公開日:2025年5月14日

柳幸典インタビュー。被爆国日本の記憶と、混沌とした現実における理想を世界に示すアート(文:島田浩太朗)

日本を代表するアーティスト、柳幸典。現在ミラノで大規模個展を開催中の作家に、アーティストとしての歩みや海外での生活、原爆をはじめとするテーマについて聞く

柳幸典 Photo Hideyo Fukuda

欧州初となる大規模回顧展「イカロス」

柳幸典(1959年福岡県生まれ、尾道市・百島在住)(*1)の欧州初となる大規模な回顧展「イカロス(ICARUS)」が、ミラノの非営利現代アートセンター、ピレリ・ハンガビコッカ(*2)で始まった(会期:3月27日〜7月27日)。

自分とは何者か。その根源的な問いを中心に据え、今日におけるナショナリズムやアイデンティティ、人間と環境の関係性をめぐる社会・環境問題を探究し、40年間という長きに渡り、普遍的な問いを投げかけてきた。同展オープニングレセプションには、約30年前、第45回ヴェネチア・ビエンナーレ「アペルト’93」展(*3)以来の親しい友人でもあるアーティストのマウリツォ・カテラン、リクリット・ティラヴァーニャらも駆けつけた。

柳幸典 Photo Hideyo Fukuda

暗闇の中で地鳴りのように響き渡る轟音と、時間が止まったかのような沈黙。それらが交互に身体を包み込み、場内には不穏な空気が流れる。大波にさらわれ打ち上げられた漁船や乗用車、核燃料タンクなどが高く積み上がったガラクタの山。ゴジラの目玉と思われる眼球には、核実験の映像が繰り返し投影され、赤く灯る憲法9条の断片が足元に散在する。会場右奥には蛇行連結されたコンテナの迷宮が見え、その上方には宙吊りにされた核弾頭が待ち構える。柳は元鉄道車両工場の巨大な展示室を、まるでパンドラの箱を開けたかのような、想像と現実が奇妙に融合したシュルレアリスティックな風景へと見事に変貌させた。

「ICARUS」(ピレリ・ハンガービコッカ)会場風景より、手前が《Article 9》(1994)、奥が《Project God-zilla 2025 The Revenant from “El Mare Pacificum”》(2025) © YANAGI STUDIO Courtesy of the artist and Pirelli HangarBicocca, Milan Photo:Agostino Osio

「展覧会タイトルの『イカロス』は、ギリシア神話に由来します。ご存知の通り、主人公の若者イカロスが幽閉された塔から脱出するために職人の父ダイダロスと共同制作した人工の翼(蜜蝋で接着されている)で脱出を試み、空を飛べることに過信し、太陽に近づき過ぎて焼け落ちてしまうという物語です。これは人間のテクノロジーに対する過信への戒めのアレゴリーとして知られていますが、この展覧会ではこの神話の教訓を基軸に据えています。

今回は久しぶりのヨーロッパでの展示ということに加えて、キュレーターのヴィセンテ・トドリからも基本的に好きなようにして良いと言われたので、その言葉通り、本当に自由にやらせてもらいました(笑)。1993年のヴェネチア・ビエンナーレに出品した万国旗の作品《ザ・ワールド・フラッグ・アント・ファーム》(*4)はこちらでも認知されていますが、ほかの作品はほとんど知られていません。そういう理由もあって、これまでヨーロッパで発表したことのない大型作品も含めて展示しました」

「ICARUS」(ピレリ・ハンガービコッカ)会場風景 © YANAGI STUDIO Courtesy of the artist and Pirelli HangarBicocca, Milan Photo:Agostino Osio

「今回の展示は、ある意味で僕のおもちゃ箱をひっくり返したようなものです。ゴジラやウルトラマン、あるいはプラモデル。幼少期に遊んでいたものが大人になってまったく別のものに見えてくる。たとえば、蟻にしても、子供の頃は蟻を収集して、育てて、巣を作らせたりしていた。そこに国旗の要素を加えるというのは大人になってから生まれてきた視点です。またプラモデルにしても、たんにおもちゃとして遊ぶのではなく、実際に沈んでいる戦艦を体感するために、自分でアクアラングを担いで潜ったりする」

「ICARUS」(ピレリ・ハンガービコッカ)会場風景より、《Banzai Container》(2025、部分) © YANAGI STUDIO Courtesy of the artist and Pirelli HangarBicocca, Milan Photo:Agostino Osio

