チューダー朝から第一次世界大戦までの約400年間を対象に、イギリスの女性芸術家がプロになるその道のりを追った展覧会「Now You See Us: Women Artists in Britain 1520-1920」がイギリス・ロンドンのテート・ブリテンにて始まった。会期は5月16日〜10月13日まで。
アンジェリカ・カウフマン、アルテミジア・ジェンティレスキ、ローラ・ナイト、グウェン・ジョンなど名の知れた女性芸術家とともに展示されるのは、普段あまり目にする機会のない作家たちと見たことのない作品の数々。
総勢100名以上の女性芸術家たちに出会える本展の魅力は、これまで見過ごされてきた芸術家に焦点があたる爽快さもさることながら、「なぜ女性が芸術家としてプロフェッショナルなキャリアを積むことが難しかったのか」ということの理由を、女性が置かれていた社会構造と男性中心主義的な美術業界の慣習、その両面から社会美術史的な方法論で探究している点だ。
すでに失われた作品や十分な調査研究が叶わない作家も多いなか、彼女たち自身の著作や当時の美術評論、新旧の研究成果など広範囲にわたる資料を渉猟し、美術史における女性芸術家の正当な地位回復を試みた意欲的な展示である。
展示室に入ってまず最初に目に入るのが、アンジェリカ・カウフマンの絵画だ。「発明」を象徴する女性像がインスピレーションを求めて空を見上げている。
イギリスの権威的な美術協会ロイヤル・アカデミーの初代会長であるジョシュア・レイノルズが「画家の発明の才能とは、心象風景をキャンバスに写し取る力」だと主張していたように、長らく芸術的才能とは男性だけに備わるもので、女性作家は「模倣」しかできない才能のない存在だと信じられていた。
それにもかかわらず、カウフマンはここで「発明」のアレゴリーとして女性像を描いた。当時としては非常に挑戦的な作品であると同時に、本展の試みを象徴する作品だといえる。
イタリアの画家アルテミジア・ジェンティレスキも大きく取り上げられる。ジェンティレスキはチャールズ1世の招きでロンドンを訪れ、王室コレクションのために7点の作品を制作した。本展では現存する2点が紹介される。当時は男性に引けを取らないプロの芸術家として位置づけられていたジェンティレスキだが、時代とともにその名声は変動し、いっときは美術史から消えることさえもあった。
また、展示室のパネルでは、足取りがたどれない女性芸術家についても言及されている。たとえばスザンナ・ホーレンバウトとレヴィナ・ティールリンクはチューダー朝で名をあげた先駆的な女性芸術家で、彼女たちの評判は文献としては残っているが、ホーレンバウトの作品は確認されておらず、ティーリンクと推定される作品も定かではない。100名以上の女性作家が紹介されているとはいえ、それもまた一握りにすぎないことを思い知らされる。
カリグラファーとして活躍したエスター・イングリスのマニュスクリプトの展示も。珍しい作品選定から、本展の定義する「芸術家」の範囲が幅広いことがわかる。
そのほか、成功した肖像画家としてメアリー・ビールの作品を数多く展示。カウフマンやジェンティレスキを筆頭にチューダー朝の芸術は移民の活躍によって栄えたが、ビールの国籍はイギリスであり、イングランドにおける最初期のイギリス人女性職業画家のひとりだといえよう。
もっとも興味深いのがロイヤル・アカデミーに関するこのパート。同組織は、設立から2年後の1770年に新たなルールを策定する。これにより「ニードルワーク、造花、切り紙、貝細工、その他装飾的なもの」の展覧会出品が禁じられた。加えて、初代会長レイノルズは、細密画、パステル画、水彩画を劣った芸術ジャンルとして否定的に扱った。
実際、これらの軽んじられたジャンルは、道具を揃えるのが簡単で家庭で実践できることから、主に中流/上流階級の女性が楽しむ芸術として親しまれていた。しかしながら、これらの芸術をきっかけに同性のパトロンを得たり、プロのイラストレーターやデッサンの家庭教師など自身のキャリアを切り拓いた者も少なくなかった。ここでは、男性中心主義的な美術界から「排除された芸術」に注目する。
メアリー・ノウルズによる刺繍の肖像画。絵筆のタッチをスティッチで表現する新しい芸術ジャンル「ニードルペインティング」を極めた。
ロイヤル・アカデミーの創立メンバーのうち、女性はアンジェリカ・カウフマンとメアリー・モーザーのふたりだけ。しかし、芸術ジャンルとして高尚な「歴史画」を油絵で描いたカウフマンに対して、「静物画」(特に花)を水彩で描いたモーザーの仕事はあまり知られていない。
メアリー・ガートサイドもまたロイヤルアカデミーに花の水彩画を出品した作家だ。彼女はゲーテの『色彩論』よりも早く、イギリスで初めて科学的な色彩理論を発表した研究家としての功績で再評価が進んでいる。あくまで教え子向けの水彩画ハウツー本という体裁で出版したため、彼女の理論はごく控えめに世に出ることとなった。
