公開日:2025年10月15日

実写映画『秒速5センチメートル』はいかに原作アニメに挑んだか。新海誠の「初期3部作」を再解釈する、もうひとつの公転周期(評・北出栞)

奥山由之監督、松村北斗主演の実写映画版が公開。新海誠の原作を論じた『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』著者が評する、本作をたんなる「ノスタルジー消費」ではないものにしているのは何か。

『秒速5センチメートル』 © 2025「秒速5センチメートル」製作委員会

新海誠の人気アニメーション映画『秒速5センチメートル』(2007)の実写版が、10月10日に公開された。

主人公・遠野貴樹と、小学生のときに出会った篠原明里との関係を軸に、1990年代初頭から2000年代末までを3つの時間軸で描く本作。新海作品のなかでも特に人気の高い作品の実写化にあたり、監督には商業映画デビュー作となる写真家・映像作家の奥山由之、貴樹役に松村北斗、明里役に高畑充希が起用された。

原作アニメの公開から18年の時を経て届けられた実写版は、ともすれば「ノスタルジー消費」として受け止められる可能性もあるが、アニメの倍ほどの上映時間となった本作は、いかにして原作の表現、そして主題に挑んだのか。原作アニメから改変された箇所を中心に、新海誠についての論考も収録した著書『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ―デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術』などで知られる北出栞が論じる。【Tokyo Art Beat】

*本記事は、映画の展開や結末に関わる記述を含みます。ネタバレを気にする読者の方は、映画の鑑賞後にお読みになられることをおすすめします。

「総MV化」する商業映画、「リメイク」を要請する現代のメディア環境

新海誠のアニメーション作品『秒速5センチメートル』(2007、以下『秒速』)の実写版である本作を取り上げるにあたって、まずはこのようなリメイク企画が成立した背景にある、現代の商業映画を取り巻くメディア的な条件を明らかにする必要がある。そのためには、主題歌を担当する米津玄師の存在や、新海の「MV的」と言われる作風についての言及が不可避である。

本作の監督を務めた奥山由之は、2010年代初頭に写真家としてデビューした後、映像作家としてはCMやMV(ミュージックビデオ)の世界でキャリアを積み上げ、米津とは「感電」(2020)のMVディレクターとして初めて関わりを持った。国内を代表するMVディレクター出身の映画監督である岩井俊二、その影響を公言する新海誠も時に「MV的」と言われる作風を持つ作家で、こうした系譜の延長としてプロデュースサイドが奥山に白羽の矢を立てたことは想像に難くない。

しかし、この「MV的」という言葉はあまりにもマジックワードにすぎる。岩井作品、新海作品、そして奥山による本作から帰納するならば、劇中におけるボーカル曲の役割の重視や、(自然光由来かデジタルエフェクトかの差異はあれど)極端に露光した画面設計による主観性の強いストーリーテリングが特徴として挙げられるだろう。しかし新海作品に対して「MV的」と言う場合は、音楽のリズムに合わせて静止画を高速で切り替えるスライドショー的な演出スタイルという含意もある。このスタイルはPC1台での個人制作からキャリアをスタートした彼の出自に由来しており、米津がかつてボーカロイドクリエイター「ハチ」時代に自作していたMVにも通ずるものがある。

現代の商業映画は、新海=ハチ的な意味で「総MV化」していると言える。スマートフォンの普及により細切れな映像消費を行うようになった観客を動員するため、ショート動画の単位で切り出しやすいトピックがチェックリストのように並べられる。本作で言えば、『すずめの戸締まり』(2022)の松村北斗や『天気の子』(2019)の森七菜ら「新海ユニバース」を背景にしたスターシステムの採用がそれにあたる。彼ら彼女らのクロースアップショットはBGMや印象的なセリフを書き出したテロップと組み合わされ、TikTokなどのソーシャルメディアで流通する。個人制作によるリソースの乏しさゆえにスライドショー的なスタイルを選択せざるを得なかった新海が時代の寵児となっていった背景には、こうしたメディア環境の変遷もあったと言える。

