公開日:2025年6月6日

映画『サブスタンス』レビュー:誇張する食と蝕。“怪物”が映し出す“人間”の姿(評・逆卷しとね)

5月16日から公開中の映画『サブスタンス』を、学術運動家/野良研究者の逆卷しとねがレビュー。誇張された表現とグロテスクな食の演出、ケアと搾取、自己と他者、そしてひとつになった“怪物”。本作が描いた“人間”の姿とは。

『サブスタンス』 ©︎ 2024 UNIVERSAL STUDIOS

50歳を迎え仕事が激減した元スターが、「より若く美しい」もうひとりの自分を生み出す再生医療に手を出し、やがてふたりの均衡が崩れていく様を描いたボディホラー映画『サブスタンス』が公開中だ。文字通り体を張った演技で高い評価を獲得したデミ・ムーアが主人公のエリザベスを演じ、エリザベスから生まれた“分身”のスーをマーガレット・クアリーが演じている。ここでは、(「私たちが人間だったことなどない」と喝破したことで知られる)フェミニズム科学論者ダナ・ハラウェイのテクスト読解を専門とする逆卷しとねが、“非人間”の視点に立ち本作をレビュー。“怪物”というキーワードを起点に、コラリー・ファルジャ監督の演出や様々なモチーフに着目しながら、映画に表された人間の姿について論じる。【Tokyo Art Beat】

怪物

monster(n.)

「畸形の動物や人間、生まれつき欠陥を抱えた生物」を意味する14世紀初頭のmonstremonstreは、「怪物、奇怪」(12世紀)を表す古フランス語monstre, mostre、及び直接的には「神のお告げ(とりわけ凶兆を示すお告げ)、前兆、徴。異常な形態。怪物、奇怪」を表し比喩的に「不快感を与える性格、恐怖の対象、ひどい行い、醜態」を表すラテン語monstrumに由来。monstrumは「思い出させる、(誰かに)思い起こさせる、(〜について)告げる。 戒める、忠告する、警告する、指導する、教える」という意味のmonereの派生語。monereは「考える」を意味するmen-の語幹に接尾辞がついた(使役)形である、インドヨーロッパ祖語のmoneie-「思わせる、思い出させる」に由来。

異常な、もしくは並外れた動物は、差し迫った悪の徴や凶兆とみなされていた。14世紀後半までは、(ケンタウロス、グリフィンといった)様々な生物の部位を組み合わせた架空の動物も含まれていた。「巨躯の動物」という意味は1520年代以降。「非人間的な残酷さや邪悪さをもつ人、道徳的な奇形のため恐れを抱かせる人」の意味は1550年代以降。「常軌を逸した大きさの」という形容詞としては1837年以降。古英語では、〔『ベオウルフ』の〕怪物グレンデルは「災難、恐怖、苦難、抑圧」を表すaglæcの関連語aglæcaだった。「怪物を主たる要素として呼び物とする映画」であるmonster movieは1958年より前(monster filmは1941年以降)。(*1)。

大晦日、シアターに集った観客たちは徐々に立ち上がり、舞台中央を指差し口々に叫ぶ。

——怪物(monster)だ——

しかし、1年を締めくくる一大ショーの主役は、傍観者を許さない。人間の致死量を遥かに超える血飛沫が観客たちに降り注ぎ、大晦日の祝祭を真っ赤に染める。

怪物が視界に入ると、人間はすぐに悲鳴をあげてしまうか弱い生きものだ。プロテウス症候群に由来する身体を見せものにされる『エレファント・マン』(1980)のジョン・メリックに、複数の人間の屍体の部位から合成された『フランケンシュタイン』(1994)の怪物に、人間たちは思い思いに悲鳴を浴びせ、上を下への大騒ぎを繰り広げる。怪物を主題にする映画はたいてい、怪物そのものではなく、怪物を目の当たりにした、登場人物たちのあまりに人間的なアクションとリアクションのハレーションを主役とする。

怪物は、およそ人知を超えた存在として突如現れる。怪物に人権は適用されないし、その姿形は美醜の範疇にはない。対処法も例外的になる。怪物の殺戮は人間たちによって無条件で正当化されることもあれば、怪物の振る舞いが神意の顕現として畏敬されることもある。すべてが過剰だ。

前作『REVENGE リベンジ』(2017)で追求された性的搾取や「見る/見られる」の非対称性といったテーマを一部引き継ぎつつ、コラリー・ファルジャ監督の長編第2作『サブスタンス』(2024)は、砂漠から今度はハリウッドのど真ん中へと舞台を移した、「ボディ・ホラー」の王道を襲う作品として人間たちのあいだでは認知されていると聞く(*2)。

