公開日:2025年10月9日

【レビュー】ナイル・ケティング《Blossoms – fulfilment》が示すもの。配送、モノ的な身体、親密性のシェアされる空間(文:篠原雅武)

「TENNOZ ART WEEK 2025」で登場したナイル・ケティングの新作《Blossoms – fulfilment》。倉庫を舞台にケティングが仕掛けた問いを、哲学者・篠原雅武が読み解く

ナイル・ケティング Blossoms - fulfilment 2025 寺田倉庫G3-6F Photo: Asuka Yazawa

2025年9月11日から15日まで、東京・天王洲で開催された「TENNOZ ART WEEK 2025」。3回目を迎えた本イベントにて、現代アーティストのナイル・ケティングによるパフォーマティヴ・インスタレーション《Blossoms - fulfilment》寺田倉庫G3-6Fで展開された。

1989年神奈川県生まれのナイル・ケティングはヨーロッパを拠点に活動し、ヴィデオ、パフォーマンス、サウンドなど多様なメディアを用いたインスタレーション作品で知られる。本作は、2024年にリスボンのCAM Centro de Arte Modernaで発表した《Blossoms》を基に、東京の倉庫空間のために新たに制作されたものだ。寺田倉庫を舞台に、現代社会における身体や鑑賞行為の意味を問いかける本作を、環境哲学者の篠原雅武がレビューする。【Tokyo Art Beat】

ナイル・ケティング Blossoms - fulfilment 2025 寺田倉庫G3-6F Photo: Asuka Yazawa

トランジットの没入的空間

2020年5月、新型コロナウイルスのパンデミックで誰かと会って話すのが難しくなっていく状況に慣れ始めた頃、ナイル・ケティングから英語でメールが届いた。ベルリンで刊行されている雑誌『Positionen』のエディターを紹介したい、文章を書いてほしい、という内容であった。

依頼は、2011年の東日本大震災以降の日本の文化的・思想的状況について書いてもらいたいというものだった。だから私は写真家の川内倫子の写真集『光と影』とサウンドアーティストの梅沢秀樹の音楽について書いたが、ナイルについては書かなかった(*1)。というのも、作品を見たことがなかったからだ。

それ以来、ナイルとはオンラインのトークイベントで対談をするとか、東京に来たタイミングで話をするとか、あるいはメールなどで、地理的な距離を超えて連絡を取り合った。ナイルが独特なのは、ほかの作品に関するアイロニーを交えた寸評が発されるまさにその場に居合わせるとき、私の思考も触発されるのを感じるといった、会話自体が空間を作り出していく才覚にあるのではないかと私は考えていた。

ナイル・ケティング Blossoms - fulfilment 2025 寺田倉庫G3-6F Photo: Asuka Yazawa

2025年9月12日、私はその作品を寺田倉庫の6階で体感することになる。倉庫は、様々な商品を一定期間「モノ」として保管するための空間だが、そこにある商品たちはいずれどこかへと配送されていく。それは生産と消費のあいだにある、流通過程において存在する商品のための空間である。工場から出され、ショッピングモールへと送られていくか、あるいはAmazonの倉庫のように、車に乗せられ消費者の元へと届けられていく途上の空間である。

ナイル・ケティング Blossoms - fulfilment 2025 寺田倉庫G3-6F Photo: Asuka Yazawa

そこでパフォーマーは、あたかも、そこにたまたま置かれた箱と同じようなあり方で、流通過程の空間の中に佇んでいる。流通過程のロジスティックスに適合的な軽さにおいて存在している。光、音響、映像の流れが作るアーティフィシャルな雰囲気に包み込まれたパフォーマーの身体は、互いに関係なさそうでいて、ときに携帯のカメラでその様子を撮影したりもする。彼らは放って置かれているわけではなく、そこに散らばるモノたちと同じようにして生きた感じを放出している。「モノは生命に不可欠だ」という文章が会場内のモニターに映し出されていたが、それは所有とはまた別のあり方で、モノと人間の身体が相互に連関し合う状況のなかで発生する、生きた感じを指し示している。

ナイル・ケティング Blossoms - fulfilment 2025 寺田倉庫G3-6F Photo: Asuka Yazawa

アーティフィシャルなパフォーマンス空間の「モノ」たち

パフォーマーはそこで何をしているのか。それは、練習である。それぞれが手に持つスマートフォンに入ったアプリを通じて送られてくる指令に従い、パフォーマーは練習する。それはたとえば次のようなものだ。

