布施琳太郎《寄生された君が代》展示風景
展覧会「150年」が1月27日まで東京・池袋で開催されている。総監督は田中勘太郎、脚本は布施琳太郎。
2022年に新宿区の印刷工場跡地を舞台に開催され、大きな話題を呼んだグループ展「惑星ザムザ」を手がけた田中と布施。「惑星ザムザ」では布施がキュレーションを担当したが、ふたりが再びタッグを組んだ本展では田中が総監督を務めている。
本展では、「150年『前』や『後』ではなく、ただの時間の量としての『150年』」(布施による展覧会ステートメントより)をテーマに、各作家それぞれがかたちにした「150年」が会場内に出現する。舞台になっているのは、再開発によって取り壊しが決定している東池袋の6棟の建築物。首都高沿いに位置する建築群を貫くように、建物と建物のあいだに工事現場のような足場が渡され、来場者は部屋から部屋へと自由に行き来しながら作品を巡っていく。
展示作家は、大竹舞人、小野まりえ、加藤広太、黒瀧紀代士、島田清夏、副島しのぶ、髙橋穣、高見澤峻介、田中勘太郎、布施琳太郎、Houxo Que、宮原嵩広、横井菜々、吉田山+ormの14組。展示作品のほとんどが新作となる。
ここからは会場の中に入り、作品を見て行こう。まず、来場者は入り口で、展示を鑑賞するうえでの注意事項などが書かれた誓約書と図面を手渡される。図面に書かれているのは、6棟をつないだ地下1階から4階、そして屋上までの各階の平面図と、建物の各所にある出入り口の位置。展覧会には決まった順路はないが、この出入り口をすべて通れば展示を網羅できるようになっているという。実際に中に入ってみると、先に部屋があると思ったら外に出てしまったり、思いもよらぬところに入り口があったりと、簡単に自分の居場所を見失うため、迷宮に身を任せて行ったり来たり直感的に歩き回るのがおすすめだ。
最初に来場者を出迎えるのは、展覧会の総監督である田中勘太郎の《ぶち抜かれた壁》。建物をつなぐ「道」となる足場を作るために「ぶち抜かれた」各建築物の壁で新たに壁を作り、部屋の中に出現させた。
隣の建物の1階には流し台、洗濯機、洗面所など、かつてここに暮らした誰かの生活感が残る住空間が広がる。畳の上に靴で上がることに少しの抵抗感を覚えつつ進んでいくと、部屋の奥に大きな「花」の字が浮かび上がる。花火師でもある島田清夏の作品だ。
100歳まで生きた自身の祖母を題材とした本作は、低学年頃までしか小学校に通えなかったため、年を重ねてから文字の練習をしたという祖母が、作家の書道道具で書いた「花」の字を花火で刹那に蘇らせるというもの。作品全体に蛍光塗料が塗られており、花火によってついた焦げ目が暗闇に浮かび上がる。建物の住人が生きた痕の残る部屋のなかに、作家個人の記憶という別の時間軸が交差し、どこか異界のような雰囲気に引き込まれる。
隣の建物に視線を向けると、こちらには「花」の文字の掛け軸が見える。これは黒瀧紀代士の作品で、今回「花」の作品が隣り合ったのは偶然なのだという。渡された足場を使って玄関脇の壁に空いた穴から室内に入ると、割れた食器類が床をぎっしりと埋め尽くしている。こちらも黒瀧の作品で、《虚しく聳え北叟笑む》と題されたインスタレーションだ。この家で使われてきた食器類だろうか。役目を終えた皿やグラスの破片たちが部屋の奥まで敷き詰められている。
大竹舞人は展覧会会場となった6棟の建物に残された衣類やカーテンなどの布を、改変することなくすべてそのままの状態で編み上げた。編まれた布は床を埋め尽くすだけでなく、縦方向へも伸びていき、まるで生き物のような立体造形を形作っている。一つひとつ異なる布の柄や質感から持ち主の体温が伝わってくるようだが、来場者は布の上を踏みしめて次の部屋へと進んでいく。
突如出現した霧の立ち込める部屋を抜けて何かの作業所のような場所にたどり着く。布施琳太郎のインスタレーション《寄生された君が代》は、この部屋に残されていた多数の製箱機から作家が「君が代」を詠み出していく様を映し出した作品だ。薄く霧が残る室内で、引き伸ばされ、途切れ途切れに歪んだ「君が代」が、どこか不気味に響き渡る。
階段で2階へ上がると、今度は床が砂で埋め尽くされ、すべての家具がグレーがかかった青に塗られた部屋が現れる。小野まりえの《ゆめゆめいぬいぬ》だ。足元を覆う砂丘のように細かな砂の上で、自分の足跡も自分より前にここを訪れた人の足跡も残っては消えていく。部屋に残るパソコンやぬいぐるみ、仏壇、赤ちゃん用のベッドなどは、一色の淡い色に統一されることで持ち主の生々しい痕跡にベールがかかり、どこか現実と夢の狭間にあるような不思議な存在感を湛えている。
3階に上がろうとすると何やら霧のようなものが立ち込めてくる。部屋に入ると霧が充満した室内は真っ白でもはや何も見えない。奥へと進んで目が慣れてくるとぬいぐるみや子供が描いたような絵などが視界をとらえ、自分はいま子供部屋にいるのだとわかる。Houxo Queは、本作《どうせいつかみんな忘れる》を「来たるべき忘却のための絵画」と位置付け、スマホで記録することもできず、鑑賞者の記憶も曖昧になってしまうほどの大量の霧で部屋全体を包み込んだ。
