公開日:2025年9月10日

独自の「ひとのかたち」を追求し続ける中辻悦子とその絵画について。元永定正との出会い、生活の隙間で生まれる芸術(文:新畑泰秀)

60年にわたって「ひとのかたち」を描き続けてきた中辻悦子の創作の全貌に迫る長編インタビュー。グラフィックデザイナーのキャリア、元永定正との出会いが作品に与えた影響など、アーティゾン美術館学芸員・新畑泰秀が聞く

左:中辻悦子 撮影:福永一夫 右:中辻悦子《Untitled》(2025)

注目される画家・中辻悦子の芸術世界

中辻悦子が、元永定正の《無題》(1965)を見にアーティゾン美術館を訪れたのは2021年のことだった。作品が美術館の新収蔵品としてはじめて展示されたときのことだ。絵具を流し込む技法を駆使した元永の盛期の作品で、画家のアトリエに長く留め置かれていたという。緊張感漲る画面であるいっぽうで、どこか剽軽な雰囲気を併せ持っている。中辻は、元永とともに過ごしていた空間でこの絵が制作されたことについて触れ、さらに中辻自らも同じ屋根の下で、新しい作品を生み出していた日々を回顧して語った。

元永定正 無題 1965 石橋財団アーティゾン美術館蔵 © Motonaga Archive Research Institution Ltd.

中辻悦子は、2011年に没した元永定正(1922年生まれ)のパートナーであることが知られているが、中辻自らも若き頃よりグラフィックデザイナーとして活躍するとともに、現在に至るまで弛まず芸術表現を続けている現役の作家である。若くして元永と出会い、具体の創造活動に刺激を受けながらもこれに交わることなく、つねに自己のアイデンティティを育み、長期にわたり倦むことなく生み出されてきた作品群が、次第にいま、脚光を浴びつつある。中辻の作品は元永のそれと共鳴しつつも、自己の表現を追求するという強い矜持をもって制作されており、戦後日本の前衛の女性画家としての重要性が明らかになりつつある。 

2023年にパシフィコ横浜で開催された第1回「Tokyo Gendai」Yoshiaki Inoue Galleryブースにおける元永と中辻の作品で構成された展示は、ふたりの作家の作品の関係を実感することが出来るじつに興味深い展示であった。ニューヨーク滞在制作を経て元永が様式を大胆に変化させ、その作品の特色として次第に明らかになっていく「剽軽さ」が、中辻と共通する感覚であることが実感された。また、2025年に東京・原宿のBLUMで開催された「元永定正、中辻悦子 記憶の残像」展においては、ふたりの作品は敢えて混合して展示され、ある時期のふたりの創造活動が同じ感覚を共有するなかで制作されたことを明確に示していた。 

第1回「Tokyo Gendai」会場風景より、Yoshiaki Inoue Galleryのブース

元永定正と中辻悦子が結婚したのは1960年。以来、元永が2011年に没するまで、密接に過ごしながら、互いの創造活動を持続させてきた。1950年代に結成された具体美術協会の初期メンバーである元永は、鮮やかな色彩を駆使した絵画、廃材を用いた実験的作品、また絵本の制作などを通して、遊び心に満ちた表現で独自の才能を大きく発揮した。いっぽう、中辻はグラフィックデザイナーとして活躍し、長期に渡り夫の制作活動と家族を支えながら一貫して自らの創作活動を続けた。元永、中辻両者の絵画作品はいずれも抽象的だが、どちらも人間の形体や知覚・身体性に深く関わった表現である。 

BLUMの展覧会が開催される数ヶ月前の2024年11月に大阪・心斎橋のYoshiaki Inoue Galleryで中辻の個展「Where are you from? どこからきたの」が開催された。この展覧会で発表された新作の絵画では、これまで発展させてきた「ひとのかたち」が消滅し、抽象的な画面となることがまず示されるが、そこからまた新たな「ひとのかたち」が立ち現れてくる様が連続した絵画の中から浮かび上がってくる過程も示された。すなわち、人と思われる平面的な形体が点・線・色彩で構成されたかたちが現れ、それは人間の存在や揺らぎを描き出し、鑑賞者に人間の内面的な美しさや複雑さを改めて考えさせる作品となっていた。元永と感覚は共有するものの、その作品とは一線を画し、自らの思考とそれを絵画化する志向を持続・発展させようとする意図が明確にあったことを示していた。画家が長い時間をかけて熟成させてきた個性が充満したじつに完成度の高い内容であった。 