・片方の手がスマートフォンやスマートデバイスになったと想像する練習
・自分を花としてイメージする練習
・保存されたアート作品としての自分を想像する練習
・美術館での観察力を広げる練習
・箱をできるだけゆっくり運ぶ練習
・クリエイティブまたは文化的な燃え尽き症候群を避けるための意図的な休止の練習

そこに入り込んだ観客たちも、パンフレットに記載されているQRコードを読み取って、Blossomsアプリケーションシステム「Root」にアクセスすることで、そのパフォーマンスが何を意味するか、知ることはできた。だが重要なのは、それが何かを知ることより、パフォーマーがいかにしてそこにいるかを感じ、想像することである。

ナイル・ケティング Blossoms - fulfilment 2025 寺田倉庫G3-6F Photo: Asuka Yazawa

パフォーマーたちは、たとえば美術館にいる観客であり、あるいは倉庫で箱を運ぶ労働者なのだろう。観客を、作品を見ることに向けて動員された人たちと見立てるなら、その人たちもまた労働者ととらえることができる。観客たちは美術館によって「サクラ」として一時的に雇用され、それに従い働くことで美術館の観客数を増大させることになる。あるいは、アート作品の一部となっていままさにここでパフォーマンスしているパフォーマーも、もしかしたらいずれどこかへと配送されてしまうモノとして、そこにたまたま居合わせているだけなのかもしれない。

ナイル・ケティング Blossoms - fulfilment 2025 寺田倉庫G3-6F Photo: Asuka Yazawa

美術館でゴッホの《ひまわり》に向けてトマトスープを投げたアクティヴィストの行為は防護ガラスで守られた絵にのみ向けられ、しかも動画として世界中に拡散され、注意を集めることも織り込み済みであった限りにおいて、《Blossoms - fulfilment》に現れるひとつの重要なパフォーマンスへと転用されていく。

資本主義は、元はと言えば商品を生産し、それを貨幣に交換し、その貨幣で商品を買うという過程である。しかし、いつしか商品にある使用価値的な側面よりも交換価値としての側面が優勢となり、それに伴い現代のロジスティックに従ってコントロールされた状況が形成される。そこで人間の身体性も、生きている現実自体も、アート作品の意味も、書籍の中身も希薄になる。こう考えると、《Blossoms - fulfilment》が表現するのは、私たちの生活を規定している資本主義的状況であるということになる。それも、マーク・フィッシャーの言うように、そこでオルタナティヴを見出すことの不可能な、厳然としたリアリティとしての資本主義である。

この状況に居心地の良さを感じてしまうのは、なぜだろうか。おそらくは、自分がそこで「モノ」の一部になってしまっていると感じるようになっていたからなのだろう。

ナイル・ケティング Blossoms - fulfilment 2025 寺田倉庫G3-6F Photo: Asuka Yazawa

自分の片手がスマートフォンの一部になる。それは、自分の身体とスマートフォンの境界が薄れ、どちらがどちらか見分けが付かなくなる状態と言える。それだけでなく、テクノロジーが搭載された「モノ」としてのスマートフォンが、人間によって使われる道具であることをやめ、人間の思考によってコントロールできる状態を超え、逆に人間に働きかけるエージェントになっていく状態とも言える。そこで人間の身体も、スマートフォンのようなデジタルデバイスの指令を受け取り操作されるエージェントのような「モノ」になる。エージェント的な「モノ」である限りにおいて、デジタルデバイスも人間の身体も同じである。

そこで起きていることが何か、どのような音楽が流れているのかもわからなくなって、ぼんやりしながら何時間も身を置くうちに、私はなぜかスマートフォンを操作していた。ナイル・ケティングや松本望睦のInstagramのストーリーズに投稿される画像や動画を見るようになった。

倉庫において発生し成立していくパフォーマンス的状況が、誰かによって写真に撮られ、その人のInstagramに上げられ、シェアされていくのを自分のスマートフォンで見ているうちに、リアルにそれを見て感じているのとはまた別の、テクノロジーにより作り出されるアーティフィシャルなアフェクト空間が成り立つのを感じ、そのふたつの空間がときに重なり浸透するのを感じるようになった。いや、もしかしたら私は、投稿された画像を見ることで、自分が身を置く状況が現実であるということを確認していたのかもしれない。

