幼少時から画才を認められ、若くして南画家として活躍していた画家、田中一村。彼は20代にして中央画壇と距離を置き、50歳を過ぎて奄美大島に単身移住、紬工場で染色工として働き制作資金を捻出、亜熱帯の植物や鳥、自然を大胆な構成で描き、日本画の新境地を切り開いた。しかし、それらの作品が注目されたのは、彼が69年の生涯を終えた後のことだった。
本展はこの田中一村の最大規模の回顧展。展示作品は初公開の作品やスケッチ、写真に資料なども含め250件を超える大規模なものだ。
展覧会は3章で構成される。「第1章 若き南画家の活躍 東京時代」では、理想に燃える若き日の一村を追う。
田中一村は1908年栃木県生まれ。彫刻家の父親のもと幼い頃から画才を発揮し、数え年8歳にして「米邨」の号を受け、17歳にして美術家年鑑に名前を記載されるまでに至った。1926年4月、一村は私立芝中学校を卒業後、ストレートで東京美術学校(現在の東京藝術大学)の日本画科に入学を果たす。同期には東山魁夷や加藤栄三など後の日本画壇を牽引する画家たちもいたが、一村は6月に自主退学、わずか2ヶ月弱の在籍期間だった。
ちなみに、本展の会場となる東京都美術館は1926年5月の開館。一村が東京美術学校に在籍した時期と僅かに重なっている。
東京美術学校退学後、一村は南画家として身を立てつつ、独学で自らの芸術を探求していく。《蘭竹図/富貴図衝立》は、東京美術学校を自主退学後に制作された作品で、退学後に行われた「田中米邨画伯賛奨会」の賛助員に名を連ねていた医学者の旧蔵品だ。強い筆致で描かれた蘭竹図の裏側には、極彩色の富貴図が描かれている。
近年、一村の知名度と人気は急上昇し、それが端緒となり発見される作品も多い。《椿図屏風》もそのひとつで、2010年に千葉市美術館、鹿児島市立美術館、田中一村美術館で開催された「田中一村 新たなる全貌」の開催後に情報が寄せられ、2013年に一村の作品であると確認されたものだ。左隻は無地の金屏風であるが、その理由は現在のところわかっていない。
これまで、20代半ばの一村の動向は新しい画風が支援者の賛同を得られないことなどから、制作が少ない「空白期」とされてきた。しかし、同作の発見などから同展の監修者である千葉市美術館副館長の松尾知子は「一村は筆を折らずに試行錯誤していたことがこの作品でわかった。支援者が支え本作のようなものを描いてきた」と新境地へ向かおうとする一村の姿が新しい作品の発見で見えてきたことを語った。今後、一村の空白の期間について、さらに研究が進むはずだ。
27歳までに両親、3人の弟を亡くした一村は、29歳のときに母方の親戚を頼り千葉県千葉市に家を建て、姉、妹、祖母とともに移り住む。「第2章 千葉時代」は、奄美大島に移り住むまでの20年間の一村の姿を追っていく。
千葉での一村は、農作業や内職もしつつ周囲の支えもあり、千葉の風景画やデザイン的な仕事、木彫りや仏画に障壁画など様々なかたちで創作を行い生業としていた。
1947年、一村は雅号を「柳一村」と改め、日本画家の川端龍子が主宰する青龍社展に《白い花》を出品し、初入選を果たす。「彼は光に対する感受性が強く、《白い花》を始め、非常に光を蓄えた作品が多い。最終的にその才能が彼に奄美を選ばせ、奄美での大作に結びついたのではないか」と、本展担当者の中原淳行(東京都美術館学芸担当課長 )は語る。
しかし、翌年の青龍社展では自信作として出品した《秋晴》が落選し、参考出品の一作が入選することとなる。この結果に一村は激怒し、出品を辞退。結果として《白い花》が中央画壇で認められた最初で最後の作品となった。
1955年、一村は石川県羽咋郡のやわらぎの郷にある聖徳太子殿の天井画を描く依頼を受け49図を描いている。この制作のために一村は40日間同地に滞在し、周辺の野草をスケッチしたという。本展担当者の中原は第二章の解説を担当。「注目していただきたいのは、緑色の縁に群青色の絵具がはみ出している点です。まず群青色で下地を描いてからその上に緑色を乗せたということ。その結果、緑のニュアンスに富んだ植物の表情が出ている」と話した。
また同年、一村は九州、四国、紀州を巡る旅に出かけ、支援者に《ずしの花》や《青島の朝》のような、旅先の風景画を描いた色紙を送っている。明るく、開放的な色紙からはその後の人生にもつながる大きな転機が感じられる。
千葉移住後、祖母が亡くなり、妹は嫁ぎ、姉とふたりで暮らしていた一村は自宅を売却。1958年、50歳にして単身で奄美大島へ移住する。「第3章 己の道 奄美へ」は、奄美大島での一村の活動に焦点を当てる。
当初は与論島や沖永良部島などを取材してまわった一村だったが、経済的に行き詰まったためか、2年ほどで一旦に千葉へ戻り、官舎を間借りして制作を行った。《奄美の海に蘇鉄とアダン》はその頃、千葉で描かれた作品だ。
1961年、一村は不退転の決意でふたたび奄美で暮らし始め、紬工場で染色工として勤務。切り詰めながらの制作生活を送ることとなった。
紬工場で5年間勤め上げ、制作資金を蓄えた一村は退職、1967年から1970年までの3年間、制作のみに没頭する。この期間で、現在の代表作《アダンの海辺》、《不喰芋と蘇鉄》はじめとする、奄美での主要作品が多く描かれることとなった。田中一村記念美術館学芸専門員の上原直哉は「アダンも不喰芋(クワズイモ)も、奄美大島では決して特別な植物ではありません。そういった何気ない、地元の人も振り返らない植物を、芸術の域に昇華させている」と2作品について語った。
そして、未完のまま残されていた《檳榔樹の森に赤翡翠》、《白花と瑠璃懸巣》も展示されている。淡い彩色とともに、鉛筆のしたがきの線や薄墨や淡彩の下塗りなど、一村がどのように独自の世界を作り出していたかが把握できる。
自分の芸術を生涯追求し続けていた田中一村。印刷やモニタの画面ではわからない精緻な表現を、ぜひ実際に目で見てもらいたい。