Yoshiaki Inoue Gallery「Where are you from? どこからきたの」会場風景

「生物的なものと無機質なもの。生命が生まれてかたちになる、というのはすごく不思議。とくに人間のかたちは不思議。主題に生命、「ひと」は中心的な主題。かたちが生まれる、とはいったいどういうことか。どこまで単純化しても、崩しても人に見える『かたち』の限界を意識しています。そのきわきわで出てくる形象を絵画化したいという欲求があるのです。生き物と小さいときに暮らしたのが深層意識にあるのかもしれません。蓄積されたものから立ちあらわれたものです」(中辻)

音楽から美術へ、幼少期に芽生えた創作の源流

中辻は、1937年大阪府泉北郡高石町(現高石市)の生まれ。府立三国丘高等学校を卒業して阪神百貨店に就職し、宣伝部のグラフィックデザイナーとして長く活躍するいっぽうで創作活動を続け、1963年12月に東京画廊で初個展。以後、各地で個展を開催してきた。「ひとのかたち」をモチーフに絵画、彫刻、版画など多彩な分野で活躍し、1998年現代版画コンクール展大賞、1999年ブラティスヴァ世界絵本原画展グランプリ受賞。2021年に宝塚市立文化芸術センターで「WHO IS THIS あなたは誰(だあ〜れ)?」、2022年にはBBプラザ美術館で「中辻悦子 起・承・転・転」展を開催するなど、 個展、グループ展への出品が多数ある。

中辻悦子 撮影:福永一夫

中辻に幼少期の芸術体験について尋ねると、美術よりも音楽のほうがむしろ近くにあったという。それは父親が音楽に造詣が深い人であったためで、幼心に自らもその方向に将来は向かうのでは、という意識があった。父親は小学校に勤めており、家庭でもピアノを弾いていた。戦争の時代だったので、コンサートに行くなどの経験はなかったが、家には蓄音機があり、クラシックなど、好きな音楽を自由に聴くことができる環境にあった。

ところが高校に進学して、芸術の選択科目として当然のように音楽を選ぼうとしたとき、父親は、美術を選択することを強く勧めたという。父親は中辻の画才をかねてより評価しているようだった。たとえば小学生の頃、学校から持ち帰った風景の絵をたいそう気に入って扁額にし、部屋の鴨居に飾って称賛してくれたことがあった。その父親は50歳を前にして亡くなってしまうが、中辻の色彩と表現が豊かな絵画が、音楽との共鳴を感じさせるのは、こうした事情に拠るものかもしれない。

いっぽう、母親は、家庭のなかで洋裁を仕事として行っており、それが日常の風景としてあった。中辻が着る幼稚園のスモックのポケットに、ワンポイントの刺繍をしてもらったり、通学のために工夫を凝らした服、すなわちテーラーメイド風のジャケット仕立ての洋服を着せてもらったという。中辻は同級生仲間と同様の子共らしい服を着たかったらしいのだが、いつも他人とひと味違うテイストの服を着せよう、という感覚が母親にはつねにあったらしい。そのような感性は、中辻が創作活動をするようになってきてから、自らにも自然に芽生えてきた、という。 

「自分のなかでは自然にあらわれた形態がモチーフとなっています。若い時から母親のいつもほかと違うものを、という感覚が私が作品を制作するようになってきてから活きてきたように思います。自分の奥底に長く沈んでいた母親、父親双方のものの考え方が自分の奥底にはあってそれは解放してもよいのだ、と感じた瞬間がありました。そのような環境にあったということがひとつのきっかけとなり、具体の精神を素直に受け入れることが出来たのだと思います。子供だから意識はしていなかったけれど、自然に植え付けられた素質かと思います」(中辻)

Yoshiaki Inoue Gallery「Where are you from? どこからきたの」会場風景

グラフィックデザイナーの道へ

高等学校に進学して後、父親の勧める美術を芸術科目として選択し、さらに美術部に入部することになった中辻は、部室にあった美術全集でアンリ・マティス、ジョルジュ・ブラックやデ・キリコなど近現代美術を知り、仲間と美術について語り合い、はじめて美術館に通うようにもなった。そして自由に作品を制作することが出来るようになっていった。中辻の画家としてのキャリアの起点がここにある。中辻は、制作を進めるうちに、両親由来の自分の奥底に潜んでいた感性を解き放ちたい、と感じた瞬間がこの時確かにあった、と語っている。 

