展覧会「『シュルレアリスム宣言』100年 シュルレアリスムと日本」が東京・板橋区立美術館で3月2日に開幕した。会期は4月14日まで。京都文化博物館からの巡回展で、今後三重県立美術館にも巡回する(会期:4月27日~6月30日)。
シュルレアリスムは、近代の科学や合理主義を批判し、人間の深層意識を探求して新たな表現を切り開いた20世紀最大とされる芸術運動。フランスの詩人アンドレ・ブルトンが100年前の1924年に発表した『シュルレアリスム宣言』が端緒となり、文学運動として始まった。やがて美術の領域に広がり、幻想的な世界を描いたマックス・エルンストやルネ・マグリットら多くの共鳴者を生み、うねりは日本にも及んだ。
本展は、シュルレアリスムの影響が色濃く反映された戦前~戦後の絵画や写真など約120点を一堂に集め、日本での展開を概観するもの。同分野の研究で知られる板橋区立美術館、京都文化博物館、三重県立美術館の3館が共同企画した。取り上げる作家は90人に及び、彼らが発行した同人誌など資料もふんだんに紹介している。
展示は、ブルトンらの著作が並ぶ序章から始まり、「先駆者たち」「衝撃から展開へ」「拡張するシュルレアリスム」「シュルレアリスムの最盛期から弾圧まで」「写真のシュルレアリスム」「戦後のシュルレアリスム」の7章構成。時系列に沿って作品と資料が並び、日本のシュルレアリスムの盛衰を克明に伝える。
日本におけるシュルレアリスム的な表現は、1929年の二科展に出品された東郷青児、阿部金剛、古賀春江らの絵画が嚆矢となった。宙に浮かぶ奇妙な人物を描いた東郷の《超現実派の散歩》、多様なイメージで構成した古賀の《鳥籠》は、現実から遊離した幻想性が印象的だが、本来のシュルレアリスムと異なるモダニズムの要素も見て取れる。
より本格的な導入と目されるのは、滞仏経験がある福沢一郎が1931年に発表した一連の絵画。西洋の人物や道具を脈絡なく組み合わせ、不可解な印象を与える絵画は美術界に衝撃を与えた。1930年代初頭にはエルンストらの実作を展示した「巴里新興美術展覧会」が国内6都市と大連(中国)を巡回し、前衛志向の若い画家たちを熱狂させた。
日本の初期シュルレアリスムの重要作とされる三岸好太郎《海と射光》。海が見える砂丘に横たわる裸婦と貝殻が描かれ、白日夢を見るようだ。それまで具象やキュビスムなど様々な表現を試みた三岸は、本作を制作した1934年に31歳で病死してしまう。
シュルレアリスムの影響は、東京のみならず、関西や名古屋などにも広がった。会場には戦後に具体美術協会を創始した吉原治良、日本画優勢の京都で前衛的な洋画を制作した北脇昇や小牧源太郎の作品が並ぶ。北脇の《独活》は人間を思わせるウドがひょろりと立ち、不安とない交ぜのユーモアが漂う。広島を拠点に活動し、原爆のため多くの作品が失われた山路商の絵画も見ることができる
1930年代半ば以降、隆盛へ向かった日本のシュルレアリスム。関心を持つ画家や画学生が複数のグループを結成し、制作や交流は盛んになるが、戦時体制に直面した表現は次第に重苦しさをまとっていく。
福沢一郎の《人》は、日本による満州建国(1932)後に同地を旅した経験をもとに制作された。ほころびた人体や歪んだ飛行機から社会に対するへの批判的な眼差しがうかがえ、イメージを軽やかに組み合わせた初期作から画風は大きく転換している。米倉壽仁の《ヨーロッパの危機(世界の危機)》 は、ひび割れた大陸と倒れた馬が描かれ、寓意的に切迫感を伝える。
シュルレアリスムを志向した画家、画学生による画派やグループも丁寧に紹介し、冊子や展示目録、著作を多数展示。往時の活動が伝わってくる。画学校では、1929年に開校した帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)が中心だったが、シュルレアリスムが異端視された東京美術学校(現・東京藝術大学)でも杉全直らが会を結成するなど、影響は広汎だった。