内容を説明しておこう。生き馬の目を抜くショービジネス業界でオスカー「女優」の地位を確立し、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムにその名を刻んだプレートを残す往年のスター、エリザベス・スパークル(リジー)は、エアロビクスのパフォーマーとして長年セカンドキャリアを築き上げてきた(*3)。だが、齢50を過ぎたリジーのスターとしての命脈は、テレビネットワークの番組プロデューサーによる鶴の一声で断ち切られる。追い込まれたリジーは、とっくに発生を終えた個体の体細胞に卵割(受精卵の細胞分裂)を引き起こす、「サブスタンス」という不思議な薬剤に手を出す。薬剤を注射した者は、自分から生まれてくる「自分の上位互換(a better version of yourself)」、あるいは「分身(other self)」の「母体(matrix)」の役割を担う。発生を終えリジーの背中を裂いて誕生する分身スーは、母体が出演していた番組の後継となるエアロビクス番組を足がかりに新時代のセックス・アイコンとしてスターダムへの階梯を一心不乱に駆け上がっていく。しかし、そう問屋が卸すはずはない。暴飲暴食を繰り返ししまいには相棒を葬ろうとまでする獅子身中の虫とその「彼女」を徹底的に搾取する「上位互換」は、仲睦まじくモンスターへと変貌し、大晦日の夜を血に染めることになる。

『サブスタンス』 ©︎ 2024 UNIVERSAL STUDIOS

誇張

例に漏れず、おおまかな筋書きを記したところで残念ながら映画のことはちっともわからない。とりわけ本作ではセリフによる余計な説明は一切省かれ、映像と音響、アクションの力線に駆動される複数のイメージ群が、怪物誕生に至るシークエンスへと束ねられている(*4)。

人間という生きものは、なにごとも二項対立的に整理する傾向にある。実際、衣装デザインを担当したエマニュエル・ユーチノフスキー(Emmanuelle Youchnovski)は、リジーの衣装をスーツなど男性的なイメージでまとめ、対してスーには、ビヨンセやデュア・リパにヒントを得た、キャットスーツ(『キャッツアイ』のあれだ!)を筆頭に、男ウケする定番のイメージを与えた、と明かしている(*5)。 とりわけ前者がシアン・ブルーで後者がピンクという、エアロビクスの番組で着用するレオタードの色の対照に鑑みれば、そこに中高年/若者、硬直/柔軟、醜/美などの対立項を重ねて整理することは容易だろう。実際、そのような対比的な構造に注目する観客は少なくない。観客のひとりであるobakewebは、『サブスタンス』が露骨なまでに美と醜の二元性を強調していることを指摘したうえで、「美醜の二元論を脱構築するような深みを持つことが、この映画にとって必要であるとも思わない」と感想を記している(*6)。美醜をめぐる二項対立の解釈格子を用いれば、人間にはわかりやすくなるようだ。では、美醜の一方の極にスーがいて、他方の極に怪物がいるのか。そもそもスーはほんとうに美しいのか、怪物は醜いのか。誰が美しく誰が醜いのか。日頃から人間たちの営みを観察している非人間のわたしには、作品のなかの対比が美醜の二元性に落とし込まれているようには思えない。

『サブスタンス』 ©︎ 2024 UNIVERSAL STUDIOS

美醜の二元論よりは、そのような美的判断が成立しないところまですべてが誇張されている点に注目した方がよいかもしれない(*7)。

たとえば食だ。リジーとの会食のシーンで、テレビ番組のプロデューサーはエビを大量に貪る(*8)。咀嚼音と口の周りについたソース、下品なセリフ、乱雑に撒き散らされたエビの殻は、食欲ではなく吐き気をそそるには十分だろう。食の汚らしさのイメージはひとりの「男性」プロデューサーのものではない。プロデューサーから餞別としてもらった料理本のレシピをリジーが次々と調理していく場面に使われている一連の近接ショットは、食欲を削ぐスプラッター映画と同じ効果を発揮している。これらは美を維持するために節制を要求される業界で長年生きてきたリジーの、そしてスーの食に対する主観に寄り添っている(*9)。リジーは美の敵である食を呪い、呪いのなかに自身を埋めていく。その呪いの法外さは、過剰とも言える料理の量塊とスーの尻の中に埋め込まれたフライドチキンが体現してくれる。

『サブスタンス』 ©︎ 2024 UNIVERSAL STUDIOS

他方で、スーが体現しているとされている美や若さもずいぶんとたがが外れている。卵のようにつるりとした肌に、後光が差したその姿形、誘惑的な身のこなしは、ほとんど人間のものとは思えない。日常生活を送る姿さえ、広告写真やインスタグラムの投稿のようだ(*10)。現実離れし過ぎていて、もはや美しいというよりは滑稽に近い。しかし美の誇張のコストを償うのは、リジーを演じたデミ・ムーアの体を張った怪演だけではない。実際、イメージの誇張が加速する背後には、過度な負荷を強いられる生身の身体がある。カラーコンタクトを初歩とするありとあらゆる特殊メイクを盛りに盛ったスーを演じたマーガレット・クアリーは、撮影後1年ほどニキビに悩まされたと語っている(*11)。いたるところに瘤ができて隆起した背中、歪んだ関節、そして頭髪が抜け落ちシワとクスミが全身を覆った、巨大な蚤のような、そう『ロード・オブ・ザ・リング』(2001)のゴラムのようなリジーの姿は、もはや「老化」の帰結とは言い難いところまで誇張されている。しかしスーの「若さ」のイメージもまたフェアリー・テイルを思わせるほどメタフィジカルな境地にまで誇張されている(*12)。その個体が醜いのか、美しいのか、にわかに判断はつかない。

