公開日:2025年1月29日

スマホ以後の造形批評:デザイン・テクノロジーとアート【連載】クリティカル・シーイング:新たな社会への洞察のために #6最終回[前編](文:石川卓磨)

「美術批評」はいかにして新たな可能性を示すことでできるのか? 美術家、美術批評家として活躍する石川卓磨の連載最終回・前編。

ジャスパー・ジョーンズ Perilous Night 1982 National Gallery of Art, Washington, DC; Robert and Jane Meyerhoff Collection, 1995.79.1. © 2021 Jasper Johns/VAGA at Artists Rights Society (ARS), New York. 「Jasper Johns: Mind/Mirror」出展作品 出典:https://press.philamuseum.org/lifetime-retrospective-dedicated-to-jasper-johns-presented-simultaneously-in-new-york-and-philadelphia/

「クリティカル・シーイング:新たな社会への洞察のために」は、これからの「美術批評」を「つくることの思想」と定義し、新たな批評とアートの在り方に迫る連載。

第6回となる今回はスマートフォン以後の造形批評がテーマ。ジャスパー・ジョーンズから環境運動団体「ジャスト・ストップ・オイル」、マリーナ・アブラモヴィッチ、近藤恵介や千葉正也までを横断しながら、造形芸術のパラダイムをいかに展開させるかについて前後編で論じる。【Tokyo Art Beat】

直感を操作するデザイン・テクノロジー

いまやデザインと言うと、どう装飾するかよりも、人にどう働きかけ、影響を与えるかという側面が強い。人の行動を追跡したり、テストしたり、心理学、行動経済学、統計、実験科学の観点から研究されたりするものだ。——ハリー・ブリヌル(*1)

本論では、「スマートフォン以後の造形批評」を提示する。現代においてデザインやテクノロジーが急速に発展するなか、造形芸術のパラダイムをいかに展開させるかについて論じていく。

21世紀は、人間の無意識や習性を利用し、心理や行動を操作しようとするデザインの時代である。この現象を考える際、イソップ寓話『北風と太陽』を引き合いに出せるだろう。寓話では、北風と太陽が旅人からコートを脱がせる方法を競い合う。北風は強風でコートを吹き飛ばそうとするが、旅人はコートをさらに押さえ、失敗する。いっぽう、太陽は温かな日差しで旅人に解放感を与え、彼自身の意思でコートを脱ぐよう促し成功する。旅人は自由意志で行動したと思い込むが、その選択肢を用意したのは太陽である。

この寓話は、ふたつの教育モデルを対比するものとしても読み取れる。北風は強制や厳しさに基づく教育を象徴し、太陽は寛容さや自主性を引き出す教育を示している。太陽の教育モデルは、経済学者リチャード・セイラーと法学者キャス・サンスティーンによる「ナッジ理論」に通じる。ナッジ(nudge)は「軽く押す」「そっと後押しする」という意味で、強制や命令ではなく、環境や選択肢の提示方法を工夫し、人々が自然に好ましい行動や最良の選択を取るように促す理論である。

行動経済学であるナッジ理論は、保険、都市環境、消費行動など幅広い分野で実践されているが、インタラクティブ技術を活用したデジタル機器やアプリの分野にも及ぶ。デジタル分野では「説得的デザイン」とも呼ばれ、複雑な機器やアプリを直感的に操作できるようにし、誤操作を防ぐ微調整機能に役立っている。また、直感に応じたデザインは、操作方法を伝える際の言語的な説明を最小限に抑え、よりスムーズな体験を実現する。AppleのCMから商品の解説が消え、iPhoneのような高度に複雑な機器から分厚い説明書がなくなり、IKEAの家具の組み立て説明書はイラストが中心で文章がほとんどない。これは、私たちが機械や道具を直感的に理解し、操作できるようデザインが高度に設計されているためだ。また、Amazon楽天市場などのECモールでは、購入を促進するために、FacebookやLinkedInといったSNSではユーザーの注意を「いいね」や拡散へと向けるために、赤や青などの色彩を巧みに活用するなど、ウェブサイトの細部にまで説得的デザインのテクニックが駆使されている。

