左からイドリス・カーン、アニー・モリス
イギリスの現代アーティスト、アニー・モリスとイドリス・カーンの二人展「アニー・モリス & イドリス・カーン A Petal Silently Falls – ひとひらの音」が、天王洲と六本木のKOTARO NUKAGAで12月26日まで開催されている。
ともに日本初展示のふたり。深い喪失から生まれたモリスの代表作や、名画を独自に再構築するカーンの新作をはじめとする展示作品とその背景にある考え、そして「瞑想的」だという制作プロセスについて、来日したモリスとカーンに話を聞いた。
夫婦であるモリスとカーンは、それぞれ個人で国際的な評価を確立しているアーティスト。アニー・モリスは、1978年、ロンドン生まれ。タペストリー、絵画、ドローイング、彫刻など幅広く手がけ、なかでも自身の流産の経験から生まれた、球体を積み上げた彫刻作品「Stack」シリーズで知られる。
イドリス・カーンは、1978年、バーミンガム生まれ。写真、絵画、彫刻を横断的に手がけており、同一のモチーフやテキスト、楽譜を幾度も重ね、時間と記憶の堆積を可視化する作品群で知られる。2016年にアブダビのメモリアル・パークで戦没者追悼記念碑を制作したほか、2024年にミルウォーキー美術館で大規模個展を開催。2017年には大英帝国勲章を受勲している。

本展は、モリス、カーンともに日本で初展示の機会となる。
天王洲会場では、広い空間を生かしてモリスの大型の「Stack」やタペストリー作品、カーンの平面作品を展示。六本木会場では、小型の「Stack」や、名作絵画を独自に解釈するカーンの「After」シリーズの新作などが展示されている。

ふたりは2007年に出会って以来、現在までスタジオを共有しており、6〜7年前から二人展を行うようになった。色鮮やかでダイナミックなモリスの作品と、静謐でコンセプチュアルなカーンの作品は一見すると対照的だが、本展において両者の作品は色を通して響き合い、空間内で対話しているかのようだ。
「私が使う色とアニーが使う色について詳しく話し合ったわけではないですが、本展では作品が色の調和の中で互いに響き合うよう、注意深く選びました」とカーンは説明する。

制作時は互いの作品に直接的に影響を与え合うことはないが、「ピンクの作品は例外」だとモリス。六本木会場で展示されている、モリスのタペストリー作品《Untitled (Figures Caput)》と、薄いピンクの絵具で文字が重ねられたカーンの作品《Imagine your own hand held》は、モリスの京都旅行にインスピレーションを得たという。短いあいだだけ美しく咲く桜の花の色合いが心に響くのだとモリスは話す。


花はモリスにとって重要なモチーフのひとつだ。これまでに「Flower Women」と題した、花のかたちをした頭部を持つ女性の彫刻のシリーズも制作している。本展にも「A Petal Silently Falls(静かに落ちる花びら)」とのタイトルがついている。
「女性と花につながりがあるという考えが好きなんです。花が一生の中で、ある瞬間だけ満開になり、そして変化し始める様子。展覧会タイトルは花びらがそのような繊細な美しさを持っていることを示しています。花びらはとても意味のあるものだけれど、壊れやすく儚い。そして、人生のなかでそのような瞬間に気づかないかもしれないという考えには、本当の美しさが宿っていると思います」とモリス。
カーンは「だから問題は、どうやってその瞬間を留めるか、ということです。ここにある作品のいくつかはそれをしているのだと思います」と続ける。

瞬間を留めておくこと。それは、ふたりの作品に共通するテーマでもある。そこにはカーンとモリスが共有する喪失の経験が関連している。ふたりは最初の子供を流産で失い、時を同じくしてカーンの母が若くして亡くなった。
「そのとき、私たちは異なる種類の作品を作っていて、一連の作品がこの経験から生まれました。イドリスにとってそれは、言葉や感情を作品にスタンプし、刻み込んでいくこと。私にとっては、この赤ちゃん、卵、この形を生かし続けるための、とても壊れやすいフォルムを作ることでした」(モリス)


