左から、鴨治晃次、蔵屋美香 ワタリウム美術館にて 撮影:編集部(灰咲光那)
戦後のポーランド芸術の主流を築いた、1960〜70年代を代表する前衛芸術家のひとりである鴨治晃次。その66年ぶりの帰国展「鴨治晃次 展| 不必要な物で全体が混乱しないように」がワタリウム美術館にて、6月22日まで開催されている。
1935年に東京で生まれ、1959年からポーランドに拠点を移した鴨治晃次。以降、1960年代から現在まで、画家・インスタレーション・オブジェ作家として、ポーランドのアートシーンで活躍している。鴨治の芸術のルーツは、西洋とポーランドの戦後美術を中心とした現代美術の伝統と日本の伝統の双方にあり、その作品はポーランドの主要美術館に収蔵されている。
本展に合わせ、4月19日に横浜美術館館長・蔵屋美香との対談が実現した。石や紙といった素材、そして不在の身体をめぐる言葉からは、視覚を超えて「聴くこと」へと向かう鴨治の制作姿勢が浮かび上がってくる。ここでは、その一端をお届けする。【Tokyo Art Beat】
東京のワタリウム美術館で、歴史的な個展が開かれている。アーティストの名は鴨治晃次(1935〜)。武蔵野美術大学卒業後の1959年、24歳でポーランドにわたり、長く伝説的なワルシャワのギャラリー、フォクサルを舞台に活動してきた。この間にポーランドは、社会主義から民主化へと至る激動の歴史を歩んだ。
いまやポーランド戦後美術におけるもっとも重要な作家のひとりとされる鴨治。2018年にはザヘンタ国立美術館(Zachęta Narodowa Galeria Sztuki)で大規模な回顧展「鴨治晃次:静けさと生きる意志」(Koji Kamoji: Cisza i wola życia)も開催した。しかし、日本での個展は不思議なことに今回が初めてだ。今年90歳を迎えた作家の66年目の凱旋展で、話を聞いた。
蔵屋美香(以下、蔵屋) 私は2019年、展覧会のためポーランドの戦後美術を調査していた際に、本展の企画者であるマリア・ブレヴィンスカさんに紹介されて、鴨治さんを知りました。コロナ禍を経て、この場に立つ鴨治さんを見て、感無量です。今日は鴨治さんの来し方、行く末について、また一つひとつの作品について、お話をうかがいます。
まずは、誰もが気になる、なぜポーランドに行くことにされたのか、という点です。母方の伯父さんである、僧侶で歴史学者の梅田良忠(りょうちゅう)さんが、ポーランドにゆかりの深い方で、その影響が大きかったとうかがっています。
鴨治晃次(以下、鴨治) 1950年代当時、世界の美術の中心地はパリでした。みんながパリに憧れていたんですが、僕はあまりそういうことに関心がなかった。伯父のおかげでポーランドには馴染みがありましたし、ワルシャまで行けば、パリへも簡単に行けると思っていました。実際にはそういうわけではありませんでしたが。
蔵屋 そもそもどうして日本を離れ、海外で学ぼうと思ったんでしょうか。
鴨治 海外へ行く計画は学生時代からあったんです。 友達3人と、予備練習として日本国内を旅行したりしました。ヨーロッパの美術を知りたかったのかもしれないですね。僕は日本の古美術、とくに庭園や絵画がとても好きで、奈良や京都へはしょっちゅう行っていました。でも美術学校の西洋画科を出て、ヨーロッパへ行ってみたいという気持ちを持ったんです。
蔵屋 実際行ってみていかがでしたか。ポーランドは、そしてワルシャワは?