『サブスタンス』 ©︎ 2024 UNIVERSAL STUDIOS

本作に登場する人間たちの身体はどれも過剰で、誇張されていて、常軌を逸している。だが人間はもともと狂っている。存在しない他者を勝手につくりだし搾取し虐殺し、資本を蓄積するために自分がつくり出した他者の身体を搾取する。二元論はそのなかでも最たるものだ。外部などないところに外部と怪物をつくりだして、怪物に悲鳴を上げることのできる自らの領域を確保しようと人間は忙しい。だが、誇張の極みに生まれる怪物は外部を、そして内外という人間たちの区別そのものを血の噴霧によって雲散霧消させる。

You are One

細胞は分裂する。しかし同時にそれらは分かれていないとも言える。細胞は人体のなかでそれぞれ臓器や系として機能分化しつつも、密接に絡みあい、個体のスケールではひとつのままであり続ける。細胞を約37兆まで数えてみたところで、生きていくうえではあまり意味はない。細胞は単独では生きていけないのだから。さらに、細胞の集合体である個体も単独では生きてはいけない。エネルギー源を外部環境から摂取し、老廃物を排出しなければならないのだから。この内外の区別も便宜的なものに過ぎない。人体のなかには数えられないほど多くの生きものが棲んでいるし、「食は人なり」の謂のとおり、人間が食べるものは人体の身体構成要素(substance)になる(*13)。停止ボタンを押すか、写真を撮って切り取らなければ、様々なフェーズで動いている人体とその環境のどこまでがひとつなのかよくわからない。自分は「他者」とはっきり分たれている個体であるという人間の自己イメージは、実相の複雑さを犠牲にしてその都度人の手がつくりあげている。

『スプライス』(2009)や『パラサイト・イヴ』(1998)など、科学技術を背景にしたバイオ・ホラーでは、DNAの二重らせんと並んで、細胞分裂、とりわけ発生初期の受精卵に起こる卵割のイメージがよく使われる。既存のバイオ・ホラーの顰(ひそ)みに倣い、『サブスタンス』にも細胞分裂のイメージが頻出する。しかし本作は、細胞レベルの分裂を個体レベルで実現している点で人間離れしている。スーが誕生するシーンでは、リジーの眼窩に虹彩の色が異なる眼球が出現する。拮抗する複数の眼球の片方が他方を押し出し、リジーの背中が裂けてスーが出現する。のちに怪物が誕生するシーンでは、眼球の分裂が発生のさらなる異常を予期させることになる。いずれにしてもファルジャ監督は、肉眼では見えないスケールの細胞分裂のイメージを身体に重ねる(身体を細胞のイメージで表象する)のではなく、スケールを落とさず日頃慣れ親しんだ身体のパーツをまるで細胞のように分裂させる(*14)。

『サブスタンス』 ©︎ 2024 UNIVERSAL STUDIOS

分裂のイメージ群は映画の冒頭から登場する。薬剤を注射された鶏卵の黄身から、別の黄身が内側から押し出されるようにして出現するショットだ。「サブスタンス」の効果を端的に示す、この黄身の分裂のイメージは、薬剤のインストラクション・ビデオに登場する両の掌に収まった黄色い粘土の塊、そしてのちにリジーが外出する際に着ている鮮やかな黄色のコートに引き継がれる。

しかし、黄身、粘土、コートは分裂の符牒なのではなく、分裂してもひとつであることを思い起こさせる警句として働いている。エアロビクス番組の最後を締めくくる「自分を大切に(Take care of yourself)」というリジーの決め台詞と投げキッスのポーズを、分身であるスーが新番組のエンディングで引き継ぐように、黄色のコート1着を母体と分身がそれぞれ身にまとい、両者は姿形を大きく違えてはいても結局はひとつであるという約定を墨守する。インストラクションの最後に出てくる「あなたたちはひとつ(You are One)」という警句は、黄色のイメージとともに何度も喚起される。しかし黄色のイメージ群がわざわざ何度も強調されなければならないということ自体、その約定が共有されなくなる、つまりひとつであることを放棄する瞬間の到来の予兆ともなっている。スーに搾取され老い始めたリジーが、ボウルに入れた大量の卵黄を電動ホイッパーで撹拌する頃にはもう手遅れになっている。