芸術家を志して:九州派の作家だった叔父

幼少期における昆虫やフィギュア、プラモデルとの戯れは、柳の鋭い観察力や豊かな想像力を育てた。やがて歳を重ねるにつれて、それらは現代社会や歴史と深く結びつけられることで、別の意味を帯び始める。たとえば、昆虫の世界と人間社会が重なって見えてきたり、あるいは特撮ヒーローや悪者がグローバル資本主義の生み出す経済や制度の被害者に思えてきたりする。私たちの暮らす現実世界は、彼の鋭い観察眼に基づいた淡く脆い期待や悪夢のような妄想と重なることで、緊張感の溢れるサイエンス・フィクションのような現実感を持って現れる。

「僕は芸術家の家系ではありません。戦時中、父親は零戦のパイロット(実際には搭乗する飛行機が不足し、出撃せず)で、戦争が終わってからは公務員でした。とにかく一生、国に尽くしてきた人です。だから、芸術なんて想像もつかないし、しかも自民党員だった(笑)。父とは意見が合わないから、いつも喧嘩ばかりしていました 。でも、唯一の救いは、彼には強い学歴コンプレックスがあって、大学に進学するならどこでもいい、と言ってくれたことです。一応、進学校だったので、周りはみんな一所懸命に勉強して九大を目指す雰囲気だったけど、僕はまったくそういう気がなくて。落ちこぼれていて、全然違う方向に行きたいと思っていました。それで、とりあえず美大を選んだ」

「親戚にアーティスト活動をしていた叔父さん(宮﨑準之介)がいました。彼が九州派に所属する若手の前衛芸術家であることを知ったのはもっとずっと後のことです。当時はとにかく、やることなすこと、ほとんど親から反対されるんだけど、この叔父さんだけは僕を褒めてくれる(笑)。『おまえは遊び方がうまい』『棲家の作り方がうまい』とか。

これは悲しい話ですが、入学した武蔵美は保守的な公募展系の先生たちばかりで、人生の指標となるような人はいなかった。しかも現代美術をやろう、っていうのが僕しかいなかった。いまみたいにインターネットですぐに調べられるという時代じゃないし、とにかく反発して、全然違うことをやっていたら、色んな人からこういうのは知っているかと教えられて、徐々に知っていく。あとは、学生の頃に西武美術館でヨーゼフ・ボイスの大きな展覧会(1984)があったりして、少しずつ現代美術が身体に沁みてきた感じですね。実際に関根伸夫さんやもの派の作家とお会いすることになるのは、作家活動を始めてからです」

「ICARUS」(ピレリ・ハンガービコッカ)会場風景より、手前が《Nagato 70·l》(2021)、後ろが《Hinomaru Illumination 2025》(2025)  © YANAGI STUDIO Courtesy of the artist and Pirelli HangarBicocca, Milan Photo:Agostino Osio

初期の代表作《Ground Transposition》(1987〜)の球の大きさは「スカラベ(フンコロガシ)と、それが転がす糞の玉の大きさの割合から作者のヒューマンスケールより割り出したサイズ」(*5)である。『昆虫記』(1878〜1907)で知られるフランス人博物学者ファーブルがもっとも愛したこの神秘的な小動物は、かつて古代エジプトでは太陽神ケプラの化身と考えられ、創造・復活・不死のシンボルとされた。

初期の頃からパフォーマンスとインスタレーションを主軸に置く柳は、幼少期の遊びの延長線上でもある昆虫の生態に身を重ねるという行為を通して、展示室における内部と外部の連続、そして制作・輸送・搬入・展示・搬出という作業プロセスの作品化を試みてきた。

「《Ground Transposition》を初めて発表したときは、誰にも評価されなかったし、もうヤケクソで制作していた。いま振り返ると、もの派の影響というよりは、砂浜で穴をただ掘っていくというパフォーマンスをやっていた九州派の叔父さんや九州派からの影響の方が強いと思います。その頃、僕を最初に拾ってくれたのは北川フラムさんで、ヒルサイド・ギャラリーで展示したときの担当者が池田修さんです。池田さんから声がけされて、どうせやるなら出版もしたいと思い、現代企画室からの出版も含めて、北川さんにプレゼンしました。少ない予算でしたが、展覧会カタログを作ってくれましたね」