ヴィクトリア朝は万博の時代。万博での展示に加え、保守的なロイヤル・アカデミーの展覧会に対抗してオープンしたロンドンのグロヴナー・ギャラリーなど新たな発表の場も生まれた。ロイヤル・アカデミーに出品するには男性委員の推薦に頼るしか方法がなかった女性芸術家も公の場で発表するチャンスが格段に増え、商業美術市場のルートを開拓する者も現れる。
たとえば、軍事作戦や戦闘の情景を写実的に描くことを得意としたエリザベス・バトラー。慣習的に男性の主題とみなされていた戦争画だが、1874年のロイヤル・アカデミーの展覧会に本作を出品したバトラーはアカデミシャンから絶賛され、もっとも権威のある位置(オン・ザ・ライン)に飾られる快進撃をとげる。
対して、ヘンリエッタ・レイはロイヤル・アカデミーに裸婦像を出品し、大論争を巻き起こした。女性がヌードを描くことについて不道徳かつ下品だとけなす者もいれば、大胆で勇敢だと評価する者もいた。失われた作品も多く、この点がレイの業績の全貌を掴むのを困難にさせている。
レイは女性として初めてリヴァプールのウォーカー美術館の展示委員会の委員を務め、1897年のヴィクトリア朝時代展では女性美術部門のキュレーションを担当するなど、キュレーターとしての活躍も目覚ましかった。
高い評価を獲得した女性芸術家がいるいっぽうで、父親や夫の影に隠された者もいる。家庭的な題材を得意としたローラ・アルマ=タデマは、パリの万博展示で銀メダルを獲得したにもかかわらず、つねにローレンス・アルマ=タデマの妻としてみなされ、いまでも彼女の作品を目にできる機会は少ない。
ロイヤル・アカデミーが女性を人体デッサンのクラスから排除していたのは有名な逸話だが、この締め出しはじつに1893年まで続く。「女性の慎み深さを守るため」、「プロになれない(マチュア止まりの)女性に正規の教育は必要ない」など多くの理由から女性の排除は正当化された。訓練への平等なアクセスを達成しようと嘆願書を出すも、男性のみで構成された総会で否決される。
保守的なロイヤル・アカデミーはさておき、スレード美術学校のように1871年の設立当初から女性にも男性と同等の教育機会を与える革新的な美術学校や独自の美術学校を設立する女性芸術家が現れるのもこの時代だ。女性参政権運動(サフラジェット)の動きとともに、美術界でも女性たちはゆっくりと、だが確実に権利を手に入れてゆく。
第一次世界大戦末期の1918年、ついに一定の条件を満たした女性に参政権が与えられる。また、社会の大きなうねりとともに美術界にも変化が訪れ、具象的なリアリズムよりも実験的なモダニズムが志向される自由主義が高まりを見せていた。
とはいえ女性たちには引き続き自由からは程遠い障害も立ちはだかる。最終章では、伝統的な芸術表現への挑戦は控えめであるものの、女性に期待される芸術の領域を押し広げ、次世代の女性芸術家の橋渡しとなった作家を探求する。
国内外の展示で高い評価を得ていたローラ・ナイトは、1936年にロイヤル・アカデミーの正会員に選出される。女性の正会員はじつに170年ぶり、創立メンバーのカウフマンとモーザーに続く3人目、推薦ではなく選出による初の女性会員となった。アトリエを出て、屋外での制作に取り組むようになったナイトの作品は、自立した凛々しい女性像も印象的だ。
こちらの自画像は、当時唯一女性を受け入れていたスレード美術学校で学んだグウェン・ジョンのデビュー作。ロイヤル・アカデミーに対抗して生まれたニュー・イングリッシュ・アート・クラブ(NEAC)で本作をお披露目したが、当時のNEACは女性の入会を認めていなかった。そのためスレード美術学校を卒業した女性画家の多くが、その後のキャリア形成で予期せぬ困難に直面した。
ジョンは、男性が描く理想化された女性とは正反対の自然なポーズ、表情の女性を描き続け、近年再評価が目覚ましい作家のひとりである。
同性パートナーだったエセル・サンズとアンナ・ホープ・ハドソンの作品が並ぶ。ふたりは決してモダニズム芸術史に名を残した著名な画家ではないが、定期的に展覧会に出品し、ポスト印象派の画風でドメスティックな題材を探求し続けた。カムデン・タウン・グループの創設者であるウォルター・シッカートと親しかったにもかかわらず、同グループは公然と女性を排除していた。
そもそも裕福で恵まれた芸術一家でないと「描くこと」にアクセスできなかった女性たち、金銭のために絵を描くことは不適切とされた女性たち、結婚後その地位を「プロ」から「アマチュア」に切り替えざるをえなかった女性たち、自分で制作していないと難癖をつけられた女性たち。女性だからという理由で排除する芸術グループや美術学校……。
本展は、数々の障害を乗り越えて芸術に向かい続けた女性たちを讃えるのと同様に、その壁を乗り越えられなかった女性たち、乗り越えても道を拓くには至らなかった女性たちにもスポットを当てる。かつて確かに生きていた「私たち」を視覚化する展示である。