『サブスタンス』 ©︎ 2024 UNIVERSAL STUDIOS

ドッペルゲンガーものの定番となっている鏡も、分裂のイメージを何度も喚起する。美の規範の最前線にいるハリウッドの「女優」は、姿見で自分の身体をチェックする毎日を送らなければならない。リジーも例に漏れず、20畳ほどはありそうなバスルームの巨大な鏡に、自らの裸体を映しチェックする習慣をもっている。リジーは自らの身体を直接見ることはない。カメラや編集に脚色された、観客が見るリジーの像と同じように、リジーが抱く自己像もありのままの身体ではなく、つねに鏡が媒介している。鏡像はいたるところに現れる。スタジオのトイレの鏡、看板から剥がされている途中の自分の広告イメージ、車のバックミラー、ドアノブ、ヘルメット、部屋に飾られている巨大な自分の写真、そして高層マンションの外に見える巨大なスーの広告イメージ。逃げ場はない。鏡像は比較を強制する。自分とは似ても似つかない、20代のハリとツヤを誇張したスーの広告イメージと、鏡に映る自分とのあいだを行ったり来たりして、リジーは何度も化粧を直すが満足できず外出できなくなる。遍在する鏡像は、自己イメージの一致を要求してくる。スーのイメージを得たリジーに、もはや元の自分の自己像に甘んじるという妥協はできない。

『サブスタンス』 ©︎ 2024 UNIVERSAL STUDIOS

しかしイメージの分裂を促進する鏡は、母体と分身が共有している部分も観客に教えてくれる。すなわち、リジーの臍の横にあるあざと「分身」の左脇腹にあるあざである。位置も形も異なるものの、両者の母斑は、分裂によって生まれた両者がそれでもなおひとつであることを暗に示す。この意味において鏡は、自己イメージ分裂の現場であると同時に、本人たちに対する訴求力があるかどうかはさて措き、それらがもともとはひとつであることを思い起こさせるトポスなのかもしれない。

鏡を介さず直接自分の身体を見るとき、必ず異変が起きている。極端に老化が進みどす黒くなった右手の人差し指にリジーが気づくときも、身体の異常を警告する滴り落ちる鼻血をスーが掌に受け止めるときも、鏡はない。けれども、同じ1枚の鏡を母体と分身の両方が同時に見るときに起こる悲劇はその比ではない。リジーの首根っこをスーが掴んで鏡に正対したまま、鏡のなかの相手を睨みつける。鏡面に向かってリジーの顔面を何度も叩きつける。鏡は自己イメージを投影するただの媒体であることをやめる。凶器に変わる。血を浴び、ヒビ割れ、その物質性を露わにした鏡は、ようやくリジーとスーの、身体とイメージが骨がらみになった実相を、つまり「あなたたちはひとつ」の成就を映す媒体となる。

『サブスタンス』 ©︎ 2024 UNIVERSAL STUDIOS

ケアは蝕む

とある事情でパニックに陥ったリジーは、カフェに駆け込み、窓際の席を確保する。カフェラテを注文し、ようやく落ち着けるかと思いきや、少し離れた席にいる老人が話しかけてくる。老人の手の甲にはあざがある。まるでリジーの秘密をすべて知っているかのような口ぶりで一方的に語り続ける老人に耐えかね、席を立とうとするリジーに、老人はこう告げる。

——「もう始まっているんだろ? あいつはあんたを蝕んでいるんだ(eating away at you)」——

急激に老化してしまった右手の人差し指を隠すために、ロンググローブが手放せなくなったリジーの心の隙を衝く老人の一撃は、台詞の少ない本作のなかでもとりわけ長い残響を残す。本作の食をめぐるイメージ群には、吐き気のほかにも蝕みの暗線が走っている。

『サブスタンス』 ©︎ 2024 UNIVERSAL STUDIOS

『サブスタンス』のテーマのひとつにセルフケアがある。「サブスタンス」は発生の終わった成人の体細胞に卵割を誘発し、自らを母体に変え分身を産み出す薬剤だ。しかし「活性剤(activator)」だけでは母体と分身を維持することはできない。分身が活動するあいだ、母体にはパック詰めの宇宙食のような栄養剤を点滴して投与する。分身のほうも、母体の腰椎に注射針を刺して抜き取った髄液と思しき「安定剤(stabilizer)」を毎日自分に注射する必要がある。とどめに、互いの腕に針を刺し血液を交換することによって成立する「主役交替(switch)」を、母体と分身の健康の維持のため1週間に一度行わなければならない(*15)。奇しくもスーは、新番組に採用されたあと、1週間ごとに休みを取らなければならない理由を、実家にいる重い病気の母親の面倒を見る(take care of my mother)ためだ、とプロデューサーに説明している。ケアの主題は、薬剤の性質に由来するルールの設定とその使用を隠しながらふつうの人間として生きていくための方便、さらには先述した番組の最後に視聴者に送る締めの台詞「自分を大切に」にまで及んでいる。