より良い選択や行動を人々に促すナッジの設計には、デザインの力が求められる。しかし、人々に自由を感じさせながら行動や選択をコントロールする技術は、設計者の善意や悪意で単純に分けられるものではない。ナッジは「望ましい行動」を想定して作られるが、この望ましいとは誰にとっての望ましさなのか。意図的に人を欺くものは「スラッジ」や「ダークパターン」などと呼ばれるが、操作の原理において、設計者の意図による善悪の区別が明確ではないグレーゾーンは存在する。

デザインを、いわゆる物事を便利にし、問題を解決し、人々を幸福にする明るく善良なものとしてだけでなく、そこに潜む、人間を飼い慣らす「罠」のような側面にも目を向ける必要がある。そのためには、道具をたんなる使用対象としてではなく、観察の対象としてとらえる視点が求められる。

アンドレアス・スロミンスキーは実用的な「トラップ(罠)」を彫刻として展開した作家として知られている。彼の作品群は、誘導のデザインに対する批評的分析を鑑賞者に促している。また、建築家・デザイナーのカテリーナ・カンプラーニの「The Uncomfortable」シリーズは、飲み口の形状を特殊にすることで、飲み物をうまく口に運べないグラス、注ぎ口と持ち手が不合理な配置になっており、水を注ぐのがほぼ不可能なジョウロなど[夏福3] 機能不全に陥った日用品のデザインを通じて、私たちが道具を信頼する根拠を逆説的に問い直す。どちらの作品もユーモラスでナンセンスな側面を持ちながら、鑑賞者に直感的な理解を反省的にとらえ直させる力を備えている。

カテリーナ・カンプラーニ The Uncomfortable Wine Glass 2015 Handmade blown glass © 2015 The Uncomfortable Wine Glass by Katerina Kamprani

技術と道具の進化は素晴らしい側面を持っているが、同時に危険な側面も孕んでいる。重要なのは、現代テクノロジーの急速な発展のなかで、人間が隷属的にならず主体的に考え、行動する能力を喪失しないことである。そして、21世紀において、飛躍的な発展を見せている人間とテクノロジーの関係は、AIだけではなく、直感的に誘導されるデザイン全般においても考えるべき課題である。そのため、ここでは「直感的な経験を通して直感を反省する力」の批評的な意味を検討していきたい。

直感的なデザインと情報過剰なアート

心理や行動を操作し、直感的な理解を促すデザイン・テクノロジーの方向性とは対照的に、世界的な国際芸術祭や展覧会では、複雑な文脈や社会背景を過剰とも言える情報量で提示する作品がスタンダード化されている。鑑賞者は、作品を見るのみならず、キャプションや字幕などの大量の文章を読んで、政治や社会問題を理解することが鑑賞の前提になっている。この姿勢は、説明や解説を排除し、過度に抽象化したことで一部のエリートにしか理解されない危険性を抱えたモダニズム芸術の反転といえる。

しかし、この方法論が、現代アートの中で一般化し普及したことで、鑑賞者の情報処理能力や体力を超える情報量で圧倒する展覧会が急増した状況も、ひとつのエリーティシズムに陥っているのではないだろうか。また、直感的操作を引き出すデザイン・テクノロジーと情報過剰な現代アートの展覧会というコントラストは、情報化社会のなかで双方向に進行しているパラレルな状況である。イーロン・マスクの政治行動や中国のデジタル監視者社会は、たんなるイデオロギーを超えて、新たなる技術的な支配体制(テクノクラシー)になっていることからも、この相互の関係性をとらえ直す兆しをつくる作品とその批評理論は、これからの芸術を考えるうえで不可欠だ。

フォーマリズム批評と自動車産業のデザイン工学

アートとデザインのあいだにある批評的な緊張感は、古くから続くテーマである。美術史家・美術批評家のレオ・スタインバーグは、論考「他の批評基準」のなかで、1960〜70年代当時のモダニズム批評を支配していたクレメント・グリーンバーグに対して批判を展開し、抽象表現主義とポップアートの類似性を指摘するなかで、モダニズム美術とフォーディズムと呼ばれる産業・技術の形態の共通性にも言及している。

「アメリカのフォーマリズム批評を過去五十年間支配している記述の用語が、同時期に起こったデトロイト製の自動車の進化と平行関係にあるのは、おそらく偶然の一致ではないということだ。(略)ポロック、ルイス、ノーランドの絵画は互いに大きく異なる。だが議論のなかで用いられる、絶えずそれらの絵画を一直線に並べる還元のための用語は、完全アメリカ製エンジンを包み込む車体を支配している理想に、はっきりと近づいている。」(*2)