柳幸典 Ground Transposition 1986 ©︎ YANAGI STUDIO

この出会いは、約30年後、「柳幸典:ワンダリング・ポジション」展(BankART1929、2016)へと結実し、それまでの作家活動がまとめられた充実したカタログ(*6)も刊行され、2025年のミラノでの回顧展へとつながった。今回の展覧会におけるクライマックスとも言える太陽光の差し込む明るい部屋には、現在の国連加盟国と一部の非加盟国で構成された万国旗のパノラマを背景に、キャンバスの上に放たれた蟻の行動の痕跡を視覚化した《ワンダリング・ポジション》を地面に配置。頭上には広島の土に覆われた《Ground Transposition》が浮遊する。この部屋は希望の感じられる雰囲気を漂わせるいっぽうで、混迷を続ける世界秩序、監視社会の悲哀、迫り来る核の脅威が暗示されている。

「ICARUS」(ピレリ・ハンガービコッカ)会場風景 © YANAGI STUDIO Courtesy of the artist and Pirelli HangarBicocca, Milan Photo:Agostino Osio

アメリカ留学での学び

1980年代後半に入り、日本の美術教育や制度、現代美術から抜け出そうともがいていた柳は、アメリカ留学を決意し、奨学金を得て渡米。コンセプチュアルアート、ポストモダニズム、ネオ・ジオなど、アメリカで同時代の芸術動向の洗礼を受けるいっぽうで、日本の歴史文化を学び直し、考察を深めた。滞在中、日本はバブル期で、米経済はどん底だったが、ベルリンの壁が崩壊。東西冷戦が終わりを迎え、新たなグローバリゼーションと世界秩序の始まりを肌で感じた柳は、それ以後、8年間に渡り、ニューヨークを拠点に活動する。

「当時、海外留学を考えたとき、イェール大学でヴィト・アコンチやフランク・ゲーリーが教えていたから、面白そうだと思ってそこを選んだ。現地では特別なプログラムがあったわけではなくて、大学院の彫刻科に所属して、好き勝手にしていました。とにかく奨学金が充実していて、授業料は免除。生活費はTAや学内掃除で稼いで、なんとか生活していました。日本と決定的に違うのは、日本では授業中に先生の言うことをただ聞くことになるのに対して、アメリカでは完全に同じ立場で話す。たとえば、学生がスライドを使って作品を発表するなら、同様に教員もプレゼンテーションする。どっちが偉いとか、そんなのなくて、喧喧諤諤と批評しあう。ただ僕は英語がそんなに出来ないから、作品で対抗するしかない」

イェール大学スタジオにて、マシュー・バーニーら友人と柳 ©︎ YANAGI STUDIO

ヴィト・アコンチの代表作のひとつに《私たちは今どこにいるのか(私たちは一体誰なのか)》(1976)(*7)がある。窓に対して垂直に配置された木製の長テーブル(幅80cm、長さ12m)と、それを囲む丸椅子(16脚)で構成され、天板は開かれた窓の開口部を通って2.4mほど突き出し、部屋から見ると天板がシームレスに飛び込み板へと変化する。さらに天井から天板に対して吊り下げられたスピーカーからは、決して噛み合うことのない、自問自答のような集団の会話が繰り返される。時折、席替えの合図で、もう一度、振り出しに戻る。この作品は、交渉や対話に失敗し続ける、出口の見えない議論がテーマだ。

「イェール大学に行って、初めてユニヴァーシティ(総合大学・知の全体)というものがわかった。そこには人間の知を記録していく場所としての図書館があって、ほんの数冊の貴重本を売るだけで大学を建て直せるくらいの価値のあるものも所蔵されている。日本の大学とは比較にならないくらいに図書館がたくさんあって、その中に日本語だけの図書館もあった。それまで自分が日本で通っていた図書館よりも遥かに多くの書籍や資料が所蔵されていた。日本で発禁処分になっているような本もあるし、日本の右翼を研究している外国人もいた。ほとんど英語ができないのに留学に行ってしまったから、最初の頃はそこに引きこもって、その図書館で日本語の本ばかり読んでいた。そこで日本のことを研究している人と知り合ったりしました(笑)」