2階へ戻り、足場を伝って別の建物へ。何かが流れるようなグツグツとした音とともに薄茶色に覆われた和室が出現する。副島しのぶの《Husk》は映像作品と無数の籾で構成されるインスタレーション。籾は古い畳の上のみならず、部屋に残された鏡台や押入れの布団の上まで侵食し、籾に埋もれたスクリーンと引き戸には無数の籾が上へ下へと流れていくストップモーションアニメが映し出されている。延々と動き続ける籾は生きた人間の血管のようでもあり、積み重ねられた時間とそこにあった生を呼び覚ます。
窓から外に出て、再び隣の家に渡る。2階の窓から知らない家の中に入っていくという体験は新鮮で、侵入者になったような居心地の悪さも覚える。
和室のちゃぶ台の上にポツンと置かれたロウソクは、高見澤峻介の作品《Screening Fire: The Past Is Alight》。古くは時計のような役割も果たしてたロウソクは、人間の時間感覚と関わりを持ってきた。火の消えたロウソクの前には、カメラがとらえた光景を生成系機械学習プログラムによって再認識して表示する装置が置かれている。プログラムはまだ炎があると認識するよう設定されており、来場者がロウソクの後ろに立つと画面の中の自分の前に映るロウソクはまだ火を灯し続けている。
これまで見てきた部屋とは異なり、いま現在も人が住んでいる部屋に来てしまったのではないかと意表をつかれたのが横井菜々《風をよむ》の展示だ。今日干したのではないかと思うような生活感のある洗濯物がバルコニーや室内のカーテンレールに干されており、プライベートな空間にうっかり入ってしまったようで落ち着かない。いっぽうで部屋の中央で静かに外を見つめる白い鳩の彫刻は、異物であるはずなのに見逃してしまいそうになるほど不思議と部屋に溶け込んでいる。
オフィスのようなコンクリート床のがらんとした2階の空間では、吉田山+ormの作品が展示されている。公私ともにパートナーである美術作家の藤井智也と高橋ちかやによるユニットormの《いつかの君たちの自画像》は、自身の子供が鏡に映る姿に笑いかける様子に着想を得たという作品で、パラフィンワックスで作られた白い鏡の内部で青い光が星座のように線を結ぶ。これに呼応するように吉田山の《We need to put a branding iron on it for this time to make it more memorable》では、真鍮で作られた焼印で会場中の壁に幾何学的な模様を残していく。
同じ建物の3階と4階に展示されているのは宮原嵩広の立体作品《Syncretic object》。黒く塗り固められ、アスファルトの山に埋もれる残置物には、羽子板や大黒様の彫刻らしきもの、エッフェル塔の置き物、旧型の携帯電話など、それぞれに宿るストーリーや受け継がれてきた文化を想像させる品々が、時間が凍ったかのように原型をとどめたまま残っている。いっぽう残置物が取り払われ、シンクだけが残る4階の空間に出現した紫色の沼とそこに聳え立つ彫刻は、ふつふつと沸く生命力や人間の欲望を感じさせる強い印象を放っていた。
4階の窓から外へ出て、細い階段の足場に足がすくみそうになりながら屋上へ上がる。首都高を見下ろす屋上に展示された加藤広太《あなたにではない、何かに向けて》は、トランスミッターとラジオ、大きな鏡などで構成される。屋上の角に置かれた鏡の裏はディスプレイになっているのだが、画面は首都高に向けられているため、会場からは見ることができない。画面には、首都高を走る車の車内から展示会場を映した映像を引き伸ばしたものが映し出されているのだという。FMトランスミッターからは作品解説が流れており、車内ラジオでこの周波数に合わせると、首都高で会場前を通過するあいだだけこの音声を聴くことができる。
これですべての作品を見終わったかと思いきや、まだ出会っていなかった作品があることに気づく。入場時には見落としていたが、会場入り口の地下にも展示空間があったのだ。1階に戻って荷物を置き、細いハシゴを使って地下へと降りると、ひんやりとした暗い空間をぼんやりと緑の光が照らしている。
髙橋穣は本展のすべての展示空間のなかで唯一密室であるこの場所で展示するにあたり、ほかの空間といかにつながるかを考えたという。《Sculptural Surveying - Ikebukuro-》では展示会場の6棟すべてに張り巡らせた管から水を引き、絞り落ちてきた水滴の動きをレーザープロジェクターで壁に投影している。そういえば展示会場の至るところに細い管が伝っていた。そのすべてがここに通じていたのだ。壁には水の中にいた微生物なども映し出され、水滴が自然と落ちるまでの短い時間のなかに多様な時間や生命の営みの重なりが呼び起こされる。
先述のとおり、本展は決まった順路はなく、入り口とは違う出口にたどり着くことになる。すべての作品を鑑賞してからあらためて図面を見ても、自分がどうやって歩いてきたのかすぐには把握できず不思議な感覚で外へ出た。人によって作品と出会う順番も様々で、昼と夜では違った姿を見せる作品も多いだろう。
総監督を務めた田中は本展を「異時間観旅行」と呼び、「ノスタルジーではなくロマンチックな作品」を作ることを各作家に求めたという。住人の生活の気配や温度がそこかしこに残る空間のなかで、作家がそれぞれにとらえた複数の「150年」を仮設の足場を伝って体感していく。多様な時間軸を行き来して現実へ戻ったとき何を感じるだろうか。会期はわずか10日間。なるべく動きやすい靴と少ない荷物で訪れてほしい。