スタインバーグによれば、グリーンバーグのフォーマリズム批評は、芸術形式における過度な「問題解決」の姿勢を強調している。一見すると、カントの思想を継承し、芸術の自律性を示しているように見えるが、実際には企業的な性質を帯びており、同時代の自動車産業やテクノロジーの思考と共通している。またスタインバーグは、「フォーマリズム批評では、ある進展がどれほど重要なものかを測る批評基準は依然として、ひとつの無理強いされた方向性に従った一種のデザイン工学のままである。」(*3)とも書いている。私が考えるスタインバーグの重要性は、グリーンバーグの還元主義に対する欺瞞を批判した点に留まらない。それ以上に、20世紀のモダニズム美術批評と産業やデザイン工学のロジックに共通点を見出す彼の洞察力にある。本論考では、このような洞察力を踏まえながら、産業や社会と造形芸術の双方に批判的な眼差しを向けつつ、新たな造形批評の形を提示したい。

さらに新たなる「他の批評基準」に向かって:ジャスパー・ジョーンズの再評価から長い前提を終わりにして、本題に踏み込んでいこう。作品の直感的な経験を通して、直感を反省する力としての批評理論として、ここではジャスパー・ジョーンズの再評価を基盤にしていく。この目論見は、スタインバーグがグリーンバーグによる還元主義的フォーマリズムを批判し、「平台型印刷平面(flatbed picture plane)」を新しい批評基準として提示したことの反復ととらえられるかもしれない。スタインバーグは、グリーンバーグが推進した、絵画の垂直性を不可欠な条件とする「窓」としてのモデルから、水平的な情報や物質の集積場へと移行する絵画モデルとして「フラットベッド」を提案した。「フラットベッド」は、工業用の平台印刷機を基盤にした概念であり、ロバート・ラウシェンバーグやジョーンズ、さらに彼ら以降のポップアートのアーティストにも適用される形式であると論じている。とはいえ、私はここで、「フラットベッド」に立ち戻るわけではない。

ではなぜ、改めてジョーンズに戻るのか。それは、これまで支配的であった写真と絵画の止揚を試みたゲルハルト・リヒターの絵画的パラダイムを終焉させ、新たな批評理論を駆動させるためである。リヒターは、ブレやボケを伴う写真を媒介にして描かれた映像的イメージを絵画化したことで知られる。彼の方法論は、マルレーネ・デュマスリュック・タイマンスピーター・ドイクといった画家たちの地平を切り開いたのみならず、トーマス・ルフアンドレアス・グルスキーといった現代写真の動向にも大きな影響を与えた。

しかし、身も蓋もないことを言えば、このリヒター的な絵画と映像メディアをハイブリッド化する方法論は、作品的にも批評的にも、有効性を失いつつある。フィルムからデジタル、液晶テレビまでの映像技術の条件下ではリヒターの絵画モデルによる枠組みが機能していただろう。しかし、iPhoneやiPadなどのタッチスクリーン、SNSの普及、プロンプトによって生成されるAI画像などの登場によって、リヒターの絵画モデルはすでに対応することができない。それは誰の目にも明らかであるにもかかわらず、リヒター以降の新たな造形批評のパラダイムを論じる試みは長らく停滞している。この停滞を打破するために、ジョーンズを改めて検討し、「スマートフォン以後の造形批評」を論じていく。

異なる感覚や情報の形式を接合するジョーンズの絵画モデル

ここで論じるジョーンズの絵画モデルにおいて、平面性や水平性は中心的なキーワードではない。むしろ、平面的な表象であっても絵具やキャンバスの厚みを持っていることや、キャンバスの裏側という見えない空間のほうが重要である。また、水平/垂直という二項対立よりも、手に持たれるスマートフォンのように、両義性や可動性を含むことがより重視される。

