公開日:2025年3月13日

映画『Broken Rage』の「笑えなさ」。北野武/ビートたけしの対立と分離(文:西村紗知)

北野武が監督・脚本・主演を務めたAmazon Original映画『Broken Rage』が、2月14日からAmazon Prime Videoで配信されている。映画を前後半に分け、後半は前半をコメディータッチでパロディするという実験的な作品。配信開始と同時に賛否を呼んでいる本作は、なぜ「笑えない」のか。2023年に単著『女は見えない』を上梓し、音楽やお笑いなどについて批評を行う西村紗知が論じる。

『Broken Rage』 © 2025 Amazon Content Services LLC or its Affiliates.

「暴力映画におけるお笑い」をテーマにした新作映画

まず、清塚信也の音楽が美しい。いまとなってはクラシカルなものとなった20世紀前半の現代音楽のエッセンスを取り入れ、シックであり且つ流麗なアンサンブルでもって映画に貢献している。今回のような実験的な取り組みにではなく、もっとベタな北野映画で清塚の音楽が鳴り響いているのを聴いてみたいと思った。

Amazon Prime Videoで2025年2月14日から独占配信され、ヴェネチア国際映画祭にも出品されたことで話題を呼んでいる、北野武監督作品『Broken Rage』。主演は監督自身(ビートたけし名義)が務め、これまでにも北野映画で活躍してきた、浅野忠信、大森南朋、白竜、中村獅童といった豪華な俳優陣が脇を固める。内容は前後半に分かれており、通して1時間ほどなので映画としては短めだ。前半では、これまでのヤクザ映画路線を思わせる、バイオレンス・アクションが堪能でき、後半は前半の内容をそのままパロディし、コミカルに演じたものとなっている。「暴力映画におけるお笑い」をテーマに制作したとのことで、確かに文字通り「暴力」と「お笑い」からなる映画だ。

白竜演じるヤクザの「かわいさ」と、北野武のリアルな老体

いま現在ネット上のレビューでは低評価が優勢だ。その原因は恐らく、後半のコメディーパートにある。多くの人がここを率直に笑えないと判断しているのだろう。

日本国内で主流の「お笑い」に慣れている人が、同じ熱量でもってこの作品で笑えるかと言えば正直厳しいだろう。そもそも笑わせる目的のみに奉仕した作品にも思えない。私自身、お笑い芸人の出演シーンをどういうふうに見たものか正直戸惑いを禁じ得なかった。『ソナチネ』(1993)で、ヤクザの村川が雀荘の主人をクレーンで吊って水責めにするシーンを見たことがある人なら、そこで「暴力映画におけるお笑い」が苛烈なまでに実行されたのを知っているだろうけれども、今回、ヤクザ組織の会長役の長谷川雅紀(錦鯉)が水風呂の中で殺されるシーンは、もちろん尺と役柄が違うので単純には比較できないにせよ、ずいぶんあっさりしていて味気ない。突然登場する眼科医役の鈴木もぐら(空気階段)の奇特なパフォーマンスにしても、たけし軍団の成員たちが追い込まれて繰り出す行動の奇特さとはやはり毛色が違う。コンビや集団で活躍するお笑い芸人である彼らが、普段の関係性から取り外されているのも見方に困る一因かもしれない。他方、劇団ひとり演じる椅子取りゲームの司会者は、急に椅子取りゲームをやらねばならなくなったという、この状況に見合った狂気を顔面に湛えていたため惹かれた。

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私の場合、素直に笑いがこみ上げてきたところが3ヶ所あった。ビートたけし扮する殺し屋のねずみが、ルームランナーの手前の何もないところでつまずいているところと、白竜が演じる組織の若頭である富田が、ねずみが急に繰り出した「コマネチ」に普通に笑っているところ、それから、椅子取りゲームのトロフィーが破損したことを巡って、組織のボスである金城(中村獅童)とねずみが、薬物製造所を取り仕切る田村(宇野祥平)を厳しく叱責している横で、同じく富田がこらえきれず笑い出すところ、である。つまり私は、ビートたけしよりも白竜で笑っている。身体がうまく制御できていない表現が、普通に可笑しかった。わざとなのか本当なのかがわからなかったから可笑しい。これがあまりにも本当らしかったらかえって興醒めだ。

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北野武のリアルな老体を前にした戸惑いを、前後半通じてつねに感じざるを得ない。笑いものにするにはあまりにいかつい。彼がギャグをやったり、こけたり、「チュウ」と鳴いたり覆面を着けておどけてみたりしたところで、怖いわけではないが一瞬戸惑ってしまう。その肉体はこわばっていると同時に、腹回りが豊かなためフォルムが丸っこい。相反する感触が同居しているものに見える。

