バンジョン・ピサンタナクーン
日本・韓国のホラーファンのあいだで熱狂的な支持を受けた『女神の継承』(2021)や、ハリウッド版も製作された傑作ホラー『心霊写真』(2004)、そしてタイの歴代興行収入No.1(当時)を記録した『愛しのゴースト』(2013)──。
タイ映画界の最前線を駆け抜けるバンジョン・ピサンタナクーン監督が、「第21回大阪アジアン映画祭」(8月29日〜9月7日)のために来日した。ホラーやラブストーリーを中心に、ジャンル映画のヒット作を手がけるかたわら、近年はプロデューサー業にも進出。若いフィルムメイカーたちにも活躍の場を与えている、タイ映画シーンのキーパーソンだ。
ピサンタナクーンと大阪アジアン映画祭の関係は、2011年3月の第6回開催で上映された『アンニョン!君の名は』(2010)まで遡る。コンペティション「来るべき才能賞」にみごと輝いたが、会期中に東日本大震災が発生したことを受けて、ピサンタナクーンは賞金全額を被災地に寄付して帰国したそうだ。
以来、この映画祭にはたびたび作品をひっさげて来日。今回は、タイの大スターであるビルキン(プッティポン・アッサラッタナクン)&PPクリット(クリット・アンムアイデーチャコーン)主演のホラーコメディ『紅い封筒』のプロデューサーとして登場した。
「タイ映画のイメージといえば、“ホラー”と“BL”ではないですか?」
筆者による単独インタビューで、ピサンタナクーンはこう言った。『紅い封筒』は、台湾映画『僕と幽霊が家族になった件』(2023)の舞台をタイに置き換えてリメイクした1作。だからこそ、オリジナル版を見たときは「この物語を、タイ人よりも先に台湾人が思いついていたことに驚いた」という。
警察官志望の不良青年・メンは、道端で紅い封筒を拾ったことから、交通事故で命を落としたゲイの幽霊ティティと結婚するはめに。あらゆる不運に祟られ、やむなく儀式を済ませたメンは、ティティが無事に成仏できるよう、心残りを解消するため奔走するが……。
「幽霊が出てくるホラーコメディであり、ストレートとゲイの男性ふたりによるBLのようでもある。いろいろな要素が絶妙に融合しているのが新鮮で面白かったのです。もともとタイ映画に近いと感じたので、我々の文化や風習を反映するかたちでリメイクしたいと思いました」
企画をひらめいたあと、すぐにビルキン&PPクリットの顔が思い浮かんだ。人気BLドラマ「I Told Sunset About You 〜僕の愛を君の心で訳して〜」(2020)でトップスターとなったふたりとは長年の知り合いだったのだ。監督には、コメディを得意とするチャヤノップ・ブンプラゴーブを起用。プロデューサーとして企画全体をまとめ上げていった。
「大切にしたのはオリジナル版の核心をきちんと守ること。いっぽうで、本来の構造がよくできているぶん、あくまでも自分たちらしい表現を目指しました。極端にアレンジしなくてもいい、自分たちの魅力やバランスがあるはずだと。“僕たちが見たいのはコレだ”と思える映画を作ろうと決めていたので、プレッシャーもありませんでした」
台湾オリジナル版で主役ふたりを演じたのは、『青春18×2 君へと続く道』(2024)のシュー・グァンハン(許光漢)と、『本日公休』(2023)などのリン・ボーホン(林柏宏)。ピサンタナクーンは「ふたりの演技は素晴らしかった」と称える。
だからこそ、タイ版の課題はビルキン&PPを「いかに魅力的に見せるか」だった。もっとも、スター俳優ふたりはこの課題も軽やかに乗り越えたようだ。
「ビルキンとPPはふたりとも面白くてチャーミングですが、コメディをうまく演じられるかは別問題。最初は心配していましたが、ビルキンは『おばあちゃんと僕の約束』(2024)に出たばかりで、劇的なシーンも笑える場面も恐れることなく演じてくれました。PPは初めての長編映画なのでプレッシャーを感じていたようですが、数回のワークショップで壁を壊すことができました」