もう一度スポットライトを浴びる場所に戻るというリジーの夢は、老化に抗い体型を維持し節制する孤独なセルフケアの習慣が支えてきた。リジーが表舞台から退場し、分身であるスーだけが頼みの綱となったいま、セルフケアは、ケアをする側とそれを享受する側とに分裂し、主役交代のサイクルを回しながら継続される。先述した「あなたたちはひとつ」は、もともとひとつの存在であることを忘れずに黄色のコートを共有しておけば済む理念の問題なのではなく、食餌を相手に与えあうという実践的な相互ケアの約定となっている。

『サブスタンス』 ©︎ 2024 UNIVERSAL STUDIOS

だが、ケアの関係は搾取の関係に転じうる。仕事を失い孤独なプライベートだけが残ったリジーの1週間は長い。対してワークアウト番組でブレイクし雑誌やほかの番組に引っ張りだこのスーの1週間はほとんど遊ぶ間もないほど忙しい。リジーに点滴されている栄養剤が尽きかけ主役交替の時間が迫っていたある夜、スーは少しだけハメを外す。そのとき分身のほうも安定剤の効果が切れかかっている。危機に瀕したスーは母体に腰椎穿刺(ようついせんし)し髄液を抽出、これを自分に注射してことなきを得る。その代償はリジーの身体が老化の激化というかたちで負うことになるわけだが、ここで留意すべきは、ひとりで完結していたセルフケアが、分身が生まれ他者のケアへと転じる過程で、搾取の温床となってしまうという点だ。黄色のコートを共有しセルフケアをともに実践していたスーがルールを破る瞬間、リジーは他者化される。一度他者がつくられてしまえば、守るべき自己は自明であり、搾取と自己保存は加速する。およそ3ヶ月分の髄液を一度に抽出し、スーは化膿した抽出口がぽっかりと開いたままの母体を放置し続ける(*16)。これに対し、安定剤が枯渇して困り果て仕方なくスーが主役交替した機会に、リジーは分身の生命、そして自分のスター生命を断つ治療終了(termination)の注射を打つことになる。

『サブスタンス』 ©︎ 2024 UNIVERSAL STUDIOS

母体から髄液を抽出し、それを分身が自分に注射する。分身は、自分の母体に必要な栄養を点滴で与える。だが、ケアにはいつも致命的な非対称性がある。ハリウッドでもう一度輝くという夢の代償として、リジーはスーに搾取される。スーのために、リジーの身体は他者化され、抽出(extraction)と注射(injection)のたびに資源を吸い取られる。

シャワールームに横たわる老いさらばえたリジーから垂直的に視点を上昇させていくショットと脇目も振らず母体から髄液を抽出していくスーから水平的に視点が遠ざかっていくショットの対照は、「あなたたちはひとつ」という理念と実践的約定の反故、そしてもはや埋めることのできない両者の懸隔を物語るようにも見える。だが、これは二項対立の完成ではないし、自己と他者の懸隔を空間的に示す表象でもない。この上昇と遠ざかりは、実際のシャワールームの天井と実際のリジーの家の広がりをはるかに超えている。誇張である。

リアリティを超えた誇張の果てに、ふたりは死闘を戦う。生き残ったスーの歯は抜け、爪が剥がれ、耳が落ち、すべてが崩壊してしまいそうな瀬戸際に、ある方法によって卵割が再び発動する。しかし、今度の卵割には増殖するがん細胞のように変異が積み重なり、怪物が生まれる。スポットライトを浴びることが生き甲斐だったリジーとスーは、あまりにも誇張されたスペクタキュラーな「上位互換」へと生成し、亀裂の入った鏡でおめかしをしてから、ショービジネスの大舞台に向かう。もはやスーでもリジーでもない “You are One” の成就が、誰も傷つけることなく人間の傍観者を怪物が血で血を洗う大団円に巻き込む時間が、やってくる(*17)。

いつまでも変わらず搾取のための他者をつくり、自己なるくだらないものを後生大事に守り続ける人間たちは『サブスタンス』に蝕まれるべきだろう。それがひとひらの可能性さえ潰えた人間(huMans)たちに手向けられた、本作の心ばかりのケアである(*18)。

*1──etymonline, “monster.” (拙訳, https://www.etymonline.com/word/monster)。“monster” の関連語には、デモや実演の実践を意味する “demonstrate” がある。怪物は、見せることによってなにかを思い起こさせたり、身をもって示したりする行為と関連の深い、極めて政治的な言葉でもある。