なぜ富田で笑ってしまうかと言うと、「かわいい」からだ。富田の顔には両面性がある。厳しさと人の良さ、冷酷さと甲斐甲斐しさとの両面が顔に同居していて、破顔するとその顔に両面性があったとわかる。そういう顔は「かわいい」と思える。人の良さや甲斐甲斐しさを顔に出さないようにしている顔に見えてしまう。もっと困った状況に陥ってほしくなるような感じがする。

どうせさほどひどい目に遭いやしないだろう、とシラケた気持ちで見ていたら、やはりねずみの一挙一動で笑うことは難しい。富田の顔にあるような両面性が、北野武の肉体には宿っていない。

確かに、この年老いた殺し屋は威厳があるのと同時に、転びやすく危なっかしい。危ない人間であり、危なっかしい人間だ。それはよくいる老人に違いないのだが、その両面性は前後半に振り分けて無理矢理引き剥がされてしまっている。かつて評論家の阿部嘉昭は『北野武VSビートたけし』という本を上梓したのだったが、今回のこの映画は、北野武/ビートたけしの対立と分離を、なんとか保持しようとしているように見える。ひとりの人間が老いるということは、もはや北野武ともビートたけしともつかない存在になることなのかもしれないのだが、そうなることをこの映画は彼に許していない、と私は思った。

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「コマネチ」が象徴するもの

なぜ笑えないのかと考えるならば、これまでビートたけしをいかにして笑ってきたか、ということについて考えねばならない。

ビートたけしは「お笑い」の名目のもとで、「裸の王様」を「裸」と指摘するという、このことをやってきた人ではないか。彼自身の笑いのロジックの根本に、裸の王様を見つけ出す、いや、より正確には、人々がある存在を裸の王様と見做したがらない現実を看破する才覚があるように思えてならない。

今回、半ばヤケになって繰り出されたように見える「コマネチ」というギャグはその象徴的な例だ。「コマネチ」とはどういうギャグかというと、体操のコマネチ選手の衣服の際どさを身ぶりで表現し、ハイレグをハイレグと指摘するという、それくらいしか説明しようがない。それは、第一線で活躍するスポーツ選手の衣服を、そういうものと見てはいけないと思う各々の心理的な機制が働いているがゆえに笑いを引き起こすものだろう。微妙なところだが「コマネチ」というギャグ自体が可笑しいのでも、コマネチ選手自身が面白いのでもない。コマネチ選手と「コマネチ」というギャグの身ぶりとを、真っ直ぐ結びつけることに抵抗がある人を、笑いものにする儀式としてこのギャグは成立しているのではないかと思う。

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この儀式が触れているのは、広義のわいせつだ。この場合わいせつとは、隠蔽作用のほうが本能の前にせり出して、本能より強いものとなり、果てには本能に取って代わってしまったかのような状況を言う。「コマネチ」というギャグが浮き彫りにするのはこの状況だ。ギャグが、コマネチ選手の衣服をそういうものとして見ない人のほうを、わいせつだと認定するのである。

わいせつを巡る批判精神は、お笑い芸人・ビートたけしだけでなく、彼の本名であり、映画監督であるのみならず著作においてはシリアスな思索を展開する、北野武の活動にも当然のことながら共通している。本能を隠蔽するものや、自然本来の在り方を覆い隠すもののことを、北野武がどういうふうに嫌悪しているかは『新しい道徳』(2015、幻冬舎)で明瞭なものとなっている。北野武は美食を嫌悪する。それは母親から「食い物が旨いとか不味いとかいうのは下品だ」と言われて育ったからだという。確かに、趣味判断の対象としてのみ食べ物をとらえるのは、その食べ物がかつて生き物だったのであり、その命を誰かが奪ったのだという、具体的な生死を隠蔽する人のやることだ。本能を隠蔽する営為の最中で、己の本能をじつはひけらかしている美食というものもまた、広義のわいせつと言ってよいだろう。

要するに、広義のわいせつとは人々の道徳的頽落である。道徳的頽落とは、自分だけが生き残りたいという自己保存の精神だ。北野武は「道徳的に頽落してはならない」という己の規律を、人々の道徳的頽落を前にして一層逞しいものとする。他方で、北野武には「道徳は他人に押しつけたり、押しつけられたりするものではないのだ」(p.147)という規律もある。自分の生き方の中で、道徳はひとりひとりがつくっていくものだ、という理想が彼にはある。