鴨治 まだ1950年代の終わりで、とても貧しいところでした。出発の少し前に、有名な日本学者のヴィエスワフ・コタンスキという方が伯父を訪ねてきたんです。「ポーランドには何にもないから、全部日本から持っていかなれば生活できないよ」と言われ、母親も驚いていました。日本もまだまだ貧しかったですが、 大きなアルミのトランクを8つ買って、コタンスキ先生と一緒にいろんなものを買い込みました。そこから2ヶ月半の船旅でした。
蔵屋 最初からずっとポーランドに残るお考えでしたか。
鴨治 勉強が終わったら帰るつもりでした。ポーランド政府から5年間の奨学金をもらって行ったんですが、ポーランドの美術大学は6年制です。それで、1年延ばして6年間、ワルシャワ美術アカデミーで勉強しました。すでに武蔵野美術大学で4年間学んでいたから、計10年ですね。
そこで、とてもいい出会いに恵まれました。卒業制作を見に来たズビグニェフ・ゴストムスキという著名なアーティストが、僕の作品に関心を持ってくれました。後に有名になるフォクサル・ギャラリーは、1966年に発足したばかりでしたが、そこで個展をやらないかと提案されました。
その頃のフォクサルには、ヘンリク・スタジェフキや、劇作家として有名なタデウシュ・カントルがいました。スタジェフスキはだいぶ年上でしたが、とても優しい人で、親しくさせてもらいました。あとはエドヴァルト・クラシンスキですね。部屋の中にずーっと青いテープを貼る。するとそのテープによって部屋の存在が表わされる、という作品を作っていました。
蔵屋 日本にいてはかなわなかったかもしれない最高の環境に、早くに出会ったんですね。そうやって徐々に、ずっとこの場所でやっていくんだ、という感覚が生まれたんですか。
鴨治 そうですね。その頃は社会主義の時代でしたが、フォクサルはある意味、反体制的な役割を担っていました。ポーランドという国は一様ではないから、作家としての活動は可能な土地だったと思います。そのあたりは話が長くなっちゃうけれどね。
蔵屋 社会主義体制下の活動には制限が多いのではないかとつい思ってしまいますが。
鴨治 なんというか、「公認の事実」という感じだね。背後でどんなやりとりがあったのかはわかりませんが、政府にも、自分の体制下でフォクサルに活動させておけば都合がいいじゃないか、という考えがあったと思いますね。
蔵屋 鴨治さんが活動を開始されたのは、日本だと、李禹煥さんたちの「もの派」が登場する少し前です。彼らはなるべく人の手を加えずに、石やガラスといった素材を用いました。イタリアのアルテ・ポーヴェラも同時代です。日常のありふれた素材を用いて作品をつくる傾向です。少し後になると、コンセプチュアル・アートが世界を席巻します。鴨治さんを含むフォクサルの作家たちは、まさにこうした世界の動きに同期しています。
鴨治 そうですね。
蔵屋 フォクサルの人たちは「場所」という概念を重視していたと言います。こうした考え方は、鴨治さんの作品にも影響を与えていますか。
鴨治 僕は理論の方から考えたことはあまりないんです。だから、フォクサルが掲げていた「場所」の概念などは、よくわからないんですよ。
蔵屋 本当ですか(笑)? 議論はされなかったんですか?
鴨治 あまりしなかったですね。僕は自分のやりたいことをやっているだけでした。
蔵屋 次に、鴨治さんの制作についてうかがいましょう。たとえば、いま、向こうに《通り風》(1975)という作品が見えますね。
鴨治 僕が40歳ぐらいのときでした。ワルシャワのマルシャウコフスカ通りの裏の通りに、小さなコーヒー屋があったんです。そこでひとりでコーヒーを飲んでいたとき、どうしたわけか、急に、すごくリアルに、自分を84歳ぐらいの老人のように感じたんです。そのとき、穴が開いた紙で作ったこの作品が頭に浮かびました。それで日本から和紙を取り寄せて、こういう作品になりました。
僕が表現したかったのは「老人の状態」なんです。老人は、風に吹かれれば風のままに揺れてしまう。しかも、揺れながら自分は存在している。この存在している自分が紙で表わされているわけですが、そういう状態がすごくリアルに感じられたんです。
蔵屋 いま振り返って、半世紀前の40歳のときに感じた84歳はいかがですか。
鴨治 そうですね。同じだと思います。作品としてはいいと思います。
蔵屋 《場所》(1978)というインスタレーション作品でも、穴を開けて上から吊るした紙を使っていますね。
鴨治 《場所》は、僕の親友だった佐々木という男が、20歳のときに勝浦の海岸で睡眠薬を飲んで自殺を図った、それをテーマにした作品です。ノヴァ・フタという街のギャラリーで展示しました。