さらに、リヒターが絵画において温存していた視覚の特権性を、それ以前に活躍したジョーンズの作品は否定している。ジョーンズが、目、耳、口、手といった複数の感覚器官の関連性を示し、五感を切り離すことなく相互に干渉させるような感覚的体験を作品化し続けた点に注目したい。このような異なる感覚や情報(視覚、聴覚、言語など)の組み合わせや、相互的な影響関係は、クロスモーダルマルチモーダルと呼ばれている。それをもとにした技術開発は、AI、AR/VRシステム、コミュニケーション、デザイン、教育、医療、エンターテインメントなどの分野で不可欠になっている。

ジョーンズは、《おもちゃのピアノがある作品》(1954)ではコラージュの支持体に「おもちゃのピアノ」を使用し、《批評家は見る》(1961)では、目を口へと置き換えた彫刻作品を作っている。また、ジョーンズには、「“見ルコト” ハ “食ベルコト” デアリ デナク マタ “食ベラレルコト” デアリ デナイ」(*4)という有名なメモがあり、ここでも「見る」と「食べる」、目と口を結びつける関心が表れている。実際、彼の作品には、キャンバスにスプーンやフォークといった実物を取り付けたものが繰り返し作られている。

これだけでもジョーンズが、視覚の特権性や感覚の分離を超え、五感の絡み合いを提示する作品を作り続けていることが理解できるはずだ。それに対して、映像メディアと絵画のハイブリッド様式は、視覚に限定されたエフェクトにとどまっており、その枠組みの限界を露呈している。現代では、画面を直接触れて操作するタッチパネルを搭載したスマートフォンや、AIとの対話形式でプロンプトを通じて映像や音楽を生成する技術が一般化している。ジョーンズの作品が示す感覚や器官の相互作用への意識化は、こうした技術的変化のなかで、再評価すべき新たな批評軸を提示している。

環境運動団体ジャスト・ストップ・オイルが反映した新たな絵画のリアリティ

私が新たなる造形批評の必要性を強く感じたのは、イギリスの環境運動団体「ジャスト・ストップ・オイル(Just Stop Oil:以下、JSO)」による美術作品を対象とした破壊的な抗議活動を目の当たりにしたときだった——私は彼らの抗議活動を称賛や擁護、否定するために取り上げるのではなく、ましてや美術作品として扱うわけでもない。差し迫った環境問題ともことなる。この現象が起きたことを、美術史的な観点から検討することが目的である。

JSOは、気候危機への関心を高め、新たな石油・ガスプロジェクトの中止を訴えるために、美術館やギャラリーで抗議活動を展開している。たとえば、ゴッホの《ひまわり》やフェルメールの《真珠の耳飾りの少女》にトマトスープを投げつけることや、ベラスケス《鏡のヴィーナス》の保護ガラスを救助用ハンマーで割るといった行為を行ってきた。美術作品に対する破壊行為は歴史的にも珍しくないが、JSOの抗議行動が異なるのは、彼らが作品そのものを傷つけないことを意図している点である。実際、攻撃の対象は保護ガラスや額縁に限定されており、作品自体に直接的な被害を与えていないと主張している。この点で、JSOの行為は、これまでの芸術作品の破壊活動とは、一線を画している。

ジャスト・ストップ・オイル 出展:「X」投稿より https://x.com/JustStop_Oil/status/1840723625965400136

この活動が、ガラスの強度や密閉性への知識に基づいているとしても、その発想は、ガラスに対する今日的な感性が反映されていると言えないだろうか。JSOがガラスに対して示す信頼と、それに触れることへの躊躇のなさは、スマートフォンなどのデバイスを通じたガラスや液晶への接触の慣習、そしてそれを可能にする透明性と強度を兼ね備えたゴリラガラスの存在によって生まれた感性的な判断ではないだろうか。

タッチスクリーンが普及する以前、液晶に触れることは二重の意味で忌避されていた。ひとつは破損のリスク、もうひとつは指紋や汚れが付くことである。しかし、タッチスクリーンの普及によって、私たちは画面に触れることに対する抵抗を失い、センサーのないモニターにさえ無意識に触れようとしてしまう。この変化は、ガラスに対する私たちの感性を大きく変容が顕在化していることだ。

