公開日:2025年4月21日

写真家・石元泰博がパリで熱く支持された理由。欧州では知る人ぞ知る存在だった巨星の高まる評価(文:朝倉芽生)

パリのアートセンター「ル・バル」で開催された、写真家・石元泰博の個展。本展の反響や作家の評価の高まりについて、キュレーターのひとりとして携わった高知県立美術館学芸員の朝倉芽生がレポート

石元泰博 シカゴ ビーチ 1948-52 © 高知県,石元泰博フォトセンター

写真家・石元泰博、ヨーロッパで高まる評価

オリンピックに沸いた昨年のパリで、ヨーロッパでは過去最大規模となる写真家・石元泰博の個展が開催された(2024年6月19年〜12月22日)。会場となったのは、写真や映像、ニューメディアといった“現代のイマージュ(image)”に特化したアートセンター「ル・バル(Le Bal)」である。会期中に3万3千人以上の来場者を迎え、展覧会図録はパリフォトとアパチャー財団(ニューヨーク)による写真集アワードの図録部門へと入選を果たすなど、国際的にも反響を呼んだ。

ヴィンテージプリントを多く含む出品作169点は、すべて高知県立美術館の所蔵品である。高知県は、石元および遺族から、約3万5千点にも及ぶオリジナルプリントと、関連資料、さらには著作権の寄贈を受けており、2013年にはそれらの管理のため「石元泰博フォトセンター(IYPC)」を当館学芸課内に設置している。IYPC担当学芸員である筆者は、本展にキュレーターのひとりとして携わった。無事に作品が収蔵庫へと戻ったいま、その経緯や現地の様子を振り返ってみたい。

ル・バル外観。先端的な展示企画だけでなく、併設するカフェとショップも人気 撮影:筆者
ル・バルのエントランス 撮影:筆者

「現代の写真が目ざす理想には、石元なしでは近づけなかった」

石元は、1921年に高知県からの農業移民の子として米国サンフランシスコに生まれた。3歳から高校卒業までを高知で過ごしたのち米国に戻り、戦中は日系人強制収容所で過ごしている。戦後、中西部の近代都市シカゴへ移り、インスティテュート・オブ・デザイン(通称ニュー・バウハウス)へ入学、モダンフォトグラフィと出会うこととなる。卒業後、1953年代に“来日”し、まったく新しい写真表現の実践者として、日本の写真界のみならず、美術、デザイン、建築界においてその存在を示した。

石元泰博 セルフ・ポートレート 1975 高知県立美術館蔵 © 高知県,石元泰博フォトセンター

1974年、ニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催された「New Japanese Photography」は、日本の現代写真が、初めて国外でまとまって紹介された歴史的展覧会として知られる。東松照明、深瀬昌久、森山大道といった、当時の気鋭の若手を中心としたこの展覧会で、MoMAのジョン・シャーカフスキーと共同企画を務めた写真編集者・プロデューサーの山岸章二は、次のような言葉を残している。

「われわれは現代写真の核になる部分について、その多くをアメリカから帰った石元泰博に学んだ。いまにして思えば、その思想や技術は余人の手からでも習得できたかもしれないが、現代の写真が目ざす理想には、石元なしでは近づけなかったであろうことをここに明記したい(*1)」

石元泰博 シカゴ 街 1948-52 高知県立美術館蔵 © 高知県,石元泰博フォトセンター
石元泰博 東京 こども 1953-57 高知県立美術館蔵 © 高知県, 石元泰博フォトセンター

ル・バルの共同ディレクターであり、今回のキュレーションを務めたディアンヌ・デュフールによると、本展企画の発端はまさに、この山岸の言葉であったという。彼女は、2016年にプロヴォークをはじめとした1960~70年代の日本写真を取り上げた展覧会(*2)を手掛けるなど、長らく日本の写真表現に関心を寄せてきた。日本の写真家といえば、森山、荒木経惟、杉本博司らがよく知られるいっぽうで、石元は知る人ぞ知る存在に留まる。しかし、そうした現代写真の系譜を遡っていくと、歴史上の欠くことのできないピースとして、おのずと石元の名前が浮かび上がってくるというのだ。

石元泰博 東京 街 1963-70 高知県立美術館蔵 © 高知県, 石元泰博フォトセンター
石元泰博 東京 街 1957頃 高知県立美術館蔵 © 高知県, 石元泰博フォトセンター
石元泰博 落ち葉 1991頃 高知県立美術館蔵 © 高知県, 石元泰博フォトセンター
石元泰博 人のながれ 1999頃 高知県立美術館蔵 © 高知県,石元泰博フォトセンター