蔵屋 佐々木さんは、薬による喉の渇きに苦しんで、水を飲もうと海の方に這って行って亡くなったそうですね。鴨治さんはあるインタビューで、死という突風に襲われ、揺れ動きながら、それでも最後に生き残ろうとした佐々木さんの身体を、穴を通り抜ける空気に揺れながら、それでも存在し続ける紙になぞらえています(*1)。これは鴨治さんが先ほど、老人の身体を、風に揺れながら存在する紙ととらえたことにつながっていますね。
ちなみに佐々木さんのテーマは、今回も展示されている〈佐々木の月〉シリーズ(1995)を含め、鴨治さんの制作のなかにくり返し登場します。
40歳で84歳を感じ、90歳のいま、それを眺める。あるいは20歳の佐々木さんの死を、数十年にわたって何度も扱い続ける。作品を作るたび、佐々木さんは現在によみがえる。しかも50年前に感じた84歳の身体と、70年前に20歳だった佐々木さんの身体は、同じ紙という素材によって結ばれている。鴨治さんの制作行為には、通常とはかなり異なる時間が流れているように感じます。
鴨治 作品を作るうえで、目標みたいなものがあるとすれば、それは「変わらないもの」だと思います。作品の内に求めているのは、どの時代にも変わらないものです。だから、実際の時間はそれほど関係ないんです。
蔵屋 作ったときも、100年後も、作品のなかに同じ世界が残されているということですか。
鴨治 そういう世界を探している。変わらない時間と、変わらない空間と、とにかく変わらないものですよね。
蔵屋 様々な物にステンレスでアーチをかける〈静物〉シリーズ(2003)について教えてください。会場のキャプションに、鴨治さんは「物を感じるためには、物を聴くことの方が見ることより大切のように思われる。見ることは僕たちの意志により結びついているので、聴くことよりも攻撃的だ。見ることでは、物の中まで入り込めないことがよくある」と、とても印象的なことを書かれています。というのも、美術は主に「見ること」に関わると考えられているからです。しかし鴨治さんは、視覚ではなく聴覚を重視して、人間が一方的に物を見ようとする攻撃的な態度を疑います。
鴨治 僕は色やかたちにはあまり関心がないんですね。それより、物を見て、そのかたちが持っている意味を感じる方に関心があると思う。
このシリーズは、何十点も作って最初にフォクサルで展覧会をしました。物は何でもよくて、古い手紙だとか、乾燥したリンゴの実だとか、僕のレントゲン写真だとか、ある時点で自分に関係をもった物、その時々に体験した物です。それらの声を聴くために、アーチをつなげるという試みでした。
僕はどんな物でも声を持っていると思うんですよ。その声を持った物が、リアルにいまここにある。このことを見る人に感じさせるために、どういう装置があり得るだろうと考えました。アーチのこっちが実際の物だとすると、反対側はそのなかにある、変わらないもの。ふたつをつなげて物の存在感を見せようと考えました。
蔵屋 鴨治さんのようにキャンバスの作品も作る方は、つい、色やかたちといった視覚的要素にこだわるのではないかと考えてしまいます。しかし、物を認識する、そのために物の声を聞くという、非視覚的な行為が、平面作品であれ立体作品であれ、鴨治さんの制作の根幹なんですね。
鴨治 そうですね。
蔵屋 鴨治さんがよく用いる石という素材が使われた、《二つの極》(1972)について教えてください。
鴨治 ここでは、その石から僕が感じる存在感を、立体ではなく、平面に移し替えたかったんです。どうやったら大きなキャンバスにその存在感を表すことができるか。これは、その石と等価値の存在感を絵で表現するという試みでした。
最初は、石があって、キャンバスがあって、画面のなかのどこに点を打ったらその存在を表現できるかということが、僕にとってとても大事だった。あの頃は会社勤めをしていてあまり時間がなくて、3分ぐらいしか作品の前に座っていられないこともありました。精神を集中して、点を3センチぐらい右に移したり、左に移したりして、その日は終わりという感じでしたね。
そういう試みをいっぱいやって、いくつかの点ができて、それからその点をつないで線を引いたんです。線は、僕の精神が集中する方向を示します。石の存在を表現する点を通して、縦の線を引いて、それらの線がひとつのハーモニーになって全体の空間を表現する、という感じでしょうか。
とにかく、キャンバスの平面に点を打つことによって、そこを生きた空間にしたい。点があって、点を囲んでいるキャンバスがひとつの生きた空間になる。そのためにはどこに点を置くのが正しいのか、それをひたすら探す作業です。難しかったですね。たまたまウッチ美術館の館長さんが見てくれて、初めて美術館に購入された作品になりました。
蔵屋 この石はどこで見つけたものですか。さざれ石のように凸凹がある、ちょっと変わった石ですが。
鴨治 もちろんポーランドで探したんですが、じつはこの石は、一度なくなっちゃったんですよ。だからこれは2代目かな。
蔵屋 えっ、石と、キャンバスに移されたその存在は、1:1の対応じゃないんですか?
