会場に足を踏み入れると、辺り一面が青い空間に迎えられる。入り口正面の青い薄型ディスプレイの裏では、床に鎮座したブラウン管テレビから引用として小沢健二による名曲『ぼくらが旅に出る理由』のMVが流れている。対角線上には、人の手のかたちが大きくスプレーされた巨大なバルーン作品が位置し、中央には、人間と合成音声が詩を朗読する実験的な映像作品、水槽を用いたインスタレーションが展開され、それらを囲むように平面作品が壁に行儀よく並んでいる。
綿密に練られた動線は、すべての鑑賞者に上記の順序で鑑賞を促す。しかし、実はここに至るまで解説やキャプションの類は一切ない。鑑賞者は会場の奥でようやくステートメントに対面し、ハンドアウトを手に入れることができる。そして、第一印象として抱いた新旧作品がただ脈絡なく乱立しているという認識は、ステートメントを読むことで完全に払拭された。なるほどいま見てきた作品群が死体なのだ。
ステートメントでは、布施が今回の展覧会に際して、芥川龍之介の小説『藪の中』を読み返したことが記されている。『藪の中』は、発見されたひとりの男の死体を発端に、4人の証言者と3人の当事者による告白を検非違使が聞き取る形式で物語が進む短編だ。各証言は一人称視点の独立した章として構成され、同じ出来事が違った視点で何度も語り直される特徴的な叙法で知られている。筆者がステートメントを読んで思い至ったのは、布施が本展において、独立したナラティブからより大きい事象に肉薄せんとする『藪の中』のアプローチを応用しているのではないか、という点だ。換言すれば、本展は複数の作品(=個別の死体)を陳列しながら、より大きな観念として「死体」の検証を志しているように思えたのだ。
さて、いま素描してみせたような趣旨を明らかにすべく、具体的に作品に目を向けてゆきたい。まず、青いデュアルディスプレイが印象的な《海を忘れる》(2022)は、渋谷川の川底で撮影された映像にオリジナルの少女キャラクターが浮遊する映像作品である。このキャラクターというのが、よく目をこらすと、まるで川から採取した水を顕微鏡で覗いた際に見える微生物のようなものによって線画が引かれており、少女は渋谷川と不可分な存在だとわかる。「渋谷川が海へと流れる川であることを多くの人が覚えていない/忘れている」(*1)と語る布施は、本作において忘却と死を結びつけて考察しているのだろう。人々の記憶から完全に忘れさられたときに、キャラクターの少女が川と同化して消滅する。かろうじて人形(ヒトガタ)を保つ少女は、水葬で弔う前の宙吊りの死体を暗示している。
いっぽう、《微熱のドローイング》(2022)と題された平面の小作品では、時間がキーワードとなる。熱反応で青く変色する感熱紙を支持体とした画面は、ヒートガンによって不器用にも具象と抽象の狭間にあるイメージが描かれ、そのうちの一箇所だけが指で青いペイントを撫でつけられている。感熱紙は長期保存に向かないメディウムだ。時間経過とともに描かれたイメージは消え、最終的には、かつてイメージが存在していた印として真白い紙にペイントだけが生々しく残ることを予感させられる。消滅という特定の瞬間に向かって存在する本作は、死を瞬間的なものから解放した持続する死体、ないしは(語義矛盾するようだが)生きている死体として見ることができる。
また、本展のために再制作された《いつまでも明け続ける夜のなかで》(2021/2022)も、太陽の運動が鍵を握る時間の作品だ。渋谷スクランブル交差点の街頭ビジョンで日没時(18:35頃)だけに見られる映像として会期中連日放映された本作は、真っ青な画面から始まる。水平線と太陽の縁が重なる2分11秒の間、空の暗さが増すのと比例するように、画面の青が薄くなる。そして途中で人の手の甲のイメージが浮かび上がったかと思いきや、やがて透明になって消えていく。まるで感熱紙に描かれたイメージが消えていく様子をタイムラプスで収めたような映像は、もう二度と繰り返すことのない今日という一日の終わりを死に喩えている。さしずめ本作における死体は、映像に登場する断片化された人間のイメージであり、●年●月●日というその日であり、この作品を鑑賞し、太陽や映像のイメージともに消滅の感覚を共有する私たちとなるだろう。