奥山は、自身と同じMVディレクターの出自を持つスパイク・ジョーンズの「現実と非現実のあわいで人間を描く」作風に影響を受けたと語っており(*1)、本作の過去パートにおける柔らかな光に満たされた画面には、その影響が如実に感じられる。しかし、本来時系列が曖昧な作品でこそ活きる光の演出は、3つの異なる時代を描くという原作由来の要素の上ではたんなるノスタルジー表現として受容されてしまいかねない危うさがある。新海固有のスライドショー的なスタイルや原作カットの生真面目な再現もファンサービス的な印象が先行し、本作をもって奥山の作家としての真価を問うには材料不足という印象が残った。しかしこれは彼の力量不足というより、チェックリストを埋めるような企画しか稟議を通らない業界の現状や、そもそも「MV的」なる概念が未整理であることなどの構造的な問題が大きいだろうと筆者は考えている。

「ロマンチックラブを否定」した、新海誠の「初期3部作」

ともあれ、そんな商業映画特有の構造的問題があるなか、ベストエフォートとして何をなしたのかが今後の奥山のキャリアにとって重要となる。筆者が本作からもっとも強く感じた美点は、原作の文芸的な主題に対する批評的な再解釈の手つきである。原作を倍近くの上映時間に再編成するため、どういった主題にフォーカスし、どんな要素を膨らませたのかという取捨選択に宿る意志が、本作をたんなる「ノスタルジー消費映画」ではないものにしているのだ(脚本を担当した鈴木史子の手腕も大いに評価されるべきだろう)。

あらためて説明すると、原作『秒速』は公開当時の2000年代末を現在時点として、3つの時代を描く短編連作である。主人公・遠野貴樹を中心に、幼少期の初恋と離別を描く第1話「桜花抄」、貴樹に想いを寄せる同級生の視点から高校時代を描く第2話「コスモナウト」、そして現在の社会人生活を描く第3話「秒速5センチメートル」である。今回のリメイクにあたり改変されたもっとも目立つ点として、貴樹の初恋の相手である篠原明里の社会人生活が描かれている点があり、書店員として勤務する設定などは加納新太によるノベライズ『秒速5センチメートル one more side』を参考にしていると思われる。

社会人になりプログラマーとして働く貴樹は、周囲の人間関係を希薄にし、機械に自分を同化させるようにして、漠然と「高み」へと近づくことを人生の由としている。この姿は、勤めていたゲーム会社を辞め、PCに向かい孤独に作品を作ることに没頭した新海自身の姿に重なる。

そのようにして生み出されたデビュー作『ほしのこえ』(2002)に加え、『雲のむこう、約束の場所』(2004、以下『雲のむこう』)、そして『秒速』は、新海誠の「初期3部作」として一括りにされることがある。新海自身もその共通項を認め、これらの作品を「ロマンチックラブを否定する作品」として作ったと述べている(*2)。孤独な自主制作という新海の出自を加味するならば、ここでいうロマンチックラブの否定とはたんに結ばれないカップルを描くということだけではなく、何か絶対的な理想への決別と読み換えられるだろう。今回の実写映画化に際しての新海のコメント(*3)を借りるならば、それは「青さ」と言えるものである。

初期作品は新海にとって何とかして振り切った呪いのようなものであり、自ら強いて振り返ろうとすればたんなるノスタルジーにしかならないものだろう。しかし、商業的な要請があったとはいえ、奥山という第三者による再解釈を介して、作家自身も気づいていなかった価値が新たな作品として結実することになった。そこで奥山が取ったアプローチは、『秒速』以外の初期作品である『ほしのこえ』『雲のむこう』からそれぞれ固有のモチーフを抽出し、『秒速』を再解釈するための補助線とするというものである。

「同期」と「縁」を描く宇宙のモチーフ

実写版独自の展開として、貴樹は会社を辞めた後、フリーのプログラマーとして科学館のプラネタリウムのプログラミングに携わることになる。ナレーション役も務めることになり、そこで自らの声で語るのが、地球を旅立ったふたつの探査機ボイジャー1号・2号の話である。別々の方向へ旅を続けるが、お互いに見えない縁によってつながっているという解釈が示され、その声をたまたまプラネタリウムを訪れた明里も聴いている。このボイジャーの話は、明らかに貴樹と明里の関係のメタファーである。

そしてこれは『ほしのこえ』のカップル、長峰美加子と寺尾昇の姿にも重なる。宇宙船に乗ったミカコが遠くへ行くたびにズレ続けていくふたりの時間だが、地球と宇宙に分かたれたふたりの「ここにいるよ。」というセリフがラストに(観客にのみ聴こえる声として)重なることで、どんなに時空間が隔てられたとしても、いつかは想いが同期することへの祈りが示されていた。