鴨治 いいえ、個々のことを問題にはしていないから。大事なのはそれと対話することですからね。でも、あんまり極端に僕のイメージと違う石は使わないと思いますが。
蔵屋 そもそも、鴨治さんがここだ、と思ってキャンバスに点を打つ、その「ここだ!」の感覚はどこから生まれてくるのでしょう。
鴨治 それは未だにわからないですよね。でも……何かあると思うんですよね。ここじゃない、ここだ、ここだ、っていう。そういうものが見つかるまで探すということです。
蔵屋 鴨治さんの作品には、かたちのないものを表すために、それを別の素材というか、物に置き換えるという考え方が一貫してあるように思います。《通り風》では、老人の身体を紙で表しました。佐々木さんの身体を紙にすることも、石の存在をキャンバスに移すということもしかりです。
鴨治 そうですね。
蔵屋 もう一点、やはり石を使った《ヒロシマ》(1990)について教えていただけますか。
鴨治 どこが出発点だったのかわからないんですが、広島の原爆のことを考えたときに、着物の前と後ろが分離して、その間にあったはずの肉体がなくなっている。残っているのは影だけ、というイメージがありました。
蔵屋 《通り風》も佐々木さんも、そしてこの《ヒロシマ》も、共通するのは、ふと鴨治さんに訪れた他者の身体のイメージだという点ですね。
鴨治 そうだと思います。それで、作品を作る価値があるかどうか確認するために、広島へ行ったんです。そこで石を探したんですが、広島は綺麗になっちゃっていて、石が全然ないんです。
蔵屋 着物の前と後ろの間の、消えた身体の場所にあるその石には、どのようなことが託されているのでしょう。
鴨治 石は現実感というか、その人が生きていたということを表しているのだと思いますね。
蔵屋 私たちの左手や背後には、平らな支持体に絵具で図柄を描いた、いわゆる絵画作品が展示されています。しかしこれまでのお話で、鴨治さんにとって絵画とは、普通に言う絵画とは異なることがわかってきました。そのあたりを教えていただけませんか。
鴨治 やはり自分が感じるもの、感じる世界を目に見えるかたちに表すということかもしれないです。見えないけれど、実際に存在しているものというか。
蔵屋 たとえば、すぐとなりにある《夜の雨》(1992)という作品はいかがですか。
鴨治 雨だけだったら透明なんだけれど、赤も青も緑もある。それが涙みたいになっていて、夜と掛け合わせた意味も込めています。こうしたものも、色やかたちから考えるのではなく、ものから始まっています。
蔵屋 鴨治さんより少し前の絵画だと、マーク・ロスコやジャクソン・ポロックなどのアメリカの抽象表現主義がありますね。彼らは、現実の世界に対応するもののない色やかたちを使って、人間の目と脳だけが感じ取る空間のイリュージョンを生み出しました。しかし鴨治さんの平面作品は、立体作品と同じく、物に耳を傾けることから始まっている。同じ平面作品であっても、出発点が人間ではないんですね。思えば、人間を扱う《通り風》や《場所》や《ヒロシマ》も、みな身体という、人間の物としての側面に焦点を当てています。
鴨治 そうね、そうかもしれません。
蔵屋 鴨治さんが在学した頃、武蔵野美術大学にいらした山口長男さんは、戦後を代表する抽象画家のひとりです。そのあたりから受けた影響はありますか。
鴨治 山口さんから直接指導を受けた記憶はあまりないんです。たとえばワルシャワのアカデミーだと先生がそれぞれに自分のアトリエを構えているんですが、その頃の武蔵野美術大学では、僕たちが絵を描いているところにいろんな先生が来たんです。だから生徒は、複数の絵描きの教えや態度を学びながら、それを比較できました。