JSOのガラスへの感性は、リヒターが示すガラスへの感性とは大きく異なる。リヒターにとって中心的な概念である「シャイン(Schein)」は、光や仮象を意味し、知覚の儚さや幻想性を引き出すもので、映像や視覚に特化している。リヒターの「Glass Works」は、ガラス自体を作品化したものであり、物質的な緊張感、透明性、そして映像性を前提としている。この作品のガラスは、従来のガラス観に基づき、埃が溜まりやすく、衝撃を受ければ簡単に割れるという脆弱性を伴っているマルセル・デュシャン的なガラスのイメージである。JSOの行動は、リヒターが持つ美意識やガラスの神秘化を破壊するものだ。そのアクションは、視覚と触覚が融合したメディア環境の時代を象徴しており、新たなガラスの感性を知らしめた。

「ゲルハルト・リヒター展」(東京国立近代美術館)会場風景より、《8枚のガラス》(2012) © Gerhard Richter 2022(07062022) 撮影:編集部 出展:https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/richter.exhibit-2022-report

さらに、JSOの抗議手法は、美術館がInstagramなどのSNSを通じてセルフィーを投稿するためのアミューズメント施設となった現状とも密接に関連している。JSOが抗議のパフォーマンスで期待しているのは、SNSを中心としたバイラルな反響である。美術館は、かつてのように厳粛に作品を鑑賞する場から、鑑賞者自身が主役になり得る、より参加型の空間へと変容しつつある。その変化には賛否両論あるものの、美術館側も鑑賞者の積極性を広報戦略として取り込み始めている。JSOのパフォーマンスが今日的なのは、そういった美術館という場の変化をよく理解しているところにある。JSOは、石油産業を批判しつつ、同時に現代の情報化社会やテクノロジーを体現する存在として活動している。そして、彼らは破壊的行為を通じて、古典的な絵画や美術館を、現代のテクノロジーや情報環境の文脈に引きずりだし、新たな接続を行っているのだ。

見ることとは撃つことであり、また撃たれることである

先述したように美術作品は、これまでもしばしば破壊行為の標的となってきた。JSOによって攻撃された《鏡のヴィーナス》は、1914年にもフェミニストによって肉切り包丁で切り裂かれる被害を受けている。また、アンディ・ウォーホルには、パフォーマンス・アーティストのドロシー・ポドバーによって発砲され、実際に撃ち抜かれた4枚のマリリン・モンローの作品《Shot Marilyns》(1964)がある。さらにウォーホル自身も、その後、急進的なフェミニスト作家ヴァレリー・ソラナスによって銃撃される事件を経験している。

アンディ・ウォーホル《Shot Marilyns》 出展:https://news.masterworksfineart.com/2019/11/26/andy-warhols-shot-marilyns

ロンドンのナショナル・ギャラリーでゴッホの《ひまわり》にトマトスープの缶詰を投げつけたJSOのフィービー・プラマーアンナ・ホランドは、当初、ウォーホルの《キャンベル・スープ》を標的とする案を考えていた。しかし、より戦略的なイメージを重視し、《ひまわり》を選んだ経緯がある。それでも、彼女たちが使用したトマトスープの缶詰は、ウォーホルの作品とスープのイメージで結ばれており、象徴的な意味を持たせている。その後、彼女たちの抗議行動に影響されるように、オーストラリア国立美術館で、別の環境活動家たちによって《キャンベル・スープ I》(1968)が攻撃されている。

では、ウォーホルの何が、彼女たちの破壊行動を「そっと後押し」したのだろうか。ウォーホルは、ケネディ暗殺前後のジャクリーン・ケネディの感情的状態を描いた肖像シリーズや、銃を構えたエルビス・プレスリーのイメージを繰り返しシルクスクリーンで印刷した作品を制作し、暗殺や銃に関するイメージを繰り返し作品化していた。ポップアートにおいて銃は頻繁に扱われたモチーフであり、それは映画や広告といった大衆的なイメージの象徴として、シリアスさとポップさの両義性を持っていた。

ポップアートの批評性を考えると、そこには「見ることは撃つこと、あるいは撃たれること/見返されること」という挑発的なメッセージが込められていた。それは、鑑賞者が自らの存在を透明化し、作品をただ鑑賞するという受動的な態度を挑発するものだった。ウォーホルの作品や活動には、鑑賞者や周囲の人々を過激に挑発する性格が備わっている。プラマーとホランドがウォーホルのそういった挑発=ナッジを理解しているからこそ、インスピレーションを受けたのではないだろうか。