戦時体制が進む1930年代後半以降、サルバドール・ダリの作品が日本に紹介され、彼が多用した水平線やダブル・イメージを援用した作品が数多く制作された。美術評論家・詩人の瀧口修造がシュルレアリスムの造形手法のデカルコマニー(紙の間に絵具を挟み偶発的な模様を得る技法)を紹介し、1939年に福沢一郎らが美術文化協会を設立するなど多様な活動を展開した。
だが1941年、共産主義とシュルレアリスムの関係が疑われ、福沢と瀧口が治安維持法違反容疑で検挙・拘留される。広島の山路商らも検挙され、山路は拘留中に体調を崩し後に死亡。シュルレアリスムの弾圧として知られるこの事件は、画家たちを委縮させ、気運は急速にしぼんでいく。
最盛から弾圧期をたどる第4章は、見ごたえがある作品が目立ち、表現の成熟を感じさせるが、一般には知られていない作家が多い。1941年の太平洋戦争開戦と前後して召集を受け従軍する若手が増え、画業半ばで命を落とした人が相次いだためだろう。
若者による前衛運動の象徴的な存在が、帝国美術学校で学んだ浅原清隆だ。本展メインヴィジュアルに採用された《多感な地上》は、白いハイヒールから黒い子犬が産まれ、人物の髪のリボンが鳥に変貌している。不穏さと希望が同居する本作を描いた浅原は、出征先のビルマ(現・ミャンマー)で行方不明となった。
こちらを射すくめる強い眼差し。敗戦後に上海で病死した靉光の《眼のある風景》は、目がある巨木か肉塊のようにも見え、鑑賞者の想像力を揺さぶる。日本のシュルレアリスムの記念碑的作品だ。沖縄で戦死した渡辺武、輸送艦が爆撃され死去した矢﨑博信による、日常の中の違和感を表現した作品も並ぶ。
水平線に広がるキノコ雲と横たわる足、ブランコに乗る女性が描かれた《二つの営力・死と生と》。戦後も活躍した吉井忠が1938年に発表した本作は、原爆の悲劇を連想させる。むろん当時の吉井がそれを知るよしもないが、不条理な画面には不吉な気配が立ちこめる。
作品数は多くないが、会場では植田正治ら写真家による作品も紹介されている。山本悍右(勘助)が若干18歳で制作した作品は、軍縮や恐慌を伝える新聞記事にエロティックな唇や足をコラージュし、シュルレアリスムの技法を写真に取り入れた先駆的な例とされる。
戦後、シュルレアリスムは再び画家たちに支持された。新たに取り組む作家も現れたが、本展の最終章はあえて戦前から試みた阿部展也(芳文)や岡本太郎、古沢岩美、早瀬瀧江らの作品を紹介し、その継続性に目を向けさせる。
戦後、現実社会に取材した「ルポルタージュ絵画」を展開した山下菊二は、戦前に福沢一郎の絵画研究所で学んだ。《新ニッポン物語》は、どぎつい図像がコラージュされ、アメリカの日本支配を痛烈に風刺する。
軍事体制や戦争により短期間で終息し、戦後に息を吹き返した日本のシュルレアリスム。板橋区立美術館で本展を担当した弘中智子学芸員は「フランスにおけるブルトンのような中心的主導者は日本におらず、代表的な画家とされる福沢一郎も自身をシュルレアリストと考えていなかった。思想的に組み立てられた運動ではなく、画家たちは個々の関心や思考に根差して自分なりの表現を模索した」と説明する。
西欧の模倣と批判された日本のシュルレアリスム研究が本格化したのは1990年代以降。個別の画家の回顧展や企画展が開催され、知られざる作家や作品の発掘も進んだ。そうした研究成果を反映した本展は、「新しい戦前」を危惧する声もあがるいま、感じ・考えさせる表現に満ちている。
なお本展の図録(青幻舎刊)も、地域やテーマ別の論考が多数収録され読みごたえがある。関心がある人はチェックしてほしい。