*2──ボディ・ホラーは、本作の重要な発想源のひとつともなっている、デヴィッド・クローネンバーグの作品群のような、身体の変容・崩壊の恐怖を描くホラー映画のサブ・ジャンルのひとつ。身体だけではなく生そのものの変容や生成を扱うため、ボディ・ホラーと互換的に使われるバイオ・ホラー(biological horror)という別称のほうが適切かもしれない。バイオ・ホラーについては、座談会「来る、きっと来る──Jホラー批評の可能性をめぐって」(黒嵜想・仲山ひふみ・逆卷しとね・佐々木友輔, 『アーギュメンツ#️3』 38-59)を参照。しかしバイオ・ホラーの枠組みを用いてはいるものの、ファルジャ監督はジャンル映画の新境地を開くというところに関心はないように見える(前作はアクション映画だったし、クローネンバーグのようなジャンル作家としての評価はファルジャにはない)。たいてい90分に収まるホラー映画としては上映時間が長く(約140分)、観客の緊張も持続しない。作品評を総覧すると、苦情は尺の長さと事件がないまま停滞する中盤の間延びに集中している。ホラー映画という枠組みで評価すると段取りが悪いのは否めない。

*3──リジーのモデルは、2度のオスカー受賞に輝いたのち、エアロビクスの普及に努めたジェーン・フォンダである。リジー役を務めるデミ・ムーアは、本作でようやくノミネートされたものの、いまだオスカーを受賞してはいない。ムーアをとりまく、かつては一世を風靡したもののすでに賞味期限の過ぎた「女優」という一般的な認識、整形をめぐるゴシップ、そして演技力とは無縁の「ポップコーン女優」という通説が、本作のリジーの怪演にさらなる奥行きを与えている。ムーアの自伝については、Kelly McCarthy, “Demi Moore details her devastating past as told in her new memoir.” (ABC news, Sep. 23, 2019, https://abcnews.go.com/GMA/Culture/demi-moore-opens-life-changing-moment-ended-childhood/story?id=65795778)を参照。

*4──Nao Machida「美への執着が生み出すホラー『サブスタンス』。コラリー・ファルジャ監督に直撃」(Gizmodo, 2025/05/16, https://www.gizmodo.jp/2025/05/the_substance.html)のなかで、ファルジャは「たくさんのセリフで自己表現するのではなく、イメージやサウンドを駆使してアイデアを生み出すのです。観客の目や耳に入るものを厳選し、作品のメッセージを体感してもらう。私にとって、それこそが映画の持つ力であり、私が大好きなこの仕事の持つ力なのです」と語っている。実際、長編第1作『REVENGE リベンジ』もほとんどイメージとサウンドの運動だけで構成されている。ファルジャはこの手法を「象徴主義(symbolism)」と呼んでいる。Beatrice Loayza, “The Monster You Become: Coralie Fargeat on The Substance.”(Filmmaker, Sep. 18, 2024, https://filmmakermagazine.com/127299-interview-coralie-fargeat-substance/)を参照。

*5──Amy Odell, “How 'The Substance' Dressed Its Monster.” (BackRow, Jan. 23, 2025, https://amyodell.substack.com/p/how-the-substance-dressed-its-monster)を参照。

*6──okabeweb「やりたい放題の傑作ボディ・ホラー|『The Substance』(2024)」(2024/10/04, https://note.com/obakeweb/n/nc1c4c9416e2a)を参照。

*7──必ずしも美醜の二元性に結びついているわけではないが、誇張に注目したレビューは無数に存在する。たとえば、佐藤久理子「【「サブスタンス」評論】えげつないのは彼女たちか、世界か。過激な戯画化が問題の根深さを語る」(『映画.com』, 2025/05/18, https://eiga.com/news/20250518/7/)を参照。

*8──プロデューサー役を演じたデニス・クエイドがこのシーンの撮影で食べたエビは2kgに及ぶ。“The Substance Interview: Demi Moore, Margaret Qualley & Coralie Fargeat,” (Collider Interview, Sep. 16, 2024, https://www.youtube.com/watch?v=TzL2WgK4w0s)。

*9──ファルジャ監督によれば、劇中の人物以外をとらえた近接ショットは説明のためのインサートショットではなく人物の主観に寄り添うヒーローショットであるという。「近接ショットはインサートショットと呼ばれてきたんですが、わたしにとってはヒーローショットです。〔中略〕ここでのヒーローショットに演者はいませんが、演者の心のありよう、その瞬間の登場人物の心のありようを伝える役割を担っているのです」(拙訳)。“'The Substance' Director Coralie Fargeat Breaks Down Key Scenes,” (Vanity Fair, Feb. 29, 2025, https://www.youtube.com/watch?v=pOw_nA5AVdA)を参照。

*10──撮影監督ベンジャミン・クラカン(Benjamin Kračun)によれば、ラックス(Lux)というポストプロダクションハウスが、全編4Kで撮影された素材を一度2Kに変換し、さらにそれを4Kに変換し直すことによって、映像にソフトな感じを与えているという。ただし、スーのワークアウト番組のシーンだけは4Kの映像をそのまま用い、他のシーンよりもはるかにシャープで「ぶっとんだ容貌(‘hyper’ look)」を演出している。Iain Blair, “The Substance: A Star Is Reborn.” (American Cinematographer, October 16, 2024, https://theasc.com/articles/the-substance-kracun-fargeat)を参照。