中辻悦子 Untitled 2024

高等学校卒業後は、父親が早くに亡くなってしまったこともあり、中辻は大学への進学を断念、阪神電鉄百貨店部に就職した。入社後、最初の3ヶ月は玩具売り場、そのあとネクタイやカッターシャツを扱う紳士服売り場、さらに標準語教室に通いながら店内放送も経験した。1957年に阪神電鉄から百貨店部門が分離独立するに際し、中辻は宣伝課への異動を請願し、自ら宣伝媒体のグラフィックの仕事がしたい、と上司に申し出た。当時の百貨店の社長と重役が日曜画家で美術に理解があったこともあり、1959年になると幸いにもその願いは叶えられることになった。

当時百貨店の広告のデザインは阪神電鉄の宣伝課が兼務しており、中辻はここでグラフィックデザインのプロと接することになった。電鉄の宣伝課の人が中心の美術サークルに入っていたことがきっかけでサークルのないときには、電鉄の宣伝課にしばしば遊びに行って、様々な道具の使い方や絵具の溶き方までを先輩に教えてもらった。百貨店の宣伝課にデザイナーが不在のなかで、中辻は新しい感覚のデザインの広告を心がけた。自由に、自分の好きなようにやらせてもらうことが出来たという。関西では阪急で管井汲、大丸で泉茂などが美術家としての活動以前にグラフィックデザイナーとして活躍していた時代でもあった。駅貼50枚のポスターをシルクスクリーンで作ることもあったし、新聞の全面広告のデザインを担当することもしばしばあったという。いまだアートとして扱われていない時代のデザイン制作の激務が、その後から現在に至る創作に向かうときに役立ち、エネルギーを容易に出すことが出来るようになった、と本人は語っている。

残念ながらその頃のグラフィック・デザインの作品を中辻は手許に何も残してはいない。しかしこの時代に磨き上げた様々な技術は、その後に確実に活かされることになった。たとえばフリーハンド。中辻は線を無になって引くという。輪郭ははじめ内部に同化するように描いていたが、いまは1本の線で輪郭を引く。この技術は中辻の作品を特徴づけている。 

中辻悦子 Untitled 2024

「私の作品は、色彩に特色がある、とよく言われますが、自分では普通だと思います。本能的に持っている色の感覚と平面性を意識しているのかもしれません。また、絵の具はかなり使います。黒いところは数回塗り重ね、ジェッソも重ねて塗ります。そうすると色の奥行きと素材の物質感が出ます。作品に出てくる細い線は自分の精神状態を確かめながら1本1本引いたものです。これらはだいたい制作の後半に入れ、それで作品が息づきます」(中辻)

元永定正との出会いと具体への眼差し

阪神電鉄の美術サークルに入って絵を描いていた頃、より深い制作を望んだ中辻は、グループの仲間に紹介されて1957年より絵画教室に通うようになった。そこは西宮市民美術教室と言い、須田剋太や津高和一といった洋画家が教鞭をとっていた。そこで中辻に先んじてクロッキーなどを学んでいたのが元永定正や松谷武判たちである。元永は具体美術協会に入って2年くらい、中辻はまだ20歳頃のことである。ひとまわり以上の年の差があったふたりであるが、すぐに意気投合し、出会って間もなく長時間話す間柄になった。クロッキーの教室が終わってからふたりは喫茶店で話をし、そのあと、中辻が住んでいた堺まで元永は見送る目的で、南海電鉄沿線の初芝まで中辻についてきながら電車内でふたりは延々と話を続けたという。中辻は、元永が話す新しい美術論などを聞いて深く納得するばかりであった、と語る。たとえば元永から伝え聞く吉原治良の「人の真似をするな。誰もやってないことをやれ」という具体の理念に深く感化された。 

BLUM「元永定正、中辻悦子 記憶の残像」会場風景

中辻は京都市美術館でやっていた具体美術展に誘われて、それからは具体展を毎回見るようになった。当時、仕事にしていた阪神百貨店の広告デザイン制作においても、デパートとしてはちょっと革新的な趣向のデザインを心がけた、という。当時の元永は、1955年と1956年に芦屋公園で開催された「野外具体美術展」で代表的な作品として知られる《作品(水)》を発表し、1957年に中辻と出会った頃には現代美術家としてのキャリアを確立しつつあった。やがて1960年よりふたりは一緒に暮らし始め、2年後には長男が誕生した。1962年、グタイピナコテカのオープニングに伴い、具体は国際的なアーティストや批評家たちとの交流を深め、存在感を示し始めていた。

