フェイ・ドリスコル「Weathering」 Photo by Kozo Kaneda
フェイ・ドリスコルによるダンス作品「Weathering」が、10月10~13日、東京芸術劇場で上演されました。2023年にニューヨークで初演され、同年のオビー賞を受賞した本作は、舞台芸術祭「秋の隕石2025東京」プログラムのひとつとして初めて本邦に招聘されました。舞台の上に絵画を作り上げる「活人画」の手法を参照した本作は、風化を意味するタイトルのとおり「地球上で存在が風化していくさま」を表現したパフォーマンスとされています。それは前評判のとおり大変素晴らしかったのですが、さてしかし、何がそんなに面白かったのでしょうか? というか、あれはいったいなんだったのだろう? 現代人のための新しい身体論『踊るのは新しい体』の著者が考えました。
Skin......Teeth......Tongue......Vein......Blood.......不穏なコーラスとともに入場した10人によって、活人画のようなパフォーマンスが幕を開ける。舞台となる中央の白い大きなマットレスは、目算で3m×3m、高さは50cmほど。四方をロの字型の客席に囲まれている。「活人画のような」とはいったものの、その柔らかい足場は明らかに、ポーズをとって静止するのには向いていない。初秋のニューヨークを歩いていそうな老若男女が、不安定なベッドのうえに脚を震わせて立ち並ぶ。観客に悟られないようさりげなく動き、ちょっとよそ見をした隙に次々とポーズを変え、いつのまにかそこかしこでコンタクトを始めている。禁欲的で端正な絵作りには、ゲーム的な緊張感が漂う。企みに満ちた目線の動き、無理な姿勢を保持する筋肉の収縮と息遣いは、どこか「だるまさんが転んだ」を思わせる。
率直に言って、ダンス作品としてはこれだけでもまずまず見応えがある。ところが、ベッドが回り始めた途端、舞台はその様相をがらりと変えてしまう。

おもむろに客席後方から2人のスタッフが現れ、ベッドの角を掴んで270度回転させる。次いで、スタッフはスプレーを手に取り、ベッドと客席に向けて液体を噴霧する。すでに汗に濡れた皮膚が、念入りな噴霧を浴びてより一層てらてらと光る。その後も舞台が回転を重ねるにつれ、ベッドの上は混沌としていく。パフォーマーは互いに衣服や靴を引っぱりあい、肌があらわになっていく。誰かの鞄から取り出されたジェルがそこかしこに塗りたくられ、互いの指がくわえられる。ある者は携帯電話を取り出し、ある者はオレンジや草を食み、ある者は隣人の太ももにコンパクトミラーを置いて化粧を始める。いつのまにかパフォーマーたちが自ら舞台を回している。アヘン窟のようにドロドロに溶けた体から発せられる息遣いは呻き声に変わり、やがて唸り声に変わっていく。泥濘の中からひとり、またひとりと半裸のパフォーマーが立ち上がり、アクロバティックなポーズを取っては崩れ落ちる。
舞台の上に共存する弛緩と緊張のバランスは、終盤、爆発的なカタルシスへと昇華する。回転の速度はさらに加速し、脱がれた衣類がベッドの周りに散乱する。パフォーマーは次々とベッドから降り、ほとんど裸のまま絶叫しながら客席周りを走りまわり、そして最後には汗と液体に濡れた体で、一人ひとり客席に頽れていく。


さて、これはいったいなんだろうか。
「秋の隕石」ディレクターの岡田利規が、コンセプトブック『文脈たちの宴』に本作への評を載せている(「2024年5月のメールを転載します。」)。岡田によれば、本作が辿っているのは「『対岸の火事』がそうではなくなるプロセス」だという。
いわく、ここでベッドは海上に漂う筏の比喩であり、パフォーマーは海を漂い嵐に襲われる難民である。パフォーマーと観客との関係は、持たざる者と持てる者との非対称性とパラレルである。持たざる者たちは嵐のなかでずぶ濡れになり、服がはだけていく。しかし、観客もまた嵐と無縁ではいられない。客席に噴霧される液体はつまり海であり、パフォーマーによる客席への侵入は、持たざる者が持てる者の領域を侵襲することを意味している。したがって、これらの「不快」な演出は、観客が「さまざまなことを考える契機」になる。これは「経験するに値する『不快さ』」である──。
なるほど。まあ、ドラマトゥルク的にはそういうことになっているのかもしれない。とはいえ、実際に鑑賞したときの興奮を省みるに、この説明ではまったく釈然としない。