ビルキン&PPへの信頼は厚い。「それぞれに役者としての魅力があり、演技力も確か。撮影現場でセリフの掛け合いを見ながら、台湾版とは別の魅力があると実感しました」
製作は「アジアのA24」とも呼ばれる、タイでもっとも注目されている製作会社GDH 559。『おばあちゃんと僕の約束』や『親友かよ』(2023)のほか、日本でも人気の高い受験映画『バッド・ジーニアス 危険な天才たち』(2017)などを手がけている。
ピサンタナクーンは前身となった映画スタジオ・GTH(GMM Thai Hub)で『心霊写真』を手がけて以来、すべての長編監督作でGTH~GDH 559とタッグを組んでいる。
「歴史あるスタジオで、私も22年間の付き合いです。彼らは良い映画を作ることに熱意を捧げているので、時間をかけて脚本を丁寧に作り、キャスティングも『新人でも役に合った俳優を』という姿勢。とりあえずスターを起用すればいい、とは一切考えません。つねに勇敢に突き進みながら、新しいジャンルとトレンドを業界に提案してきた会社です」
『おばあちゃんと僕の約束』は、タイ映画として初めてアメリカの第97回アカデミー賞で国際長編映画賞のショートリスト(最終候補)15本に入選。残念ながらノミネートは逃したが、確かなクリエイティブが国外から高い評価を受けたかたちだ。いまでは、タイの俳優たちが「いつかGDH 559の作品に出たい」と熱望するほどである。
ピサンタナクーン自身、じつはGDH 559の取締役の一員でもある。すなわち彼はひとりのフィルムメイカーであり、同時に業界で働くビジネスマンでもあるのだ。
では、『紅い封筒』を手がけるに至った「タイ映画といえばホラーとBL」のイメージを、自らはどのように見ているのか──そう尋ねたところ、「ジャンルがどうかではなく、まずは良い映画でなければいけません。出来の悪い作品が成功することはないから」と答えてくれた。
「多様なジャンルで映画を作っても、ヒットするものはごくわずか。タイにもホラー以外のヒット作はありますが、やはり数が少ないのです。様々なジャンルでヒット作を出すことは難しい──そもそも、ホラー映画を成功させることさえ簡単ではありません」
だからこそ、ピサンタナクーンは「ゆっくりと映画を作るべき」だという。「クオリティの高い映画を作ること自体を挑戦ととらえ、業界全体が一歩一歩、確実に成長していくべきなのです」
同時に、両ジャンルの人気には一定の理解を示している。ホラーについては「もともとタイ人は幽霊や怪談が大好き。人々はドライブや仕事のかたわら、ホラー系のYouTubeチャンネルをよく流している」という。1000万回再生を超える動画も多く、ポッドキャストが映画化されたケースもあるほどだ。
いっぽう、BLについては「タイでも一部の層が見ているもので、作品の認知度はさほど高くありません。むしろ俳優のほうが有名になっている」と語る。「タイのBL作品は、国内よりも海外でよく見られている印象です。けれどもファンの購買力が高いので、結果的に広く知られるようになった役者もいます」
ピサンタナクーンは少年時代からのホラーファンだといい、これまで数々のホラー映画を手がけるなかでキャリアを育んできた。しかしながら、長編デビュー作『心霊写真』(共同監督・脚本:パークプム・ウォンプム)を撮るまでは「ホラー監督になる気はなかった」と明かす。
「きっかけは、スタジオ(GTH)から“ジャンルは問わないので、きちんとした物語を作ってほしい”と言われたこと。『心霊写真』のアイデアをひらめき、これは良いプロットだと思って提案したら、映画にできることになったのです」
製作20周年を迎えた2024年には『心霊写真』の4Kリマスター版が製作され、世界各国で上映された。「改めて見たとき、いまでも色褪せないパワフルなラストだと思いました。だからこそ、この作品は世界中で見られつづけているのでしょうね」