「視覚のバイリンガル」石元の写真世界を見せる

ル・バルは、モンマルトルからほど近い路地の元ダンスホールをリノベーションした施設で、1階と天井高のある地下階が展示空間となっている。1階の小さな展示室では、石元が学んだシカゴのニュー・バウハウスにおける、ラースロー・モホイ=ナジやハリー・キャラハンらの影響が色濃い初期作と、初写真集『ある日ある所』(1958年)が紹介された。地下階へと降りると、代表作〈桂離宮〉の厳選されたプリント群が展示室中央に展開し、その周囲をシカゴと東京のスナップが取り囲む。そして晩年の〈刻(とき)〉シリーズで展覧会は締めくくられる。

〈桂離宮〉の周囲に組まれた襖や障子を思わせる軽やかな展示壁や、日米を往還した石元の足跡を体現するかのような回遊的な空間構成が、斬新ながらも作品と心地よい響き合いをみせていた。

石元泰博 桂離宮 新御殿東面と芝庭 1954 高知県立美術館蔵 © 高知県,石元泰博フォトセンター

「Des lignes et des corps(線と身体)」との展覧会タイトルは、会場の冒頭に引用されたジョン・ケージのエピグラフ──構造は命を伴わなければ死んでおり、命は構造を伴わなければ目に見えない──とも呼応しながら、バウハウスに由来するフォーマリズムと、キャラハンのヒューマニズムを独自のかたちで統合した、石元の作品世界を言い得ている。

会場風景 © Marc Domage

抽象と具象、西洋と東洋、存在と不在。マイナー・ホワイトが石元を「視覚のバイリンガル(*3)」と評したように、石元はさまざまな両極の狭間で、自らの写真表現を追求した。石元が提示するのは、1枚の写真をそれ自体として自律させつつ、写真家と世界との関係を凝縮した「体験」であると、デュフールは指摘している(*4)。

展示解説をするル・バル共同ディレクター ディアンヌ・デュフール 撮影:筆者

内覧会当日には、多くの観客が詰めかけた。会場では、「森山は知っていたが、イシモトは聞いたこともなかった」「こんなに面白い写真家がいたなんて」といった驚きの声が多く聞かれた。余談だが、帰国前にパリ近郊のル・コルビュジェ建築を訪れた際、驚いたことがあった。偶然言葉を交わした見学者がなんと、ここが好きなら石元展も行ってみては、と勧めてきたのである。まさに、石元の写真表現が当地の観客の心を動かし、その静かな熱がじわじわと広がっていく様子を垣間見たような出来事だった。

地下階の展示室 撮影:筆者

外部へと開かれたコレクションの可能性

本展の成功は、何よりもデュフールの優れたキュレーションによるものだろう。しかしそれだけではない。当館が、郷土作家である石元から寄贈を受けた、膨大な作品群を保存整理し、地道に調査研究を積み重ねてきたこと。そして、その蓄積を基盤としたル・バルと当館との緊密なコラボレーションがあったからこそ、実現したものである。コレクションは、外部に対して開かれ、多様な文脈から読み解かれることで、より豊かなものに育てられていくように感じている。今回の展覧会は、欧州における日本写真のイメージを更新しただけでなく、地方美術館のコレクション利活用の事例としても、意義のあるものだったといえるだろう。

会場風景 © Marc Domage

*1── 山岸章二, “まえがき”(和文), New Japanese Photography (New York: The Museum of Modern Art, 1974), pp. 15–16.
*2── Provoke: Between Protest and Performance - Photography in Japan 1960–1975 (2016) https://www.le-bal.fr/en/2020/12/provoke
*3── Minor White, “photographs by YASUHIRO ISHIMOTO,” exhibition brochure (Chicago: The Art Institute of Chicago, 1960).
*4── Diane Dufour, “Ishimoto or the art of ma,” Ishimoto – Lines and Bodies (Paris: Atelier EXB / LE BAL, 2024), pp. 9–11. ほか参照。

朝倉芽生

朝倉芽生

あさくら・めい 高知県立美術館 石元泰博フォトセンター 学芸員。2018年より現職にて、写真アーカイブズの構築と調査・研究、展示・普及等に従事。主な担当として、石元泰博・コレクション展「都市―〈映像の現代〉シリーズより」(2020)、「生誕100年 石元泰博写真展」(共同企画、2021)、コレクション・テーマ展「写真の冒険」(2024)など。その他、県ゆかり現代作家の企画として、「大木裕之 監督作品上映」(2023)、「ARTIST FOCUS #05 三嶽伊紗 カゲ ヲ ウツス」(2024)など。