「ズレ続ける時間」とその同期の象徴として宇宙モチーフをとらえる視点は、今回の映画においてはロックバンド・BUMP OF CHICKENの楽曲を補助線にして強調される。新海と同時代にデビューした彼らの挿入歌としての起用は、たんなるノスタルジー喚起のための記号ではない。作中で流れる「銀河鉄道」の歌詞は、<人は年を取る度 始まりから離れていく/動いていないように思えていた 僕だって進んでいる>と相対性理論的な感覚を歌う。また原作『秒速』の公開と同年にリリースされ、その名も「voyager(ボイジャー)」という楽曲から始まるアルバム『orbital period』のタイトルは、当時のメンバーの年齢と暦の関係の不思議(*4)に着想を得た、「公転周期」を表すものである。

そして米津玄師は10代の頃、BUMP OF CHICKENと『君の名は。』(2016)以来の新海のパートナーであるRADWIMPSを等しく好んで聴いていたと語っている(*5)。筆者は彼と2学年違いなので、両者を並列に語る感覚は世代的にもよくわかる。『君の名は。』の特報が公開された当時、ギターサウンドがフィーチャーされていたこと、彗星モチーフが表れていたことから「音楽は(宇宙モチーフを多用する)BUMP OF CHICKENが担当なのではないか?」と同世代の友人たちと盛り上がったものだ。実際にはRADWIMPSが担当だったわけだが、彼らは遺伝子や神などのモチーフを通じて、特定の相手との運命的な関係を強調する楽曲を多く送り出してきたバンドである。新海自身、『君の名は。』では「人生には出会うべき相手がいる」という主題を描きたかったと語っており(*6)、RADWIMPSとともに「ロマンチックラブ」を肯定する方向に向かったことが、キャリアの大きな分岐点だったと言える。これを踏まえると、米津と同学年である奥山の、新海の歩むはずだった「もうひとつの可能性」を掬い上げようとする世代感覚も、今回のBUMP OF CHICKENの起用には透けて見える。

つまりBUMP OF CHICKENの楽曲を導入するという行為を通じて、新海誠とその解釈者である奥山自身の関係をも、ボイジャー1号・2号の関係として織り込んでいるのである。奥山は当時の新海と同年齢で今回監督を務めたことの奇跡を語るが(*7)、逆に言えば年齢くらいしか同期する点はない。他人だからこそ、すでに置いてきた面映ゆい過去としてではなく、フラットに作品を解釈することができる。これは結ばれることはなく遠く離れていきつつも、お互いを大切に想い合う本作の貴樹と明里の着地点にも重なるものだろう。

「約束」の喪失と、「世界の終わり」

実写版ではともに東京で働く貴樹と明里を間接的につなぐ人物として、原作には存在しない科学館の館長が登場する。彼を演じるのは、『雲のむこう』の主人公・藤沢浩紀を演じた俳優、吉岡秀隆である。『雲のむこう』の結末は、世界を崩壊させる力を持つ巨大な「塔」と接続した想い人・沢渡佐由理を浩紀が救うものの、その代償として佐由理が浩紀と過ごした記憶は失われてしまうというものだった。

「約束の場所を失くした世界で、それでも、これから僕たちは生き始める」という印象的な浩紀の台詞で同作は幕を閉じるのだが、吉岡演じる科学館の館長は、そこから年を重ねて「約束の場所を失くした世界」を生き抜いてきた、浩紀のもうひとつの姿として見ることができる。その存在は、年を重ねることが新たな解釈に目を見開かせ、生きてさえいればかつて経験した物語を語り継げるということを示している。新海の歩んできた道のり、彼自身の加齢をも肯定する態度がそこには見受けられるだろう。

さらに原作にはなく、かつ『雲のむこう』に通ずる要素として、中学時代の貴樹と明里が最後の夜に交わした「2009年に小惑星が地球に衝突するかもしれないから、そのときはここで一緒に世界の終わりを迎えよう」という「約束」の存在がある。2000年代末を「現在」として描くことには、本作がリメイク作品であり、原作当時の「現在」であったからという以外に深い理由を探すのは難しい。そこに積極的な意味を与えるために、本作は実際に1991年に発見された小惑星・1991BAに着目した(作中では1991EVと名前を変えられ、2009年に地球に衝突するリスクがあるとされる設定になっている)。

