筋書きがないに等しい(そんなもんなくていい、と言うこともできれば、歴史的に存在が無視されてきた悲惨さの証とも言える)。それでもクィアの不在が暴かれることに、絶対に意味はあると言いたい。それは何が世界の中でなかったことにされてきたか、誰がいないことにされてきたかの証左なのだ。

ダンサーとしての身体が抱えた「支配」と「慈愛」

さて、「理想の男」のガイドブックに「男と恋愛する方法」の項目はない──それゆえにふたりは戸惑う。「男役」の美学とは、端的に言ってしまえば支配であり征服だった。「女役」を従わせ、自分が美しく主導権を握る。自分の身体を使って相手に欲情することとは、誰よりも「男」を演じてきた杉木と鈴木にとって、相手を「リード」する行為そのものだったのだ(*2)。だからこそ、ふたりは向き合って途方に暮れる。支配はお互いが同時にそれをやろうとしたってうまくいかない。どちらかは必ず、受け身になる必要がある。頭では相手を受け入れてもいいと思っても、フィジカルな衝動は壁として繰り返し立ちはだかる。人間としての自分の想いと、「男」として鍛え上げられた身体のパフォーマンスが、次々と矛盾を抱え込むのだ。

杉木がかつて引退を考えたときのトラウマ的エピソードを聞いた鈴木が、誰よりも杉木への想いを膨らませた慈しみの目で「俺が潰してやる」と考えるシーンは、あまりに白眉だろう(3巻15話)。「帝王」杉木信也を競技の世界において万力で潰し、その役割を破壊すること。その先にある人間としての杉木に出会おうと試みること。支配と慈愛はたんなる押韻ではない。杉木に欲情して征服したいと願い、同時に杉木の傷──それはまさしく「支配」に関するものだった──を自分が癒してやりたいとも感じ始めた鈴木の行動がそのような方向へ収斂するのは、まさに彼が知るすべての言語を介した愛の伝達、鈴木信也の人生を懸けた告白にほかならない。

井上佐藤『10DANCE』3巻、講談社、p.134

そんなに深い愛があるなら、ふたりは大丈夫なのか?──そうはいかないのが『10DANCE』の魅力である。はっきり言ってしまえば、ふたりは一度破綻を迎える。相手を壊すことは、そんなに簡単な話ではなかった。相手の「理想の男」のパフォーマンスを剥がしとれば、「帝王」は死んでしまうだろう。性は確かに演技にすぎないが、生きるための技法としてしばしば存在に深く食い込むからだ。生き方を変えようとした。それでもどうしようもなく、ふたりはダンサーだった。そうであることをやめられなかった。ダンスのほかに愛の言語をほとんど持たない、心細い人間であった。心の底から惹かれあっているからこそ、ふたりは誰よりも終わりを理解していた。

ひとつの恋は終幕、それでも物語は終わらない。ふたりは一度つないだ手を離し、新たなステージへ突き進むことになる。ようやく本気で世界の舞台と向き合うつもりになった鈴木は、スタンダードの元世界チャンピオンであるノーマン・オーウェンとの決死のレッスンへ。いっぽうで鈴木にも出資することを条件に新しいスポンサーであるマックス・マルダーを受け入れた杉木は、アメリカ屈指の大富豪であるマルダー家から場を掌握・支配するための帝王学を受け継ぐ決意をする。ふたりはふたりの世界を抜け、他者に遭遇し、そこで新たな言語を受け取ってきた。「その先」のふたりがどのように出会い直すのか? 男性性と人間性との葛藤を深く抉ってきた本作だからこそ描けるふたりの新しいロマンスは、ぜひ原作で見届けていただきたい。

『10DANCE』は2025年現在ヤンマガWeb上で連載中、コミックスは最新8巻が発売中だ。また、12月にはNetflixにて映画版が公開予定である。いよいよ触れ難いほどの熱を放ちながら展開されていく本作を、未読ならばいますぐ手に取ってほしい。全身を使って愛を伝え合うことの困難と美しさが、ここにははっきりと、「在る」。

Netflix映画「10DANCE」のファーストルック

*1──出産をするのは女性に限られないが、ここでは社会通念を含めて戯画化した形で「女性扱いを受け入れ、そのダンスにおいて女性に〈成る〉こと」をそのように表象している。

*2──ここでいう「リード」が必ずしもセックスポジションの話ではないことは、作中で杉木の旧友・アーニーによって明言されている(5巻27話)。

『10DANCE』
著者:井上佐藤
掲載: ヤンマガWeb
出版社:講談社

2025年12月には動画配信サイトNetflixにて、映画「10DANCE」の配信が決定。主演は竹内涼真、町田啓太。
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また、単行本第8巻の発売を記念して、『10DANCE』の第1話が無料公開中。
無料公開の詳細はこちらから

高島鈴

たかしま・りん 1995年生まれ。ライター、アナーカ・フェミニスト、パブリック・ヒストリアン。単著に『布団の中から蜂起せよ――アナーカ・フェミニズムのための断章』(人文書院)、共編著に『反トランス差別ブックレット われらはすでに共にある』(現代書館)がある。ほか、『あなたのフェミはどこから?』(平凡社)、『生きるためのブックガイド』(岩波書店)、『療法としての歴史〈知〉 いまを診る』(森話社、杉浦鈴名義)などに寄稿。