会場風景より、和田礼治郎《MITTAG》
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森美術館では、「六本木クロッシング2025展:時間は過ぎ去る わたしたちは永遠」が開幕した。会期は2026年3月29日まで。
「六本木クロッシング」は2004年から3年に一度、日本の現代アートシーンを総覧する定点観測的な展覧会として、共同キュレーション形式で開催してきたシリーズ展。8回目となる今回は以下の21組が参加している。企画は同館の德山拓一、矢作学に加えて、レオナルド・バルトロメウス(山口情報芸術センター[YCAM])、キム・ヘジュ(シンガポール美術館)をゲストとして迎えた、4名のキュレーターが担当した。
参加作家:A.A.Murakami、ケリー・アカシ、アメフラシ、荒木悠、ガーダー・アイダ・アイナーソン、ひがれお、廣直高、細井美裕、木原共、金仁淑、北澤潤、桑田卓郎、宮田明日鹿、Multiple Spirits、沖潤子、庄司朝美、シュシ・スライマン、和田礼治郎、マヤ・ワタナベ、キャリー・ヤマオカ、ズガ・コーサクとクリ・エイト
国籍を問わず日本で活動するアーティスト、ならびに日本にルーツのあるアーティストが多く含まれるアーティストのラインアップには、グローバルな視点から"日本"という場所を改めて問い直すとともに、"いま"という時間に宿る様々な生のあり方に向き合う、という意図が込められている。本展は多様な「時間」のあり方に関わる作品群を、4つの視点からひも解くことで、その深層的なつながりを理解できるような構成となっていた。
「さまざまな時間のスケール」と題された最初のセクションでは、異なる素材や制作方法を通じて、個人的な体験や記憶、思索を立ち上げるような作品が紹介される。
展示室に入ってすぐ右側の壁に配されているのは、裁縫が得意だった祖母と母が残した古布や道具、骨董市などで出合った衣類を用いて刺繍を行ってきた沖純子の作品。抽象的でありながら瑞々しい生命感にあふれる立体造形は、素材に残存する他者の記憶を「縫う」という行為を通じて現出させる、作家独自の表現だ。
向かいにあるケリー・アカシの彫刻は、刹那的な時間や生命の循環を写真のように切り取っている。日系ディアスポラとしてロサンゼルスで生まれ育ったアカシは、2025年1月にカリフォルニア山火事を経験。「すべての存在は喪失をうちに秘めている」と生の儚さに思いを寄せながら、日常的な経験や感情、感覚の機微を掬い上げている。
いっぽう、大胆な色彩と造形で見るものを圧倒する桑田卓郎の大型陶芸作品は、伝統的な焼成の工程において生まれる偶発的で繊細な美しさを意図的に創造・強調している。イタリアのメゾン、ロエベとのコラボレーションで話題となった気鋭の現代陶芸家は、伝統的な手法を再解釈することで、表現の可能性を押し広げているのだ。
また、同室には庄司朝美、廣直高というふたりの作家による絵画作品も。両者は身体そのものを素材・手がかりとして、新たな絵画言語の獲得を試みている。
展示室同士をつなぐ通路には、キュレーターの徳山が「本展のダークホースであり、是非知ってほしい作家」と評するズガ・コーサクとクリエイトの作品が計2ヶ所に配されている。ダンボールや紙、ガムテープなどの日常的な素材と、六本木の街で拾った枯葉やゴミなどを組み合わせてかたち作られる同都市の風景は、表現することへの素朴な喜びで満ちていた。
つづく展示室には、社会状況や私たちを取り囲むメディアと時間に対する感覚や認識の関係性にフォーカスした作品が並んでいる。
A.A. Murakamiは、ロンドン・東京を拠点に活動する日本人の建築家・村上あずさと英国人アーティストのアレクサンダー・グローブスから成るアーティストデュオ。春の空に散る桜吹雪を見ているかのような幻想的なインスタレーションは、アーティストの「エフェメラル・テック(儚い技術)」という理念を体現するものだ。
長らく東京を拠点としているガーダー・アイダ・アイナーソンは、テレビや映像の音声をテキストで表示するクローズド・キャプションを絵画イメージとして転用した作品を展示。鑑賞者はテキストの内容を通じて、黒く塗り込められた画面の先にある意味を再考することとなる。
ミニマルでありながら、鑑賞者に思索をうながすような造形は、どことなく「禅」や「間」の美学を想起させるものだ。
