200年以上続くイタリアと日本の美術交流。西欧の作家に日本の作家が学ぶという構図を脱し、作家同士が対等なやりとりを実現していく20世紀に光を当て、現在まで日本国内に残るイタリア美術作品のルーツをたどる展覧会「イタリアと日本の前衛―20世紀の日伊交流」が、広島県のふくやま美術館にて6月2日まで開催中だ。本展を、京都精華大学芸術学部准教授でイタリアを中心とするヨーロッパの近代芸術を専門とする鯖江秀樹がレビューする。【Tokyo Art Beat】
できるなら美術館の企画展は会場を3周したい。1周目は展示物の配置やレイアウト、それに会場のルートと規模を大掴みするために早足で。2周目は順路通りに細部までじっくりと。3周目は印象に残った作品(ないしはその部分)に絞って相互に比較しながら行きつ戻りつ。端から見れば挙動不審の徒かもしれぬが、この鑑賞法は現場にある作品を様々な視点から味わわせてくれる。すくなくとも、「流し見」してしまって自責の念に駆られるようなことは以前より少なくなった。目よりむしろ足腰がもの言うこの身体的な鑑賞法にはただし、弱点がある。予約必須で人が押し寄せるところ、ビエンナーレのように大規模なスペースに太刀打ちできないのだ。体力には限りがある。
その点、ふくやま美術館にて6月2日まで開催中の「イタリアと日本の前衛―20世紀の日伊交流」展はジャストサイズであった。60点の美術作品と30点あまりの視聴覚資料、印刷物、文書をコンパクトにまとめた本展を、同時開催のコレクション展と合わせて存分に楽しむことができた。
企画展は4つのセクションからなる。最初に、イタリア側からジャコモ・バッラやウンベルト・ボッチョーニ、ルイージ・ルッソロら、日本側から東郷青児や神原泰らに関わる作品や視聴覚資料で1910年代、20年代の両国の美術交流が示される。第2セクションでは、本展のキーパーソンであるルーチョ・フォンタナと瀧口修造にスポットを当て、ふたりを核に形成されていった戦後日伊美術の「人間関係」が浮かびあがる。
続いて3つ目のセクションは、新潟放送が1964年に開設したBSN新潟美術館が閉館した際、新潟市美術館に寄託した作品で構成され、それらは「空間主義」という語で括られる。「空間主義」とはフォンタナが提唱した芸術理念で、その名を冠したマニフェストが多く書かれているが、このセクションはそれを継承した若手作家たちの実践を示すものだ。最後の2部屋は、デザインやその理論でも活躍したブルーノ・ムナーリのプロジェクション作品を中心に、戦後美術が動きや光を伴うタイプへ展開していく様子が示される。絵画の壁展示のみならず、サウンドや記録映像、インスタレーションを組み込んだ、リズムのある展示空間だった。
これら4つのうち、まがりなりにも国内外でイタリアの20世紀美術を調査してきた筆者にとって、もっとも興味深く思えたのは3番目、「新潟にのこる空間主義」のセクションであった。「なぜ新潟にイタリアの現代美術が?」という疑問がこのセクションへ注目させたのだが、ともかく冒頭で述べた鑑賞法が作品をいっそう楽しく見せてくれたようだ。以下では現地での経験を作品とともに報告する。
ジュゼッペ・カポグロッシの《表面 539》は、作家に対する既存のイメージとは異なる印象を与える。カポグロッシといえば、黒い太線で描いた三叉のフォークのような記号を画面に配する作品で知られる。画家が日本で紹介され始めた1950年代の観衆たちもやはり同じイメージを抱いていたと推測するが、《表面 539》は意外にも、油彩による白いモノクロームの板絵で、そこにフォーク型に刳りぬいたボードを張り合わせた作品である。画面には段差が生じ、照明によってその段差が影をひいている。
エンリコ・カステッラーニの《作品》は、エンボス加工を施した真白の紙だ。四辺に余白をもたせ、小さな四角を規則的に配したあたかもマークシート用紙のような仕上がりである。ただしマーク欄には突起と窪みがつけられ、それらが交互に反復されている。カステッラーニといえばフォンタナからの影響著しい作家で、背面から複数の釘を立て、画面をテントのように張りあげた、サイズの比較的大きな作品で知られる(本展第二セクションでその実例として《拡張する表面》を見ることができる)。《作品》は何気ない小品ではあるが、画家の関心の揺るぎなさを示してくれる。それは表面の凹凸が呼び起こす知覚であり、その効果が一瞬わたしたちを前後不覚に追いやることになる。