そうして生まれた「Stack」は、ざらざらとした手触りを感じさせる色鮮やかな球体が、不揃いな大きさで、いまにも崩れてしまいそうなバランスで積み上げられている。この不思議な温度と緊張感を併せ持つ球体には、見る者は自分の経験や感情を様々に重ね合わせることができるだろう。
本シリーズは2014年から現在まで制作されているが、「いまも私が最初に作ったときに込めたかった意味とまったく同じ意味を持ち続けています」とモリスは語る。
「それは非常に辛い瞬間を留めて、何か別のものに変えようとすること、そのことを忘れないでいて、悲劇を喜びに変えていくことです。フォルムやスケールは色々と変化しましたがすべてはつながっていて、『Stack』は間違いなくこの痛みの瞬間を表現するためにあります」(モリス)

では、タペストリーの作品は作家にとってどのような位置付けなのだろうか。天王洲会場で中央に象徴的に展示されている《A Petal Silently Fell》は、遠目にはクレヨンなどで描いた絵画のように見えるが、近づいてみると何本もの糸が縫い重ねられていることがわかる。モリスはこれを「thread paintings(糸絵画)」と呼ぶ。
「私は絵画と彫刻のあいだにいるアーティストだと思います。糸で縫うと、ドローイングが彫刻的になるんです。この作品では、糸がオイルスティックで描いた線に見えるようにしたいと考えました。私はドローイングを制作するとき、自発的で直感的な線を素早く描けるオイルスティックや色鉛筆などを使うのですが、糸の作品でも、たとえ制作に時間がかかったとしても、最初に描いたときと同じような感覚を表現したいんです」(モリス)

いっぽう本展で展示されているカーンの作品は、決められたプロセスに沿って制作されるのが特徴だ。本展の中核となる「After」シリーズは、美術史上の名作を再解釈した絵画作品。その制作手法は、絵画をスキャンして作品内に使われている色をパレットのように分解し、特殊なプログラムで音符に変換して表面に幾度もスタンプする、というもの。これまでにレオナルド・ダ・ヴィンチの《モナ・リザ》、ヨハネス・フェルメールの《牛乳を注ぐ女》など、多くの人々の集合的記憶のなかにある名画を題材にしてきた。

カーンは作品の背景にあるねらいをこう語る。
「あるとき、既存の絵画から色を取り出して、それをパレットとして理解したいと思うようになりました。それで有名なモネの絵画や《モナ・リザ》のような名作を分解しています。
それらの作品を見るとき、私たちは使われている色について本当に考えることはなくて、歴史的な文脈について考えていると思うんです。でもたとえば、色のパレットがあって、それがこの絵から抽出されたもっとも重要な色だとしたら、それは特定の種類の記憶を呼び起こすことができる。『ああ、モナリザにこんな緑があったなんて考えたこともなかった』と思うわけです。絵画への反応が変わってくる。私にとっては、より現代的な見方になるとも言えます」
今回六本木会場で展示されているのは、オランジュリー美術館所蔵のモネの睡蓮の作品、《緑の反射》をモチーフとした新作《After the reflection》だ。会場にはトーンの異なる緑や青の絵画が並び、その上に音符が重ねられている。音符からどんな音楽が奏でられるかは観客の想像に委ねられるが、「絵画が私たちに音を与えているようなものです」とカーンは語る。
「新しいテクノロジーなどを使って、この絵画から音楽や音を生み出すことはできるだろうか?とある日、自分自身に尋ねました。もしヘッドホンをつけて絵画の前に立ち、プログラムがその絵画の表面から音符を取り出して私たちに何かを返してくれたら、それはユニークな体験になるのではないかと。だから最終的な目標は、人々に“絵画の音”を聞いてもらうことです」(カーン)