《ネネット》は、パリ市内の植物園で40年以上暮らしてきたオランウータン「ネネット」の周辺で録音した環境音を素材に、人間と生物の間の複雑な関係を描き出す細井美裕の音響作品。和田礼治郎の立体作品《MITTAG》は、ブランデー(コニャック)と葡萄の木を素材に、「生と死」「再生」を表現している。キュレーターの徳山は、「スピードや効率ばかりが求められる現代社会において、物事の本質を深く感じ・考える機会が少なくなっているからこそ、アート作品がそれらを取り戻すきっかけになれば」とコメントした。
国家・異文化間における緊張と分断は、日に日にリアリティを持って私たちに差し迫る問題であるが、コミュニティを起点とした実践を行うアーティストのなかには、そうした問題に対して独自の切り口からアプローチを行っている者も多い。
ジャカルタを拠点に、国内外の人びとと多様な実践を展開する北澤潤は、2021年から続く長期プロジェクト《フラジャイル・ギフト》を発表。同プロジェクトは日本軍による侵攻の際に使用され、後のインドネシア独立戦争ではインドネシア軍によって再利用された戦闘機「隼(はやぶさ)」との出会いをきっかけに始動した。竹や手染めの布などの壊れやすい素材でできた実寸大の凧には、当時の記録写真や証言などが織り込まれている。
染色などの手仕事に対して、異なる視座からアプローチを行う宮田明日鹿は、手芸をコミュニケーションの手段として活用した《手芸部》というプロジェクトを発表。家庭内労働としてジェンダー化されていた手芸の技法を、批評的にとらえなおし、公共の場で分かち合える文化的な創作活動として昇華している。
同セクションでは、戦後の沖縄を代表するお土産品であった琉球人形に潜む政治性と歴史の痕跡をもとに制作を行うひがれお。国内外の少女文化とクィア文化をつなぐ、クィア・フェミニストのコレクティヴとして、ZINE出版とリサーチを行うMultiple Spiritsも紹介されている。
山形県長井市で活動するアーティスト・コレクティヴのアメフラシは、制作の拠点である「こしゃう(山形の方言で『つくる』の意)」の木材や構造体を再利用したインスタレーションを発表。地域の伝統工芸を継承する草鞋(わらじ)や箒(ほうき)に関連する取り組みは、作家がその場所特有の時間へと長年向き合うことによって実現したものだ。
最後に示される視点は「生命のリズム」。ここでは時間が、過去から未来、始まりから終わりへと、必ずしも直線的な道を辿るわけではないことを暗示するような作品が並ぶ。
異なる文化間でイメージや意味がどのように伝わり、変化していくのかを探求する荒木悠は、牡蠣の貝殻をフォトグラメトリによって撮影した映像インスタレーション《聴取者》を発表。西洋美術におけるヴァニタス(虚栄)のモチーフである貝殻が、宇宙空間の中でゆっくりと動き、表層と意味の間にある非直接的な関係を問い直す。
シュシ・スライマンは、マレーシアと広島県尾道市で活動するアーティスト。スライマンは、「放棄されたものの整理」という観点から、アートを通じて同都市の景観問題を再考している。空き家・廃屋が増加する尾道の「瓦」を再生させるプロジェクトは、アートが地域におけるエコシステムそのものに影響を与える可能性を示すものだ。
ここからは、移民や離散をテーマとした作品が続く。キャリー・ヤマオカの《群島(2019年)》は、両親が収容されていた強制収容所の悲惨な歴史を題材にした作品。つづく金仁淑の《Eye to Eye: Side E》は、滋賀県のサンタナ学園(ブラジルから移住した人びとの子供が通う学校)でのリサーチを経て制作した映像インスタレーションだ。
展覧会は、マヤ・ワタナベの永久凍土に現れたマンモスの死骸を映し出す映像インスタレーションと、木原共のAIを用いた人生ゲームによって幕を閉じる。古代と現代、ふたつの時代における生命の不可逆性を、ひとつの風景として立ち上げる両作品は、他者へと想いをはせることの重要性をまったく異なる角度から感じさせる。

国際的な右傾化と加速主義の広がるいま、自分たちの生きる世界のスピードを意識的にスローダウンさせることは、表現や創作という行為に託された微かな望みのように思われる。縫う、描(書)く、焼く、調べる、考える、話す……これらの行為に没頭する時間は、わたしたちにつかの間の「永遠」を感じさせるようだ。本展で出会える様々な没頭のかたちは、"過去"と"現在"、そして"未来"をつなぐための手がかりのような存在である。
井嶋 遼(編集部インターン)