画面との距離感を狂わせるこの効果は、ここに配された作品に通底している。セクションのキーワードは「新潟」と「空間主義」であるが、展示品の選定とキューレティングもこの鑑賞感覚に基礎づけられている。マリオ・デルイージの細かな線の集積による油彩画《G.G.28》では、線の角度や粗密がわたしたちを画面の深みへといざなう。他方、ガストーネ・ビッジの《連続111》は、白、黒、色味の異なる二種の灰で描いた1センチ前後の丸点を丹念に敷き詰めた画面だが、点の大きさと位置が絶妙にずれているため、見ていると映像酔いを起こしそうになる。それを回避するために立ち位置を変えて再度画面を臨むと、さっきとはまた違った表情を画面に見ることになる。最後にレモ・ビアンコの《3D—繰り返しの力》。これは自動車のホイールを、不定形に切り抜かれた窓から垣間見るレイヤー状の作品だが、各層は奥から順に朱、土、黄土で塗分けられており、かつそこに照明で影が落ちるため、観者が近づいたり、離れたり、横に立って覗いたりすれば、そのたび異なる相貌を見せてくれる。このように前後左右へと揺れ動く視線のありようは、このセクション唯一の日本人作家、阿部展也のエンコースティック作品《作品(ECHO GREEN)》にもひそかに実装されているように思われる。この作品のタイトルに引き付けて言うのなら、会場のこの部屋では、四方に拡がる造形の谺(こだま)を見よ、ということになるだろうか。
わたしたちは、絵のなかにイメージを見るのみならず、絵の側からの働きかけに応じていつしか身体を動かしている。展示された作品でそうした経験を得た。この、身体丸ごとの感覚に照準を合わせる作品の特徴は空間主義に続くグルッポT、そのキネティック・アートに連なるが、現に動く作品とは根本的に異なる質の知覚が会場には潜んでいた。この感覚のありようは、先述のマニフェストですでに想定されているのかもしれない。あるいは戦後イタリアの好景気を背景にして映画やテレビがもたらした映像文化の対極として検討する余地があるだろう。ただいずれにせよ、この知覚はなにも、「空間主義」の作家たちだけの関心事ではなかったことを忘れないでおきたい。
すなわち本展が日伊の前衛を通じてわたしたちに差し出してくれるのは、20世紀芸術に通底する「同時代的造形性」である。では、この前後不覚の経験とははたして何なのか──それを仔細に論じる紙幅はない。代わりに、ヒントとなる画家、マーク・ロスコの言葉を引いておこう。造形性とは「空間内を前後に動く事物の感覚によってわたしたちにもたらされるリアリティの感覚であり」、「わたしたちの眼はその道筋を上下、内外、裏表と追いかける。わたしたちは空間の旅をする」(ロスコ『芸術家のリアリティ』、みすず書房、2009年、76頁)。
最後に2点推奨したいことがある。先述したように、本展でクローズアップされたフォンタナと瀧口とともに、阿部と(最終セクションで登場する)山口勝弘が日伊交流の立役者であったことは会場でも図録でも指摘されている。だがその時代にあってとくに阿部の存在感、その幅広い見識と確かな鑑識眼はもっと強調されてもよかったように思う。2018年に広島、新潟、埼玉を巡回した回顧展「阿部展也 あくなき越境者」の図録には、(本展第3セクションの作品たちが購入されるきっかけとなった)1965年の「現代イタリア絵画展―その最新の傾向」への寄稿文が再録されており、同時代美術の展望を圧縮して語る阿部の才を伝えている。ぜひ読んでみてほしい。
また、同館2階で開催されているコレクション展にも足を運んでみてほしい。エンツォ・クッキやフランチェスコ・クレメンテなど、「トランスアヴァングァルディア(Transavanguardia)」という1980年代のイタリア美術潮流を代表した作家たちを展望できる。ほかにも、新良貴健三(しらき・けんぞう、1934〜2004)や佐々田憲一郎(1899〜1995)など、国内随一の工場地帯としても知られる福山で長く絵筆をとり続けた地元画家たちによる、日常を描いた実直な都市風景画を堪能できる。私見ではやはりこのフロアも3周の価値はある。