あるいは、インスタレーションの《明るい部屋》(2022)は、その名が示す通りロラン・バルトの写真論が参照され、死体と生体の人格同一性についての問題提起がなされている。「あの日の体重分の水」で満たされた4つの水槽と、その周りでガラスに反射する「あの日の体重分の川砂」で構成された本作は、匿名の人物がかつてそこに生きていた存在証明=死体として私たちの前に現れる。バルトは著書『明るい部屋』において、亡くなった母親の写真と向き合う過程で、<写真に映る母>と<実際の母>のギャップ(同一人物なのかという疑念)に悩まされるが、この両者のズレを<鑑賞者が実際に目撃する水と砂で提示される死体>と<鑑賞者が各々死体から想像する匿名の人物の姿>というかたちでパラフレーズしている
紙幅の関係で割愛した作品もあるが、以上のような解釈を添えることで、本展において個別の作品が独立した死体として提案されていることがわかるだろう。いうなれば、私たちが目撃したのは、多様なメディアと複数のアプローチによるバリエーションとしての死体の集積なのだ。
しかしながら、布施の提示する死体は、ダミアン・ハーストの即物的な死体とも、解剖学で扱う死体ともまったく異なる。観念的で肉体がないのだ。それゆえ、つい先ほど本展は死体の集積であると述べたばかりであるが、同時に、社会通念上共有されている「死体」は本展にひとつも存在していなかったともいえる。では、果たして肉体のない死体を死体と呼べるのか。この考察を省くわけにはいかない。
そもそもiPhone登場以降の人間の在り方に注目してきた布施にとって、文化人類学的な観点で人間の振る舞いに関心を寄せていても、現実的な存在としての身体にはそれほど強い興味はないように思える。布施が身体という言葉を使うとき、その意味するところにはばらつきがあるように感じるが、多くの場合は、マーシャル・マクルーハンの「拡張された身体」や情報化社会における実体を欠いた身体を指しているのであって、肉的なものからは距離がある。なにより、指摘しておかなければならないのは、布施を語る上で抜き難い要素である詩は、肉体を排した芸術表現の最たるものだという点だ。
この点で、展覧会タイトルを冠した新作《新しい死体》(2022)が、もっとも詩に純化した作品であることは興味深い。本展出品作のうち詩を用いた作品は他に2点あるが(*2)、いずれもヴィジュアルと朗読が伴った実験映像・コンセプチュアルな側面が強い作品で、詩はいち構成要素にすぎなかった。対して《新しい死体》は、唯一言葉だけをメディウムとしている。
会場の最奥、ステートメントの壁の裏で淡々と言葉が投影される本作には、「首を締める」や「玄関に転がる死体」といった直裁的な表現も含まれるが、白眉は「私の寝息で揺らぐあなたの頬の毛を抜いて、睫毛にする」や「落下する二人の皮膚の表と裏をチグハグに縫い合わせると、それは泳ぐ魚になった」といった、ふたつの存在が交わり/移植され/融合する様が一種の死のメタファーのように抒情的に綴られる箇所だろう。ここで語られる(おそらく一匹の)魚とは、ふたりの皮膚が境目なく融合したことで到達する状態を指している。皮膚の持ち主が誰か?という問いはたちまち取るに足らない話題になる。個を失ってひとつになる状態において、身体は透明化されるのだ。とすれば、死体に肉体が伴っていなくてもなんら不思議でない。先に見てきた作品/死体でも、有形の事物が消滅して同化するという要素が見られる。
私がここで示したいのは、詩と死はどちらも共通して、<個を超越した状態に還す>特徴を有しているということだ。日常言語の秩序を超えて人々の感覚に強く訴えかけてくる詩は、──布施が共感を寄せるジョルジュ・バタイユにならえば──私たちが普段知性によって事物を認識し、区別している主知主義の地平から、事物が融合し区別のない領域へ導く(*3)。同様に、死もまた個別存在を否定し、その人格同一性を喪失させる。すなわち死体とは、個人としての枠組みを超えた状態に還ることなのだ。
かくして布施が提唱し、その在り方を芸術によって探究し続けた「新しい孤独」は、新たなフェーズに到達した。従来の「新しい孤独」が個的なレベルでの現象/経験だったのに対して、今回、死体を中心化した思索を通じて、個の喪失が個を超越した領域へ導く形而上のレベルへ発展したことは、大きな意味を持つだろう。
*1──会場頒布のハンドアウトより。
*2──《イブの肉屋》(2022)と《いつまでも明け続ける夜のなかで》(2021/2022)に詩の朗読が含まれる。
*3──ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』(酒井健訳)、ちくま学芸文庫、2004年、43頁。