ナイル・ケティング Blossoms - fulfilment 2025 寺田倉庫G3-6F Photo: Asuka Yazawa

親密なシェアの関係性、新しい人間像

ナイルが自ら述べているように、寺田倉庫に形成された状況が何を意味したかは、これから時が経たなければわからないのかもしれない(*2)。そこで重要なのは、いまある手持ちの思考の枠組みをそこにあてはめて解釈し、理解することより、そのとき私において何が発生していたのか、何を感じていたかを起点にして、そこから思考を発生させようとすることである。倉庫内に設置された、座るための箱の表面に貼られた何枚かの紙には、それぞれに違う詩のような文章が書かれていたのだが、そのひとつがとても示唆的である。原文は英語だが、それを日本語にすると次のようになる。

「そこには親密さの関係性があって、時間と流れの交換が起きているのだが、それで人はアイデンティティにつきものの、所有という考えを失っていく。倉庫は、このような場所のうちのひとつになるのだろう」

ナイル・ケティング Blossoms - fulfilment 2025 寺田倉庫G3-6F Photo: Asuka Yazawa

貨幣と商品で構築された資本主義の状況においては、人はただとにかく所有することで、その人らしさを獲得できるようになる。だが、そのためには、資本主義の状況のなかで、うまく立ち回らなくてはならないし、ときには善悪の彼岸に立つこともまた求められることになるのだろう。そのことがもたらす振る舞いのせいで、たとえば「恐怖」といった感情が生じることもある。

モニターには、ときにこのような文章が表示される。「恐怖は、欲望のように伝染します。他者のパーソナルスペースに持ち込むときには、細心の注意を払ってください」。これに対して、先に引用した詩が示す親密さは、それぞれの人たちのパーソナルスペースが守られた状態でいることのできる状況があって、そこに流れる音楽や振る舞いが交換され、シェアされていくところに成り立つものである。そこに浸されていくことによって、「私」のアイデンティティへのこだわりが作り出す壁が浸透的なものとなり、所有とはまた別の、シェアの関係性が発生する。それは、ユートピア的状況に通ずるものを示唆するのではないか。

ナイル・ケティング Blossoms - fulfilment 2025 寺田倉庫G3-6F Photo: Asuka Yazawa

さらに、寺田倉庫に発生していた状況は、モノとしての身体が、モノとしてのデジタルデバイスとの関わりのなかで動かされてしまう状況を提示している。そこにありうる人間像はいかなるものであるか。

ユク・ホイが『ポスト・ヨーロッパ』で述べているように、テクノロジーの産物が道具であることをやめ、機械のオートメーションと大規模なテクノロジーシステムの高度化に伴うテクノロジーの条件の根本的変容をもたらす状況においては、人間の道徳性や責任といった価値観に基づく近代的な人間像は成り立たなくなる。ホイはこの状況において東アジア的な哲学の思考をテクノロジーの問いとの関連で発展させることの可能性を示唆するのだが、ナイルの試みは、パフォーマーと観客とテクノロジーが並列的に共存することの条件をアートとして現出させようとした点で、ユクの問いかけに共鳴しうる。ここに現出した感性的な場を拠り所とする思考をこれから展開できるかどうかが問われている。

ナイル・ケティング Blossoms - fulfilment 2025 寺田倉庫G3-6F Photo: Asuka Yazawa

*1—— Masatake Shinohara, “To be alive in a disrupted world,“ Positionen (2020, https://www.eurozine.com/to-be-alive-in-a-disrupted-world)
*2——「ナイル・ケティングが『TENNOZ ART WEEK』から問う、鑑賞者とアート作品の新しい関係性」ARTnewsJAPAN(2025年9月10日公開、https://artnewsjapan.com/article/45727)

篠原雅武

篠原雅武

しのはら・まさたけ 哲学者。1975年神奈川県生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。博士(人間・環境学)。京都大学大学院総合生存学館(思修館)特定准教授。専門は哲学・環境人文学。主な著書に『公共空間の政治理論』(人文書院、2007)、『空間のために』(以文社、2011)、『全−生活論』(以文社、2012)、『生きられたニュータウン』(青土社、2015)、『複数性のエコロジー』(以文社、2016)、『人新世の哲学』(人文書院、2018)、『「人間以後」の哲学』(講談社選書メチエ、2020)。主な翻訳書として『社会の新たな哲学』(マヌエル・デランダ著、人文書院、2015)、『自然なきエコロジー』(ティモシー・モートン著、以文社、2018)、『光に住み着く』(川内倫子との共著、torch press、2025)