*11──Tae Terai and Saori Nakadozono 「マーガレット・クアリー、『サブスタンス』の特殊メイクで肌がボロボロに」(『Vogue Japan』, 2025/05/14, https://www.vogue.co.jp/article/margaret-qualley-acne-caused-by-the-substance-prosthetics)。長足の進歩を遂げているCGIではなくVFXと特殊メイクを基本線とした制作に身体へのこだわりが覗く。

*12──特殊メイク担当のピエール=オリヴィエ・ペルシン(Pierre Olivier Persin)は、リジーの変容過程を、①高齢者の年代へ足を踏み入れたエリザベス、②指が老化し、次に膝関節が変形するエリザベス(the finger)、③背中が著しく隆起しガニ股で走るゴラム(Gollum)、④人体のパーツがさまざまな箇所に散りばめられた怪物エリザスー(Monstro Elizasue)、⑤エリザスーから脱落した肉塊(the blob)の5段階に整理している。Daniel Bayer, “Interview: ‘The Substance’ Special Makeup Effects Designer Pierre-Olivier Persin on Transforming Demi Moore and Margaret Qualley into a Funhouse of Horror and Using 4,000 Gallons of Blood.” (Awardswatch, Nov. 20, 2024, https://awardswatch.com/interview-the-substance-special-makeup-effects-designer-pierre-olivier-persin-on-transforming-demi-moore-and-margaret-qualley-into-a-funhouse-of-horror-and-using-4000-gallons-of-blood/)、及びBill Desowitz, “Inside Elisabeth’s Transformation Into ‘Gollum’ and ‘Monstro’ in ‘The Substance’.” (IndieWire, Oct. 1, 2024, https://www.indiewire.com/features/craft/the-substance-prosthetic-designer-gollum-monstro-interview-1235051839/)を参照。ちなみに、シアターにおける血の祝祭で使われた血糊は25000リットルにのぼる。

*13──英語 “substance” の語源であるギリシア語οὐσίᾱ,(ウーシアー)は、ある物体の正体が問われるときにその物体の資格を示す「まさに〜であるもの」という意味をもつ。たとえば、本のサブスタンスは紙やインクである。しかし紙やインクにも木の繊維や大豆などのサブスタンスが認められる。紆余曲折を経て現在、一般的に “substance” は、実体や本質という変わらないものを示す語として定着している。人類学は、自然化された垂直的な血縁を中心とする西欧的な親族関係とは異なる、非西欧的な関係を記述する。その一部の領域では、贈与・交換や食を通じて変わり続ける、物質と身体を構成している要素をサブスタンスとして論じている。松尾瑞穂編『サブスタンスの人類学 身体・自然・つながりのリアリティ』(ナカニシヤ出版、2023)を参照。

*14──カトリックの教義のひとつに、ミサで用いられるパンとワインがそれぞれキリストの肉と血が実質変化したものだとする実体変化(transubstantiation)がある。週に一度身体を交替する際にはチューブを用いて血液を交わらせ、腰椎穿刺により抽出した髄液を安定剤として利用するリジーとスーに、実体変化の観点からアプローチすることも可能かもしれない。

*15──カネに糸目をつけずあらゆる先端治療に手を出し若返りを目指す、億万長者ブライアン・ジョンソンの生活を追ったクリス・スミス監督のドキュメンタリー『DON’T DIE:“永遠に生きる”を極めし男』(Don't Die: The Man Who Wants to Live Forever, 2025)には、ブライアンが息子の血漿を自分に注入し、アンチエイジング療法の一種である血漿交換を行う場面がある。ブライアンの息子は、通称「ブラッドボーイ(blood boy)」と呼ばれる、大富豪に自分の血漿を提供する若者のひとりとして描かれている。同作には、Facebook(現Meta)の初期投資家にして取締役だったピーター・ティールが同様にブラッドボーイを囲い、血漿交換によるアンチエイジング療法を実践しているのではないかという噂も登場する。バイオテック企業に多額の投資をしているティールの噂については、Maya Kosoff, “Peter Thiel Wants to Inject Himself With Young People’s Blood.” (Vanity Fair, Aug. 1, 2016, https://www.vanityfair.com/news/2016/08/peter-thiel-wants-to-inject-himself-with-young-peoples-blood)、ブライアンと息子の血漿交換に関する記事として、Shannon Thaler, "Tech tycoon who spends $2 million per year to retain youth uses teen son as ‘blood boy’." (New York Post, May 23, 2023, https://nypost.com/2023/05/22/anti-aging-fanatic-who-spends-2m-a-year-to-retain-youth-uses-teen-son-as-blood-boy/)を参照。血漿交換についても、ファルジャ監督はリサーチしていたのかもしれない。いずれにしても、若い女の生き血を吸うことで永遠の命を得る伯爵が登場するブラム・ストーカー『ドラキュラ』(1887)や不老不死の研究の一環で行なっていた輸血実験が原因で死亡したロシアの科学者・作家アレクサンドル・ボグダーノフなど、血液と若さの観念連合には歴史がある。