抽象表現が理論的にも成熟した時代において、具体の先駆的なインスタレーションやパフォーマンス・行動は、これまでにない斬新さを持っていた。中辻はどうかと言えば、元永より伝え聞く具体に多分に感化されたが、グラフィックデザイナーとしての仕事が多忙を極めたこともあり、運動に直接参加することはついぞなかったという。元永も具体に中辻が加わる必要は無い、と考えていたようだ。それは、元永が中辻の作品や芸術感に、具体にはない別の資質を見て重要視していたからかもしれない。結果として中辻の創作意欲はむしろ具体との違いを模索することにも向けられた。元永が自宅のアトリエで制作するのに対し、中辻は、生活の隙間で制作を続けた。制作しながら料理をしたり、子育てをしたり、隙間で制作をする。アトリエにはいると却って落ち着かず、むしろいつもの生活のリズムのなかで中辻は作品を生みだしていった。

中辻悦子 Untitled 2025

1966年に元永がジャパンソサエティーからの招聘で、ニューヨークに1年行くことになって中辻も同行し、それがそれぞれの作品が変わるきっかけになった。元永の具体時代の10年は、絵具を流す作品であったが、ニューヨークでは新しくエアブラシなどの道具を用い、作風が変化し、かたちを追及する作品が発表されるようになった。元永がほかの作家にあまり関心を示さなかったいっぽうで、中辻はニューヨーク滞在時にしばしばギャラリー巡りをし、美術界の層が厚いことを実感したという。ピエール・マティスの画廊でサム・フランシスの個展を見るなどして、熱い抽象から冷たい抽象へと絵画の潮流が変化する様を実地体験することができた。ニューヨーク滞在時にふたりはまた堂本尚郎や猪熊弦一郎、一柳慧らとも親交を結び、谷川俊太郎は、同じグラントでニューヨークに来てふたりが住む同じ建物の1階下の27階に居を構えていたゆえに、親しく接して、それが契機となって絵本の共作をすることになった。

帰国後の新たな出発

ニューヨーク行きを契機に中辻はいったん阪神の職を辞した。しかしアメリカからの帰国後阪神からふたたび声がかかり、週に4日という約束で働きはじめ、以後13年、のべ22年くらい働いたという。こうしてグラフィックデザイナーとしてフルタイムで働く傍ら、自宅でベッドカバーを作った残布や身近にあった布を使用したオブジェ制作に取り掛かり、それら「ポコ・ピン」と呼ばれる人形(ひとがた)のオブジェを自宅の天井に吊るし、初期作品として完成させた。これらの作品は、元永を訪ねた東京画廊の山本孝の関心を惹き、1963年に東京画廊で「ポコ・ピン」のインスタレーションを含めた初個展が開催された。展示は好評を博し、その後の中辻の創作活動の基盤となった。中辻は、これを出発点として剽軽な人物を映し出したような人形の造形を生みだしていく。人のかたちを通して、色、線、かたちが、明るさやユーモア、平和なイメージへとつながって行った。 

中辻悦子 Untitled 2025

「勅使河原宏さんが大阪に家元教室を作ったことがあり、そこでは絵画や彫刻も教えました。そのときに私も絵画の講師で呼ばれ、年に数回ですが32年続きました。 勅使河原宏さん、清水九兵衛さん、元永定正が話し合い、講師陣を決めたと聞きました。デザイナーの仕事をやめようと思ったのはこのときです。 これが結局、私が作家活動を本格的にはじめるきっかけになりました。東京画廊での個展を契機に東京とのつながりがあったこともそれには大きく作用しました」(中辻) 

その頃、中辻の作品を見た元永はよく「ちょっと硬いな」と評したという。この時期の元永は中辻に対し作品を講評する先生の役割を果たすこともあったのだ。元永の晩年に役割は逆になったと言い、中辻は、パートナーとしてうまくまわったと感じている、と語った。元永と中辻の制作は、元永の具体への関与で大きな影響を具体から受けながらも、中辻のグラフィックデザイナーとしての経験や、夫婦による子供向け絵本制作の協働を通じて、最終的には互いがそれぞれのスタイルを強調しつつ、統一感を持つようになっていった。元永の作品が具象表現へと発展し、中辻が絵画制作に復帰するなかで、世紀の変わり目にはふたりの作品は誰の目にとっても明らかなように互いに共鳴している。具体の精神が刷り込まれていた中辻にとって、元永を意識しないわけにはいかないが、異なるフォーマットでそれぞれが制作していたとしても、ふたりの価値観は大きく変わらなかった、と中辻は感じていたようだ。 