2009年、貴樹はひとりで約束の場所へと赴くが、明里は現れず、「世界の終わり」も訪れなかった。この展開により、『雲のむこう』の「ふたりの約束が消えても、世界は続いていく」というテーマがリフレインする。そして後日、貴樹は館長を介して、現在の明里の想いを受け取る。「昔の約束なんて忘れて幸せになってほしい、彼なら絶対に大丈夫だから」と。

この「大丈夫」という言葉を巡っても大きな改変が加えられている。原作の別れのシーンで明里は貴樹に「貴樹君は、きっとこの先も大丈夫だと思う、絶対」と言った。原作の貴樹は、その根拠のない「大丈夫」が頭に残り続けていたために、明里と音信不通になった後、自らを痛めつけるように仕事に打ち込み、その呪縛を振り切ろうとした。しかし実写版では、「大丈夫」というその言葉自体を貴樹は忘れてしまったという設定になっている。忘却とともに心に空白が生まれ、第三者の伝言を介してそれが埋まるという儀式的なプロセスを経ることで、貴樹は巡り巡る縁の中に、明里の存在を位置づけ直すことができたのである。

「無駄な過去なんてひとつもない」

総じて、本作はノスタルジー需要に応える「リメイク」という形式に頼らなければ企画が成立しづらい商業映画の困難と、そのリメイクという営み自体を自らの来歴と重ね合わせ、いかに作品の主題へと昇華するかという現代の作家の挑戦が表れた1本だと言える。おそらく本作をたんなるノスタルジー消費映画や主演の松村北斗によるスター映画としてとらえる人は多いだろうし、昔からの新海誠ファンが原作との相違点に批判を加える姿も容易に想像できる。しかし、本作が原作の再解釈を通じて強調していたのは、詰まるところ「無駄な過去なんてひとつもない」ということであり、自らが気づいていない「縁」に気づくことで、そう思えるようになるということもまた強調されていた。

いまはしがらみとしか感じられないものも、遠く時空間を隔てて振り返ってみれば良いところが見えてくるという本作の主題は、本作そのものにも適用されるものであるはずだ。同世代の贔屓目もあるかもしれないが、筆者は奥山の本作での挑戦と今後の道行きに、幸あれと祈るばかりなのである。

*1──以下のインタビューを参照。「「アット・ザ・ベンチ」監督・奥山由之インタビュー|実在のベンチを舞台にした“濁りのない”物作りを語る」映画ナタリー https://natalie.mu/eiga/pp/at-the-bench
*2──新海の4作目『星を追う子ども』(2011)公開時の舞台挨拶レポートより。https://www.cwfilms.jp/hoshi-o-kodomo/report_01.php
*3──映画公式SNSアカウントの投稿より。https://x.com/5cm_movie_2025/status/1952822668085821476/
*4─この「不思議」の詳細は、ボーカル&ギターの藤原基央が当時を振り返って自ら綴ったエッセイに記されている。 https://www.bumpofchicken.com/contents/general_articles/1181
*5──以下のインタビューを参照。「米津玄師「BOOTLEG」インタビュー|オリジナルってなんだ? “海賊盤”に詰め込んだ美と本質」音楽ナタリー https://natalie.mu/music/pp/yonezukenshi11/
*6──以下のインタビューを参照。「『君の名は。』新海誠監督インタビュー~運命の人はいる、ということを伝えたかった~」シネマトゥデイ https://www.cinematoday.jp/page/A0005142
*7──映画公式SNSアカウントの投稿より。https://x.com/5cm_movie_2025/status/1930912564025942105

『秒速5センチメートル』 

公開中
原作:新海誠 劇場アニメーション『秒速5センチメートル』
監督:奥山由之
脚本:鈴木史子
音楽:江﨑文武
主題歌:米津玄師「1991」
劇中歌:山崎まさよし「One more time, One more chance 〜劇場用実写映画『秒速5センチメートル』Remaster〜」
出演:松村北斗、高畑充希、森七菜、青木柚、木竜麻生、上田悠斗、白山乃愛、宮﨑あおい、吉岡秀隆
©2025「秒速5センチメートル」製作委員会

北出栞

きたで・しおり 音楽・メディア論の領域を中心に取材・執筆・編集・企画。単著に『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ――デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術』(太田出版、2024年)。寄稿に『牛尾憲輔 定本』(太田出版、2025年)、『別冊ele-king 日本の大衆文化はなぜ「終末」を描くのか――漫画、アニメ、音楽に観る「世界の終わり」』(Pヴァイン、2024年)など。