ジョーンズの《石膏鋳型のある標的》

その挑発の源流に、ジョーンズの《石膏鋳型のある標的》(1955)がある。この作品は、「見る(撃つ)」と「見返しさせる(撃たれる)」という関係性を、ポップアートに先駆けてモニュメンタルな形で表現し、視覚性や平面性に限定されない多感覚的な表現方法を提示し、鑑賞者の意識を挑発する作品なのだ。

《石膏鋳型のある標的》は、絵画と彫刻の要素を組み合わせた作品だ。本作は、ジョーンズにとって《おもちゃのピアノがある作品》の続編という位置づけの作品である。キャンバス上には蓋のついた木製の箱が設置され、その内部には、耳、鼻、口、手、男性器、乳首など、一人の男性モデルから取られた身体の石膏鋳型が収められている。蓋は観客が自由に開閉できる仕組みとなっており、その組み合わせにより475通りの形態が可能である。実際に作品を触ることはできないにせよ、この鑑賞者とのインタラクションを持つ要素は、作品の鑑賞体験にエロティックな緊張感をもたらしている。このエロティシズムを強調するうえで、色彩が大きな役割を果たしている。標的の青と黄色、それを囲む赤の色面は補色効果によって視線を誘導し、原色で塗られた男性の身体パーツは心理的な艶かしさを暗に訴えかけている。

標的は、距離をとって眼差し、狙いを定めるものであるのに対して、蓋を開けて身体のパーツを覗きこむ行為は、作品に触れ、非常に近い距離感で鑑賞されることを意味する。ジョーンズが構想したアイデアは、鑑賞者を秘められたゲームに誘い込み、距離の意識を揺さぶる感覚を与えている。ジョーンズは、《石膏鋳型のある標的》と《おもちゃのピアノがある作品》に対して、「見る人が絵に近づけば見えるものが変わってくるはずだし、見る人が絵に近づけばその変化に気づくかもしれない。それに動いたり触ったり、音を出したり、目に映っているものを変えることを意識し出すかもしれないと思ったのさ。」(*5)と説明している。

ニキ・ド・サンファルの《射撃絵画》(1961)は、見ることと撃つことを結びつけた作品として《石膏鋳型のある標的》と比較することが可能だ。《射撃絵画》は、絵具を詰めた風船を埋め込んだ石膏で覆ったキャンバスを用意し、そして彼女自身や招待した人々がライフルで絵画を撃つことで、石膏の中の風船を破裂させ、絵の具がキャンバス上に流れ、痕跡を残すことで完成する作品である。

この射撃絵画の暴力性は、抑圧された攻撃性の発散や、家父長制社会とその厳格な性別役割への反抗という文脈を持ち、アクティビズムの破壊行動との類似性を示している。しかし、《石膏鋳型のある標的》と《射撃絵画》は似て非なるものである。《射撃絵画》は、アクションの結果は過去=痕跡として閉じており、鑑賞者の意識に、行為を促すような潜在的駆け引きを含まれていない。それに対して、ジョーンズの作品は鑑賞者に潜在的な操作性・可動性を意識させることで、私たちの直感にジレンマを引き起こし、その感覚に対する反省性を生み出しているのだ。この作品が制作された当時、同性愛に対する取り締まりが非常に厳しかった社会的背景を考慮すると、そのエロティックな駆け引きは、鑑賞者と作品の間に生まれる秘められた政治的な緊張感を内包しているともいえるのだ。

【後編へ続く】

*1──ハリー・ブリヌル『ダーク・パターン 人を欺くデザインの手口と対策』高瀬みどり訳、BNN、2024、19頁
*2──レオ・スタインバーグ「他の批評基準」『1997年美術手帖3月号』林卓行訳、美術出版社、1997年、176-177頁
*3──同上、176頁
*4──東野芳明『ジャスパー・ジョーンズ―そして/あるいは』、美術出版社、1979年、217頁
*5──バーバラ・ヘス『ジャスパー・ジョーンズ (ニューベーシック・アート・シリーズ) 』、タッシェン・ジャパン、2009年、22-23頁


「クリティカル・シーイング:新たな社会への洞察のために」

石川卓磨

石川卓磨

いしかわ・たくま 1979年千葉県生まれ。美術家、美術批評。芸術・文化の批評、教育、製作などを行う研究組織「蜘蛛と箒」主宰。