それならどうすればよいのか。私は、この「道徳を他人に押しつけてはならない」という規律の力で、北野武はビートたけしに変身できるのではないか、と思う。道徳的頽落を笑うことは、道徳の押しつけにはならない。ビートたけしは人々の道徳的頽落の力でもって、人々に笑いを届けてきたのではないか。ビートたけしを笑うとはこういうことだと思う。

だが彼の「お笑い」は、「道徳的に頽落してはならない」と「(道徳的頽落を批判するような)道徳を他人に押しつけてはならない」という二つの規律へと、ひとりの人間を「北野武」と「ビートたけし」とに引き裂き続ける行為でもあったのではないか、とも思う。

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別に人々の道徳的頽落が解消されたわけではないのだろう。ただ、思えばコマネチ選手本人に「コマネチ」というギャグをやらせてみたところであまり笑えないのと同じように(見てみないとわからないが)、北野武本人にビートたけしをやらせてみても、それほど笑えるものとはならなかったのだ、と。『Broken Rage』を観た私の感想は、結局のところそういうものだ。仮に本作のビートたけしに北野武を裸の王様だと指摘する意思があったとしても(あるいは逆でも)、その指摘はやはり別の肉体によってなされるべきなのだと思う。

北野武とビートたけしは引き裂かれたままなのか

いまや私の関心は、このまま北野武とビートたけしは引き裂かれたままなのだろうか、というところにある。

社会問題についての発言をまとめた『ビートたけしの世紀末毒談』(1991、小学館)を読むと、次のような箇所があった。消費税について発言している箇所なのだが、私はここを読んで、北野武とビートたけしとが絆で結ばれているのを間近に感じるような心地になる。

どうせ将来は外国なみに、十パーセントだ十五パーセントだってだんだん上がっていくんだよ。

もう、国のやってることは、ヌードスタジオのポン引きと一緒なんだからさ。「お客さん、もう二千円出してくれると、パンツも脱ぐんだけどね」「あと三千円出すと、もっといいことできるんだけどな」って、どんどんどんどん吊り上げられていってさ。結局は身ぐるみはがれて全部取られちゃうんだよ。(p.56)

当時の段階で消費税が10%まで上がることを難なく予言していたことについて、この人の頭の良さと、この国の社会の進展の無さ、どちらに驚くかは人それぞれだ。重要なのは、消費税が課される「社会」という公共的な場と、北野武がビートたけしに成った研鑽の場である「フランス座」とが重なり合っていることだ(フランス座はヌードスタジオではないが、ストリップ劇場であったという)。

自分がかつて居た場所の、それも自ら巣立っていった場所の、人々の言葉を振り落とせない。ここを読んで私はそんな彼の姿を思った。「映画監督・北野武」とはつまるところ、日本映画の遺産を引き受けるプログラムのことなのかもしれないし、今回の後半コメディーパートで、ビートたけしは転ぶ自分の肉体に、ポール牧の遺産を意識していたのかもしれない(YouTubeで配信されている公式インタビューでは、北野武がポール牧の名前を口にする場面があった[*])。

だが、遺産を引き受けることと、無名の人々のことを振り落とせずにいることとはまったく違う。もし本当に実験的な精神を北野武/ビートたけしの二つの名の元で試そうとするなら、まさに自分自身が振り落とせないものと対峙することを彼は選び取るべきだったのではないかと思う。

*──『Broken Rage』特別インタビュー映像|プライムビデオ https://youtu.be/fmKgRlXNVkY?si=MOlFHaczOZSVUUED

『Broken Rage』

監督・脚本・編集:北野武
出演:ビートたけし、浅野忠信、大森南朋、仁科貴、宇野祥平、國本鍾建、馬場園梓、長谷川雅紀(錦鯉)、矢野聖人、佳久創、前田志良(ビコーン!)、秋山準、鈴木もぐら(空気階段)、劇団ひとり、白竜、中村獅童
音楽:清塚信也
製作:Amazon MGMスタジオ
制作プロダクション:北野エージェンシー
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配信ページ

西村紗知

西村紗知

にしむら・さち 1990年鳥取県生まれ。批評対象は主に音楽。東京学芸大学教育学部芸術スポーツ文化課程音楽専攻(ピアノ)卒業。東京藝術大学大学院美術研究課芸術学専攻(美学)修了。単著に『女は見えない』(筑摩書房、2023年)、論考に「椎名林檎における母性の問題」(『すばる』2021 年 2 月号/第 4 回すばるクリティーク賞)、「お笑いの批評的方法論あるいはニッポンの社長について」(『文學界』2022年1月号)、「いしいひさいちについて」(『すばる』2024年8月号)など。ちえうみPLUSにて「新しい典礼」を隔月連載中。