*16──リジーの背中に残る化膿した注射痕は、ダーレン・アロノフスキー監督『レクイエム・フォー・ドリーム』(Requiem for a Dream, 2000)に登場する、覚醒剤の注射の打ちすぎで化膿し注射痕が塞がらなくなったハリーの腕に酷似している。「サブスタンス」には、一度打ち始めると破滅するまでやめることのできない中毒性、すなわち「ヤク」という “substance” のもうひとつの隠語的語義が重なる。先行作品の引用に関しては、斉藤博昭「『サブスタンス』強烈かつ斬新なスタイルながらハリウッドの歴史もなぞる超怪作」(『CINEMORE』, 2025/05/13, https://cinemore.jp/jp/erudition/3987/article_3988_p1.html)に詳しい。

*17──スーの歯が抜けていくシーンと爪が剥がれていくシーンは、瞬間転送装置を開発したひとりの科学者が、自ら被験者として装置を実験している途中にハエが混入してしまい、以後だんだんハエへと生成していく過程を描いた、デヴィッド・クローネンバーグ監督『ザ・フライ』(The Fly, 1986)を参照している。テレビネットワークのプロデューサーが飲んでいるワインにハエが混入するシーンは『ザ・フライ』の結末をなぞる予兆となっていると見ることもできるし、“Monstro Elizasue” というエリザベスとスーをあわせた怪物の命名も、同作の主人公ブランドルとハエの融合体、 “Brundlefly” に由来すると考えられる。シアターの血の惨劇は、ブライアン・デ・パルマ監督『キャリー』(Carrie, 1976)を参照しているとの見方が有力だが、怪物が回転しながら血を撒き散らすことを念頭に置くと、チェンソーで周りのゾンビたちをくるくると回転しながら切り刻んでいく場面がある、ピーター・ジャクソン監督『ブレインデッド』(Braindead, 1992)に対するオマージュである可能性もある。
シアターのエレベーターのなかでスーの爪が剥がれるところから、自宅で怪物に変貌し、再びシアターに戻って舞台にのぼるまで続く一連の主観(POV)ショットには、人間的な五感が剥落していく過程と非人間的な感覚の生成、怪物の主観を撮影する努力が随所に見られる。

*18──「わかったつもり」を誘発するのが常の単純化を敢えてするなら、『サブスタンス』は、人間には実現不可能な、老化することのない完璧な美を要求してくるエンターテインメント業界の欲望を実現してしまった結果、怪物として排斥されるリジーの物語としてまとめることもできる。怪物という非人間化・擬獣化の修辞は、民族浄化に多用される。現在進行形の事案では、パレスチナの民を動物や怪物に擬え、彼らの殲滅を扇動するイスラエルのネタニヤフ首相が典型である。これに対しヒューマニズムは人種差別や民族浄化に抗うために獣や怪物という表象を人間という表象に置き直し排除されていたものを再び包摂することに躍起になる。しかし怪物をつくりだすのは同じ人間の実践である。いつも人間の存在を正当化するためにその外部に他者をつくりだしている現実の人間の生を無視し、人間の普遍性を謳うヒューマニズムの理念では、人間に都合のよい他者がつくられる循環と真摯に向き合うことはできない。われわれは人間であることをやめ、怪物(monsters)に生成し、身をもって示す(demonstrate)必要がある。ヒューマニズムと怪物の問題については、逆卷しとね「ジャングル! ウェルカム・トゥ・ザ・ジャングル! トニ・モリスンと擬獣化の時空」(『ユリイカ』2019年10月号 204-13)、逆卷しとね「普遍人という夢 人種と人類種の20世紀アメリカ」(『現代思想』2024年10月号、203-14)、及びDonna J. Haraway, “The Promises of Monsters: A Regenerative Politics for Inappropriate/d Others.” (The Haraway Reader, Routledge, 2004, 63-124)を参照。

『サブスタンス』

5月16日から公開中
監督・脚本:コラリー・ファルジャ
出演:デミ・ムーア、マーガレット・クアリー、デニス・クエイド
配給:ギャガ 
公式サイト:https://gaga.ne.jp/substance/

逆卷しとね

逆卷しとね

さかまき・しとね 学術運動家/野良研究者。監修に、『メディウム』2号「特集・ダナ・ハラウェイ」(2021)、まどかしとね『サイボーグ魔女宣言』(2024)、攻殻機動隊M.M.A.特集「アウトロー」(2024, +辻陽介, https://theghostintheshell.jp/mma/issue-02)。論考に「非人間的友情という隘路 最小の友情、そしてダナ・ハラウェイ「かけがえのないタガい」(『現代思想』2024年6月号、177-192)など。翻訳にマイケル・ハッドフィールド+ダナ・ハラウェイ「樹上性マイマイ宣言」(『思想』2022年10月号「マルチスピーシーズ人類学」49-81, 同11月号「環境人文学」139-59)など。(Photo by UMEP)