立命館大学国際平和ミュージアム大和楓(やまと・かえで)はこれまで、ある社会集団が繰り返してきた身振りを、その集団に属さない人であっても、いまここで個人的に反復できる(できてしまう)彫刻的装置を制作してきた。それは阿波踊りにおける「男踊り」「女踊り」、沖縄の踊りである「カチャーシー」、あるいは辺野古の座り込み抗議を続ける人々が強制的に移動させられる際の体勢であったりした。
大和は今回、沖縄戦で捕虜となり、収容所生活を経験した祖父の痕跡をたどるなかで、沖縄県公文書館の写真資料に写る人々の「姿勢」に注目する。捕虜の姿勢――彼らの「身の置き方」に自らの身体をにじり寄せることで、一時的にでもその時代に腰を下ろし、その時代の人々の「生き延びた時間」に迫ろうとする。
沖縄戦から80年が経つ。語る人、語らないと決めた人、語れなかった人、残そうとした人、忘れようとした人、再び語り直そうとした人、さまざまな判断と選択、葛藤と意志があったはずである。と同時に、私たちの眼前にはいま、残された写真や映像の資料群がある。大和がここで踏み出すのは、写真のなかの人々の内面を想像し、その不可能性の前で身体をこわばらせるのではなく、写ってしまった人体の外形を軽快に反復する方向である。思い切って言えば、態度ではなく姿勢の可能性を、精神よりも肉体の力を信じるという選択である。
80年後にもその姿勢がとれてしまうということ、これから自分がその姿勢をとる可能性があるということを、迫りくる危機の喧伝ではなく、人間の可能性として読み替える。かつて、確かに、このような姿勢をした人がいた、という印画紙に焼きついた事実を跳板にして、大和は時間に座ろうとする。