僕が尊敬している麻生三郎さんのおもしろい話があります。ある先生が来て、僕の隣のイーゼルの前に座って、一筆直したんです。壺の下のラインが丸くなっていたのを、真っ直ぐにした。それで絵の表情が変わって、僕はおもしろいなと思って見ていたんです。その後しばらくして麻生さんが来て、同じ生徒に乞われて絵の前に座りました。でも眺めるだけで、何も直さない。どうするのかなと見ていたら、10分くらいして突然立ち上がってどっかへ行っちゃったんです。帰ったのかと思ったら、トイレへ行っていたのね。戻ってきて、また座って見るんです。こうした麻生さんの生徒の仕事に対する態度から、誠実さということをすごく学んだと思います。
蔵屋 麻生さんは、長く武蔵野美術大学の先生を務められて、定年される直前に教わったのが奈良美智さんですよね。最後に、いま、私たちの後ろに展示されているドローイングについてうかがえますか。
鴨治 この紙は、インドのプネーという町で見つけたものです。紙そのものがすごく生き生きしている感じがしました。墨汁で描いて、修正に白を使っています。ここが足りないとか、ここが多すぎるとか感じたら、それを直すというように、あまり理性的に考えて描いた作品ではないですね。描きたいように描いています。
蔵屋 インドのお話が出ましたが、鴨治さんは長くヨガをやっていらっしゃいますね。ヨガでは、未来や過去のことを考えず、いまここだけに集中して、心の平安を保つことを教わります。鴨治さんはあるインタビューで次のようなことをおっしゃっています。
「芸術とは、平和な状態をもたらすものを探すことです。つまり 幸せということです。まず、何かが欠けている。その状態をどうにか落ち着かせるために絵を描く。 そうやって、心のどこかにある不快感という問題を解決する。それを和らげるために絵を描く。そして、またそれが生じたら――私はまた絵を描く。人生で一番大切なのは、穏やかな状態、 平穏な生です。謙虚さと言ってもいい。」(*2)
本展のタイトル、「不必要な物で全体が混乱しないように」もそうですが、こんな風に、作者も鑑賞者も心の均衡を取り戻す、そこに芸術の価値がある、と正面切って言う人は、とりわけいまは少ない気がします。世界がたいへんな状況であるせいか、むしろ人の心をかき乱すような作品が多いと感じます。
鴨治 ゴッホはどうですか?
蔵屋 ゴッホは見ている人を不安にさせませんか?
鴨治 もしかしたら、彼も平安を求めていたのかもしれない。絵描きはみんなそういうことを求めているんじゃないかな。
蔵屋 しかし、完全な均衡状態に至って平安に得るということは、ある意味、時が止まって死ぬことを意味します。そうではなく、生きるために求め続けるということでしょうか。
鴨治 そうですね。だから、みんな長く描くことで、それを求めているんじゃないかな。
最後に会場から、世界で戦争が続くいま、それに影響を受けて作品をつくることはあるか、という質問を受けた鴨治。戦争自体に影響されることはない、しかし「そのなかで振り回されている個人の生き方や、感じ方には関心がある」と、きっぱり答えていた。
鴨治は、子供時代の戦争に次いで、ポーランドの揺れ動く戦後史を身をもって経験した。その鴨治の、大きな渦に引きずられることなく、個人として生きて、作り続ける、その矜持をみた気がした。
*1──Koji Kamoji, Monika Kamoji-Czapińska, and Janusz Czapiński in conversation with Maria Brewińska, “The Will To Live Is the Most Important Thing of All,” ZACHETA ONLINE MAGAZINE, 2018
*2──"Koji Kamoji, krnąbrny Japończyk w Polsce,” Rzeczpospolita Plus Minus, 2018
蔵屋美香
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