表現の自由と原爆

スタジオでアント・ファームの小作品を作り始めた柳は、大学院終了後、万国旗と組み合わせていく。すぐにニューヨークやロサンゼルスにスペースを持つアメリカの非営利ギャラリーでの個展を2ヶ所同時開催で実現させただけでなく、とくにロサンゼルスでは大きな注目を浴び、ほどなく米美術雑誌『Art in America』の表紙になる。現代美術界で成功するための絶好の機会を得るいっぽうで、柳は社会的タブーに触れる作品を発表することの難しさに直面する。

「アメリカは、確かに日本よりも表現の自由はあるけど、やはり最大のタブーは原爆です。これに関してはいつも喧嘩になる。僕と同世代のアメリカ人でも、やはり原爆を落とさなければアメリカは勝てなかった、と主張する。彼らは見事に洗脳されているわけです。実際は、落とす前にすでに勝敗は決まっていたわけじゃないですか。アメリカはテストをしたかったわけです。これは人体実験です。やはりそこには人種差別があった。私の作品は、場合によっては、アメリカでは展示できません。たとえば、昔、中西部で、星条旗を蟻に食わせる作品をやったら、退役軍人がやってきて、ボイコットされました。ニューヨークでも原爆の作品の展覧会をやったら、退役軍人がシンポジウムのときにやってきた。僕はアートの文脈でそれをやっていたけど、原爆を落とすのが良かった、悪かったという議論に持って行かれてしまった。1993年のヴェネチア・ビエンナーレではアント・ファーム作品が動物愛護団体から攻撃されて、大騒ぎになってしまった。アペルト賞(スウォッチ賞)を受賞して、ヨーロッパ主要3都市で個展をさせてもらえるはずだったけど、最終的に実現しなかった」

「ICARUS」(ピレリ・ハンガービコッカ)会場風景より、《The World Flag Ant Farm 2025》(2025 、部分) © YANAGI STUDIO Courtesy of the artist and Pirelli HangarBicocca, Milan Photo:Agostino Osio

大都市から脱して

近年、1980年代に日本現代美術界で頭角を表していたニュー・ウェイヴの作家たち(岡崎乾二郎、中村一美、宮島達男、柳幸典ほか)(*8)を、1970年前後の「もの派」と1990年前後の「ネオ・ポップ」(村上隆、奈良美智、中村政人、中原浩大ほか)の間に位置付けようとする試み(*9)も見られる。岡崎や中村が独自の抽象芸術を探求し、宮島が「輪廻」など東洋思想に立脚した関係性や永遠性を提示するのに対し、柳はミニマルな造形言語とファウンド・オブジェクトの記号的使用の融合によって、現代社会に内包された目に見えない諸問題を顕在化させる。1990年代後半には、抽象性の高いホワイトキューブでの展示から、その場所に根差したライフワーク的なプロジェクトへと移行し始める。

「ちょうど9.11直前で、なんとなくきな臭い感じがしている頃に、犬島(*10)に出会って、日本に戻りました。ずっとお金に背を向けて移動してきた感じですね。日本がバブルのときには日本にいなくて、アメリカ経済が良くなってきたら出ていく(笑)。ニューヨークでの生活は、経済的には成功していたかもしれないけど、ホワイトキューブで続けるにはなんとなく窮屈な感じがしてきて、ライフワーク的な、長期的に続けられるプロジェクトを探していました。1990年代後半は、東京やニューヨークのような中心から少し距離をとって、ものを考えてみようと思っていました。わざわざ辺鄙なところを選んでやっていますが、とにかく大都市一極集中の歪みみたいなものが地方にある。水俣もそうだし、犬島は大都市からの産業廃棄物が捨てられそうになっていて、それをやめさせるところからプロジェクトが始まっています。何か大きなことをやろうとしたり、問題を解決しようとしたりすると、ひとりじゃできない。だからみんなで協働する方法を模索する。

犬島精錬所美術館 2008 Photo : YANAGI STUDIO

いま韓国でも美術館(FLOATING MUSEUM)を作っていますが、それもまた辺鄙な島です。本当はもう完成しているはずですが、日韓問題でゴタゴタがあったり、コロナ禍で止まったり、僕が癌で入院したりとか。次から次にトラブルが起きて、延び延びになっています。僕の犬島を見た韓国の大学教授が自分も島を持っている、と。ああ、それは面白そうだ、ということで始まりました。で、話がどんどん大きくなって、美術館を作ろうということになった。ど田舎の島の中の湖に浮かぶ美術館を作る計画です」