客席に向けて噴霧された液体からは、ほのかにいい香りがした。舞台のうえで咀嚼されていたあの草は、おそらくローズマリーではなかったか。柑橘とハーブが咀嚼され吐き出される状況は、視覚的には不快だが嗅覚的にはむしろ快い。客席への侵入も実際にはかなり遠慮がちなもので、観客に露骨にもたれかかる演者は半数以下であり、残りは客席付近のスペースにちょこんと座っていた程度である。そういう意味では、嵐はおおむねショーケースの中にあり、観客は無害化された災厄を安全に楽しむことができるよう十分配慮されている。
この高みの見物を、「さまざまなことを考える契機」としてしまうのはさすがに傲慢だと思われる。欺瞞ですらあるかもしれない。私は福本伸行の『賭博黙示録カイジ』などを履修しているので、そう簡単には騙されない。持てる者にとって、持たざる者の受難は極上の娯楽でこそあれ、「考える契機」などではありえない。この非対称性は、持てる者が多少の水しぶきを浴びたくらいでは揺るがない。そもそも、劇場の客席とは安全圏から他者を鑑賞できてしまう特殊な場所であって、それがいくらか現実世界の過酷さに近づいたからといってなんだというのか。不快さや侵襲性でいえば、本作よりも通勤ラッシュの満員電車の方がはるかに優れている。パーソナルスペースを侵される経験から何かを学びたいなら、すぐに芸術劇場を出てJR池袋駅から山手線にでも乗ればいい。
誤解のないよう急いで付け加えておくと、先の岡田の評は、接触やヌードがある不快な(かもしれない)作品を東京で上演することへの懸念に対して、擁護として書かれたものである。この文脈は十分鑑みなければいけない。つまり岡田は、ディレクターとして誰か・何かと戦うためにこのような説明を必要としたということだ(なるほど道理で、良識派が喜びそうな説明ではある!)。しかしそのうえで──いや、だからこそ、私のような野良の批評家が公に書き残しておく必要もあろう。本作をそのような位置に置いておくべきではない。あの作品の重心は、どう考えても不快さではなく快楽にあり、受難ではなく解放にあった。

まったく別の角度から、もっと当たり前のことからあらためて考えてみよう。ほんとうは「無害化された災厄」どころの話でさえなくて、むしろすべてが快楽のために設えられていた、とは言えないだろうか?
たとえば、裸体や性器の露出はたんに不快なものだろうか。正直なところ、回る舞台の上でパフォーマーの衣類がはだけ始めたとき、私はすぐに日本式のストリップショーを連想した。本作の形式、つまり客席に囲まれた回転式ベッドの上で服を脱ぎ、無理な姿勢でポーズをとるというあの形式は、本邦で独自の進化を遂げたストリップの様式とあまりにもよく似ている。
意図せざる偶然の一致だろうか? いや、歴史的な必然性がある。ドリスコルが本作の制作で参照した活人画の歴史は、裸体の提示と不可分なのである。19世紀後半のパリ社交界では、公共空間での裸体展示というタブーを侵す口実として、神話(つまり、半裸の英雄たちが登場する物語)をモチーフとした活人画が頻繁に催された。19世紀末のニューヨークには、回転式の台座を用いた裸体活人画の記録がある。回転する舞台は、パフォーマーは動いてはいけないが、観客は様々な角度から裸体を見たいという矛盾した要請に応える仕掛けであったらしい(京谷啓徳『凱旋門と活人画の風俗史 儚きスペクタクルの力』講談社選書メチエ、2017)。
ちなみに本邦では、昭和22年に開場した新宿帝都座の小劇場で裸体活人画の興行(通称「額縁ショウ」)が催され、これが今日のストリップに至るヌードショー興行の嚆矢となっている。西洋絵画の模倣という体裁をとった活人画は、公権力の規制をかいくぐりながら裸体を提示するのにうってつけの形式でもあった(前掲書)。かくして、活人画の歴史はタブー化された欲望を発露することや、規制を侵犯することと切っても切り離せない。そして、それらはしばしば、その時代にふさわしい清く正しい物語の体裁をとってきた。

今回、本作の上演にあたり「考える契機」という道徳的な物語が語られたのも、だから偶然ではない。神話や西洋絵画と同じことである。とはいえ、本作がたんなるストリップだったと言うつもりもない。実際には裸体提示と同時に、劇場空間におけるありとあらゆるタブーが侵されていったからだ。化粧、飲食(そして吐き戻し)、携帯電話の使用、液体や粉塵の噴霧、隣の人の体を舐めたり噛んだりすること……。大きな声で叫ぶとか、客席を走り回るといった終盤の展開も、こうした逸脱が行き着いた先なのだと見立てるべきかもしれない。
つまるところ、本作におけるWeathering=風化とは、ひとつには文化的コードの漂白であった。あの上演は、冒頭の都会風の絵作りで丁寧に確認された私たちの文化とコードが、無に帰していくプロセスそのものだった。そして、それはとても気持ちいい。崩れ落ちるトランプタワーや、壮大なドミノ倒しがそうであるように。たんなる無法地帯の乱痴気騒ぎだったと言っているのではない。まず規範があり、それが瞬く間に無に帰すというプロセスが、丁寧に表現されていたということである。
良識ある文化人には辛いことかもしれないが、私たちはまず初めに、この極めてプリミティブな快感を正直に認めねばならないように思う。この点を抜きにしては、あの日の興奮はおそらく説明できない。

