イタリア・フィレンツェのストロッツィ宮にて、戦後ドイツを代表する現代美術家、アンゼルム・キーファーの個展「Fallen Angels」が開催されている。会期は7月21日まで。
簡単にキーファーの経歴を振り返っておこう。1945年、ドイツ・ドナウエッシンゲン生まれ。大学で法律とロマンス語を学ぶものの、途中で美術へ転向。大学卒業後にはヨーゼフ・ボイスらに師事した時期もある。69年、ナチス式の敬礼を作家自身が行ったパロディ作品が物議をかもす。以降もナチスをはじめとするドイツが抱える歴史の暗い面や、古代の神話、リヒャルト・ワーグナーなど歴史や文学、哲学をモチーフとした作品を制作し続けている。国際的な注目を集めたのは、ゲオルク・バゼリッツとともに西ドイツ代表として参加した80年のヴェネチア・ビエンナーレ。90年代にはインドやアジア、アメリカ、北アフリカなどを精力的に旅行。92年からは南仏バルジャックを拠点に活動してきた。
以降ではそれぞれの作品について、そのモチーフを軸に紹介する。
ストロッツィ宮に入り、中庭で出迎えるのは展覧会タイトルと同じ意味を持つ巨大な絵画《Engelssturz》(2022-23)。反逆した天使たちが、大天使により天から追放されている様子が描かれている。金箔の貼られた画面上部、その中央には大きな天使。右手は剣を構え、左手はカンヴァスに刻まれたヘブライ語のアルファベットを指している。意味は「ミカエル」。他方で、画面の下部は黒く染色されただろう布の物質感が際立つ。よく見ると、人の顔が、上下逆さまに彫り込まれていることにも気づくだろう。主題を明確に提示しながらも、同時にメディウムの物質性を強調するこうした画面作りは、キーファーを象徴するスタイルだ。
階段を上り、展示室へ。冒頭には《Luzifier》(2024)が展示されている。有名な堕天使の名前が冠された本作は、なによりもまず画面から垂直に出た突起物に視線が行くだろう。飛行機の翼だというこの突起物。その裏面と画面右手には、ふたたび「ミカエル」を指すヘブライ文字が書かれている。人間が空を飛ぶことを可能にした飛行機の翼と天使の翼を重ね合わせている本作は、同時にイカロスの神話も暗示しているという。
隣の展示空間には、ヒマワリが力強く描かれた金色の絵画3点が並ぶ。そのひとつ、《Für Antonin Artaud: Helagabale》(2023)におけるヘリオガバルスとは、3世紀に活躍したローマ皇帝のこと。彼自身の信仰やセクシュアリティによって、しばしば異端と評される皇帝だ。
タイトルをそのまま理解すれば、フランスの劇作家アントナン・アルトーに捧げられたものだろう。というのもアルトーは、ヘリオガバルスの生涯と自身の思想を重ね合わせたテキスト『Héliogabale ou l'anarchiste couronné』を1934年に発表している(日本では、2016年に鈴木創士による新訳版『ヘリオガバルス: あるいは戴冠せるアナーキスト』が河出文庫から出版されている)。キーファーのタイトルはこのテキストにちなんでいるようだ。
ほかの2作もまた、異なる引用元があるものの、90年代にキーファーが南仏に移住したことを思い返せば、ゴッホが南仏のアルルに移住した際に制作した「ひまわり」を思い出さずにはいられない。
続く作品は、古代ギリシャの思想家たちをモチーフとした絵画群。《La Scoula di Atene》(2022)の構図はタイトルの通り、ラファエロの《アテネの学堂》に基づいたもの。《Vor Sokrates》(2022)はアルキメデスやパルメニデスらソクラテス以前に活動した思想家たちの顔が家系図のように連なって描かれるいっぽう、《Ave Maria》(2022)においてはヘラクレイトスやエピクロス、プラトン、アリストテレス、ディオゲネスなど、ソクラテス前後の著名な思想家たちが並ぶ。
ここではじめて、絵画以外の作品が登場。ガラスケースを用いたインスタレーション《En Sof》(2016)、《Das Balder-Lied》(2018)、《Danae》(2016)3点が並ぶ。こちらもそれぞれ、ユダヤ教の伝統を基盤とする神秘主義思想カバラ、北欧神話、ギリシャ神話をモチーフとした作品群だ。
続く展示空間を覆うのは、過去40年以上にわたる絵画作品が天井と壁面に所狭しと並ぶインスタレーション《Verstrahlte Bilder》(1983-2023)。これらの絵画は、制作後に電解質を含んだ水槽に浸され、放射線によって変色しているという。天井の絵画は、部屋の中央に配された大きなテーブルのような鏡を通しても見ることができる。
没入感のあるインスタレーションの先には、モノトーンを基調とした絵画と彫刻が。彫刻は、近代的なドレスをまとった女性のものと思しき胴体に対して、頭部がそれぞれ岩や樹に変身している強烈なビジュアルの作品群。ギリシャ神話において月桂樹へと変身してしまうダプネー、同神話で義憤を司るネメシス、聖母マリアの名前が冠されたこれらの彫刻は、古代の女性たちに捧げられたものだという。
他方で絵画は、ドイツ西部を流れるライン川や、ふたたびひまわりなどがモチーフとして登場する。これまで見てきた絵画と異なり、モノトーンを基調としている点が印象的だ。
展覧会の最後を締めくくるのは、キーファーのアーティストとしての原点となった写真作品《Heroische Sinnbilder》(2009)。「占領」を意味するキーファーの初の個展「Besetzungen」(1969)で出展された「英雄的シンボル」を意味するこの作品は、キーファー自身が、彼の父親のドイツ国防軍将校の軍服を身にまとい、ナチス式の敬礼のポーズをとるというもの。初個展から半世紀後に再制作された本作では、イタリアやフランスなど、ヨーロッパ各所で撮影されている。壁には、直筆で書かれたイタリアを代表する詩人クァジーモドの詩の一節が。「Ed è subito sera そしてすぐに日が暮れる」のもと、展示は幕を閉じる。
出展作品は20点ほど。たとえば、数年前に日本国内で開催されていたゲルハルト・リヒターの個展と比較すれば、だいぶ少なめではある。だが、作品のサイズやキーファーが作品に与える壮大なスケールを考慮すると、十分な規模感だ。
東京・表参道のファーガス・マカフリー 東京にて開催中の個展や、6月末から全国で公開されるドキュメンタリー映画、来年春開催予定の京都・二条城での新作個展など、国内でのキーファーに関する企画が続々と発表されている。キーファーの活動に引き続き注目したい。