FLOATING MUSEUM(仮称)外観イメージ 建築設計:YANAGI + ART BASE ©︎YANAGI STUDIO

理念や理想がなければならない

「いまはヨーロッパでも戦争をやっているし、日本もプルトニウムをたくさん持っているので、潜在的には核をいつでも作れる状況にある。今後、日本ももしかしたら核武装するかもしれないし、韓国だってするかもしれない。そういうときに憲法9条というのは、夢物語というか、ただの理想論でしかないかもしれない。でも、やはり理念や理想がないと、人間はどこに向かって生きていけばいいかわからなくなってしまう。だから基軸が必要ですよね。理想のために揺れ動く。現実的には核武装した方がいいのか。実際そうなのかもしれないけど、とにかく自分たちの理想を持っておくことが重要なんじゃないかと思う」

龍安寺石庭の縁側に佇む柳幸典 ©︎ YANAGI STUDIO

1995年、ベルギー人キュレーターのヤン・フート(1936〜2014)は、広島・長崎の被爆50周年の視点から「水の波紋」展(開催期間:30日間、場所:ワタリウム美術館および青山原宿の街中の40箇所)を企画した。彼はその展覧会を通して生まれる対話から友情が生まれ、その想いが波紋のように世界へと伝播していくことを意図した。アートに何が可能か。この魔法は越えて、欧州の人々の心に届くのか。2025年8月、戦後80年を迎える。日本人アーティストとして世界を飛び回り、「自分とは何者か」を問い続けてきた柳が、母国から遠く離れた欧州の地に、被爆国日本の経験や記憶を持ち込んだ。夢や理想のために揺れ動いてきた人類の歴史、その負の側面と向き合い、内省する時間と空間を提供したことは、歴史的に考えても大きな意味を持つに違いない。少なくとも私の心には、時空を超え、永遠に鳴り響く、レクイエムが聴こえる。

*1── Yanagi Studio https://yanagistudio.net
*2──Pirelli HangarBicocca https://pirellihangarbicocca.org
*3──企画者は美術雑誌『Flash Art International』編集者のヘレナ・コントヴァとジャンカルロ・ポリティ 。「緊急」というテーマで、ジェフリー・ダイチやニコラ・ブリオーを含むキュレーター13名による共同キュレーション。出展作家は、柳のほかにマシュー・バーニー、フェリックス・ゴンザレス=トレス、ダミアン・ハースト、カールステン・ヘラー、中原浩大、ガブリエル・オロスコ、フィリップ・パレーノ、チャールズ・レイ、ピピロッティ・リスト、ドリス・サルセド、キキ・スミス、ルドルフ・スティンゲル、リクリット・ティラヴァーニャ、椿昇ほか。参考:Achille Bonito Oliva; Helena Kontova, Aperto'93: Emergency/Emergenza: Flash Art International, Milan: Giancarlo Politi Editore, 1993.
*4──今日、グローバリゼーションは、移民・難民問題や経済摩擦など、ネガティブな側面がより強調される。1990年頃、冷戦終結の直後に発表され始めた同作品が提示する「国境線が消えて地球全体が一つになっていく」ような〈グローバリゼーションの流動性〉は、普遍的な世界を実現するための方法として、よりポジティブにとらえられていた。「旗は国家の象徴としての色を混ぜ合い、流動する普遍的な旗へ と展開していく」(参照:Yukinori Yanagi (1993), “Aperto : Yukinori Yanagi”, 1993. p.95.)
*5──Yanagi Live 1986-87, Tokyo: Hillside Gallery, 1987.
*6──柳幸典著・BankART1929編『柳 幸典「ワンダリング・ポジション」』BankART1929出版、2017年
*7──参考:Vito Acconci, Kunstmuseum Luzern, 1978.
*8──参考:『美術手帖 特集80年代★日本のアート』美術出版社、2019年6月号.
*9──Mika Yoshitake, ‘Parergon : Japanese art of the 1980s and 1990s,’ Milan : Skira ; Los Angeles : Blum & Poe, 2019. P.10-16.
*10──ベネッセ・アートサイト直島 犬島精錬所美術館 https://benesse-artsite.jp/art/seirensho.html

島田浩太朗

島田浩太朗

兵庫県神戸市生まれ、パリ在住。近現代美術・比較芸術。ソルボンヌ大学大学院 美術史・考古学専攻在籍。