尼崎市総合文化センターアクション・ペインター白髪一雄の妻・富士子の歩みを回顧します。
白髪富士子(旧姓 植村)は、1928年に大阪市南区順慶町通(現・中央区南船場)で時計店を営む商家に生まれました。高校卒業後の1948年、20歳の時に3歳年上で京都市立美術専門学校の卒業を間近に控えた白髪一雄と結婚し、翌年に長男を出産します。子育てをしながら白髪の絵画制作を間近に見るうちに、自身も創作に目覚めて作品制作を始めました。1955年に白髪とともに前衛美術グループ「具体美術協会(具体)」に入会すると、具体美術展や芦屋市展を発表の場として本格的に制作発表を行います。富士子は和紙やガラスなど繊細な素材を作品に用いて注目を集めました。
しかし、白髪一雄の評価が高まり多忙となったことから、富士子は1961年に自らの創作活動に終止符を打ち「具体」を退会。以降は自身の創作活動を一切行わず、白髪のアクション・ペインティングを補佐し、長きにわたり二人三脚で制作に励みました。2008年に白髪が亡くなってからは静かな余生を過ごし、2015年に86歳で亡くなりました。
白髪富士子の研ぎ澄まされた感性は、残された数少ない作品からもうかがい知ることができ、近年その評価は高まっています。数年間ではありましたが、前衛美術家として才能を発揮した白髪富士子の貴重な作品と、白髪一雄の作品を合わせて、二人の歩みを紹介します。