Yoshiaki Inoue Gallery「元永定正 中辻悦子 展」会場風景

「ひとのかたち」の消滅と再生

Yoshiaki Inoue Galleryで中辻が出品した主たる展覧会は、最初は2015年に元永定正とのふたり展、2019年の中辻の初個展「ひとのかたちきのかたち」展。ここでは立体作品も出品された。先に触れた3度目の展覧会個展「Where are you from? どこからきたの」展のときも、中辻はとくに空間を意識して作品を制作したという。BBプラザ美術館の個展で展示した最後の作品は、人のかたちが消滅していく、その瞬間、限界が考えられていた。それゆえに続く「どこから来たの」展は純粋に抽象的な絵画が起点となった。

BBプラザ美術館「「起・承・転・転」展にて、中辻悦子 撮影:高嶋清俊

「私の絵からだんだんと『目』がなくなっていきました。元永さんがいなくなった後のことです。ところがヨシアキイノウエギャラリーで行う個展に出品するために新しい絵を描き進めていると、再び『目』が出てきました。 『ひとのかたち』からはなれていきたい、と思っていたのに、その逆に進むことになりました。作品を描き続けるうちに、新たな形象が自然に現れてきたのです。心のなかにある課題は、作品制作の過程で自ずと昇華されていくように思います」(中辻)

作家の言葉を引用した通り、この時期の制作の最初には「ひとのかたち」から離れよう、という意識が中辻の気持ちとしてはっきりとあった。ところが新しい絵画に挑んでいくうちに、新しい「ひと」が突然画家のなかに現れてきた、という。「どこから来たの」というタイトルに自分の意識にないような人たちが出て来たことが示されている。抽象のイメージのなかに人間の形象が突如現れてきた、という。中辻は、それを面白いと思い、展覧会の主題としたのだ。 

中辻悦子 Untitled 2024

「元永さんが生きていた時代は、私の作品は必ず元永の影響だと言われ続けてきました。けれど、お互い影響しあっていた、と思います。自分では意識していなかったけれど、自分のなかに沈殿していたものを私は徐々に解き放って作品を制作し続けてきたのです」(中辻)

中辻悦子と元永定正――長きにわたり生活をともにしてきたふたりの芸術家は自己の芸術を確立するためにお互いの存在が欠かせないものであることを早くから認識していた。積み重ねられた膨大な会話、眼前で生み出されるそれぞれの作品を見て、ときに影響を受け、ときに影響を与えながら共鳴する。けれども両作家は一度も自らの芸術創造のユニークさを保持し続けることを忘れなかったのではないか。中辻の言葉からはその矜持が伝わってくる。 

Tokyo Gendai 中辻悦子 展 「Where are you from?どこからきたの」
会期:2025年9月12日~14日
会場:パシフィコ横浜 展示ホールC/D
ブース:Yoshiaki Inoue Gallery(H06)

Etsuko Nakatsuji Exhibition - Where Are You From? -
Schedule: September 4 – September 25
Venue: Silverlens Gallery (505 W. 24th St, New York, NY)

新畑泰秀

新畑泰秀

しんばた・やすひで 石橋財団アーティゾン美術館学芸員/教育普及部長。横浜美術館主任学芸員、石橋財団ブリヂストン美術館学芸課長、石橋財団アーティゾン美術館学芸課長を経て現職。これまでに企画・担当した展覧会として、2004年『失楽園:風景表現の近代 1870-1945』、2008-09 年『セザンヌ主義』(以上横浜美術館)、2011年『アンフォルメルとは何か?』、2013年『都市の印象派-カイユボット展』、2014年『ウィレム・デ・クーニング展』(以上ブリヂストン美術館)、2021年『Steps Ahead』、2022年『ジャム・セッション 写真と絵画−セザンヌより 柴田敏雄と鈴木理策』(以上アーティゾン美術館)、2023年『ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開』等を担当。 著書に『明るい窓:風景表現の近代』、『失楽園:風景表現の近代 1870-1945』(ともに共著)等