こうして建前を捨て去って初めて、私たちはこの作品と真摯に向き合うことができる。嵐とは何であったか。すべてが風化し、文化が漂白されたあとで、新たに立ち現れたものは何か。
嵐はおそらく天災ではなかったし、持たざる者が一方的に被る被害でもなかった。パフォーマーたちを襲うあれこれは、天井から降りそそぐのでも床から吹き上がるのでもなく、つねにパフォーマー同士のあいだに発生していた。高速で回るベッドは機械仕掛けではなく、パフォーマーの誰かが押して回していた。同じ筏に乗った持たざる者同士が衣服を引っぱりあい、多様な液体を塗りあうその動作を、私たち観客は見逃してはいない。
これらはつまり、持たざる者たちは彼等同士で奪い合うほかない、というメタファーだろうか? そう考えても筋は通るが、この解釈は本作をふたたび低俗な(『カイジ』的な)高みの見物に貶めてしまう。私たちが見たままを表現するなら、むしろこういうことではないだろうか。嵐はときに文化の内部に、皮膚と皮膚とのあいだに自ずから生じる──。
風雨はいつも表面に作用する。Weatheringのタイトルが意味するのは、たとえば露出した岩石や建築物の表面を、風雨が変化させていくプロセスのことである。「地球上で存在が風化していく」という本作のキャッチコピーは、正しいけれども抽象的すぎる。崩壊するのは具体的な個物の表面、私たちでいうところの皮膚である。まさしくこの点で、文化の漂白が脱衣によって表現されるのは理にかなっている。衣類とは私たちにとって、文化と意味によって編まれた第二の皮膚だからだ。

裸になることは、皮膚を露わにすることである。裸といえば官能的にも聞こえるが、実際のところ皮膚とは官能以上のものである。皮疹、タトゥー、手術痕……疾病や思想信条、ときにセクシュアリティをも示唆するそれらの痕跡は、それ自体が極めて機微性の高い個人情報でもある。それゆえ皮膚とは、秘匿される部分であり、同時に眼差され、侵される部分でもある。あらためて、冒頭の不穏なコーラスを思い出そう。唱えられていたのは私たちの体にまつわる言葉たちであり、もっといえば体表のアクセスポイントだった。
Skin......Teeth......Tongue......Vein......Blood......聞こえた範囲ではSurveillanceというのもあったが、これもまさしく、大きな力が私たちの体を眼差す技術のひとつである。本作が皮膚と皮膚へのアクセスをめぐる上演だったという見立ては、したがって、そう無理のあるものではない。
しかし、彼等・彼女たちはただ一方的に皮膚を暴かれたのではない。嵐が外的侵襲ではなく内破なのだとすると、脱衣は暴かれ侵されるという以上の意味を持つ。脱衣とは、提示する皮膚の層を変えることである。身にまとった記号が剥がれれば、新たな記号が現れる。そうして剥き出しになったいちばん下の生の皮膚は、風雨に晒されたとてそう簡単には風化しない。その力強い表れは、ある種の解放にほかならない。
秘匿されたものが開示され、装うことが無意味になった空間で、生身の皮膚は眼差されるものから自ら誇示し突きつけるものへと転じる。まるでヤクザの刺青のように、皮膚の提示がその場の序列をシャッフルする。風雨の中で、生身の体が意味するところが刻一刻と変わっていく。新しい体で満たされた空間には、別のコードが立ち上がる。つまるところ、私たちが目にしたのは、身体表現のレベルでいえば生身の体が刻一刻と変貌していくさまであり、物語のレベルでいえば、世界を内破した力が新しい秩序を立ち上げるさまだった。
このとき、むしろ場違いになるのは私たちのほうである。パフォーマンスが観客に襲いかかる、ということが起こっていたとすれば、それはこのような意味においてだろう。転覆したのは筏ではなく私たちの足元だった。つまりは革命である。それは持てる者にとっての災厄でこそあれ、持たざる者を襲う嵐ではもはやない。
なるほどたしかに、この快楽は少々反体制的かもしれない。このご時世、こうして清く正しい物語によって守られなければ、本邦で上演されることも叶わなかったのではないか、という気がしてきた。あらためて、本作を招聘した「秋の隕石」と、これを擁護した岡田に最大限の賛辞を示したい。