長年の活動のなかでは、ホラー映画を作ることに疲れたこともあったという。しかし前作『女神の継承』では、『哭声/コクソン』(2016)のナ・ホンジン監督を脚本・プロデュースに迎えて再びホラーの前線に飛び出し、国内外で高い評価を受けた。
「若いころは“いかに観客を怖がらせるか”を考えるあまり、行き詰まりを感じていました。当時はホラーで何を表現できるのかがわからず、自分の手数も少なかったのです。けれど、いまやホラーはもっともクリエイティブなジャンルのひとつ。深みのあるテーマを語り、斬新なテクニックに挑むこともできます」
キャリアを重ねるほど、「大切なのはストーリー」という考え方が強くなった。「ホラー映画を撮るにせよ、新たな視点や物語をそなえた作品でなければ」という。近年のプロデュース業も、“とにかく良い物語を”という姿勢のあらわれだ。
青春ラブストーリー『ふたごのユーとミー 忘れられない夏』(2023)では脚本に惚れ込み、長編初監督のワンウェーウ&ウェーウワン・ホンウィワット姉妹にチャンスを与えるため、初めてプロデューサーを引き受けた。「個人的にはエドワード・ヤンやホウ・シャオシェンのクラシックな台湾映画が大好き。そういう作品をタイで作ってみたかった」という。
前述の『紅い封筒』は自ら発案した企画だが、やはりチャヤノップ・ブンプラゴーブ監督に「チームを率いる機会を提供したい」と考え、プロデューサーとしての仕事に専念。撮影にも立ち会い、ときには相談に乗り、ときにはアイデアを提案したが、「最後に決断するのは必ず監督でした」と話す。
タイ映画はいまだ成長の過程にあるが、政府による業界への支援は先行き不透明だ。近年は、文化・観光産業などを支援する「ソフトパワー戦略」の恩恵を受けてきたが、「今後がどうなるかはわからない」という。
「いま、タイ政府は大きく変化している途中なので、これまで通りの支援を今後も受けられるのか、あるいはそうでないのかがわかりません。映画や文化に対し、予算を使ってもらえるかは未知数です」
現在、ピサンタナクーンは『女神の継承』以来5年ぶりとなる監督最新作を準備中。再び挑むのもホラー映画で、タイトルは『Inherit(英題)』。本国タイでは2026年末に劇場公開予定で、撮影も「もうすぐ始まる」という。
「『悪魔の継承』というタイの小説を映画化します。過去に3回テレビドラマ化されており、年長世代のタイ人なら誰もが知っているキャラクターたちが登場します」
気になるのは、前作が『女神の継承』で、新作のキーワードが「悪魔の継承」であることだ。何か関係性があるのかと尋ねると、「少し関連しています」と教えてくれた。
「タイのホラー映画で表現できることや、自分自身がワクワクできることはまだたくさんあると感じています。これからもホラー映画を作りつづけていくつもりです」
バンジョン・ピサンタナクーン
デビュー作『心霊写真』(2004)が国内外で批評的にも興行的にも成功を収め、その後、『Alone』(2007)、ホラー・コメディのオムニバス『フォービア 4つの恐怖』(2008)、『フォービア2 5つの恐怖』(2009)、ロマンティック・コメディ『アンニョン! 君の名は』(2010)などのヒット作を生み出した。コメディとホラーの融合、そして切れ味鋭い台詞回しで知られ、『愛しのゴースト』(2013)は興行収入10億バーツ、観客動員数1000万人を記録し、タイ映画史上最高の興行成績を樹立した。近年の作品には、ナ・ホンジンのプロデュースによるタイ・韓国合作映画『女神の継承』(2021)があり、複数の国で記録的な成功を収めた。プロデューサーとしても活動の幅を広げ、『ふたごのユーとミー 忘れられない夏』(2023)、『紅い封筒』(2025)を手がけている。