《After the reflection》は全部で30点あり、今回はモリスの作品にあわせて選ばれた数点が展示されている。モチーフとして《緑の反射》を選んだ背景には、自身の娘に関する記憶がある。あらゆる瞬間を写真に収める私たちだが、この作品はむしろ「写真に撮らないこと」と関係しているとカーンは語る。
「オランジュリー美術館で娘が《緑の反射》と呼ばれる作品の前に立っていたその瞬間が記憶に残っています。そのとき、私は娘の写真を撮らないことを選びました。なぜかはよくわかりませんでしたが、いまはわかります。その絵画の記憶を、この一連の作品に変えたかったんです。心に残る瞬間というものは、その人が魅了される何かに変化する。記憶こそが、1枚の絵画への魅了を引き起こすのです」(カーン)
カーンは音符や文字を判別できないほど何重にも重ね、モリスは球体を積み重ねたり、無数の糸を縫い合わせたりするなど、ともに何かを繰り返すことやレイヤーを重ねることが創作のプロセスにある。それは祈りにも似た行為に感じられ、時間の経過やその時々の感情を作品に刻み込んでいくようでもある。
「プロセスに時間をかけることは好きです。瞬間を解剖するために時間をかける、という感じです。それほど長い時間をかけて糸で縫っていると、その時間はとても瞑想的です」(モリス)
「私の作品もかなり瞑想的なプロセスだと思います。私はいつも言葉や短い文章の断片を扱っています。だから、ある意味でこれらの絵画は私の思考を留めていると言えます。書かれているのは私の言葉です。文字が幾重にも重ねられているため、誰もが読めるわけではないですが、それでいいんです。見る人がそこに自分自身の祈りを重ねてくれますから」(カーン)

本展においてモリスとカーンの作品は、色や時間、記憶といった普遍的な要素を起点に展示空間のなかで共鳴している。私生活をともにするふたりを結びつけるのは、「emotional unity(感情の一体感)」なのだという。
「私たちのあいだに、『私はあれをやる』、『自分はこれをやる』と議論するようなかたちのコラボレーションはありません。でも、それぞれ異なる方法で制作していたとしても、そこには感情の一体感があるんです。展示室のような場所で作品が一緒になったとき、その判断こそが展示をほぼ完成させる。私たちの家でもそうで私たちは家を飾るのが大好きで、いつも言い争いをしているんですよ(笑)。でも最終的にはひとつの空間としてかたちになる。それは展示も同じ。そうだよね?」(カーン)
「ええ、最後にはちゃんとまとまるんです」(モリス)

アニー・モリス(Annie Morris)
1978年 ロンドン生まれ。 パリの国立高等美術学校でジュゼッペ・ペノーネに師事した後、ロンドンのスレード美術学校を修了。タペストリー、絵画、ドローイング、彫刻など幅広く手がけるモリスの作品の中で最もよく知られているのは、カラフルで不規則な形の球体を垂直の芯棒に通して重ねた彫刻作品「スタック」シリーズである。「スタック」は石膏や鋳造のブロンズで作られ、群青、緑色、黄土色などの鮮やかな顔料を用いて成形される。流産を経験し悲しみに沈んでいる時期に始められたこのシリーズでは、台座の上で球体が倒れてしまいそうなバランスで浮かんでいるように見え、生命の奇跡とその不安定さの両側面が表現されている。「スタック」シリーズに加えて、モリスはドローイングのようなタペストリーや直線的な造形の人物彫刻、そして画面全体に描かれた「フェイス」シリーズのように官能的な表現言語による抽象絵画を通じて女性の身体性について探求を行う。これらの作品は、女性の身体が宿す無数の様態を示すものである。
作品はこれまでに、復星芸術センター(上海 / 中国)、シャトー・ラ・コスト(プロヴァンス / フランス)、ヨークシャー彫刻公園(ウェスト・ヨークシャー / イギリス)等にて展示。また、龍美術館(上海 / 中国)、フォンダシオン ルイ・ヴィトン(パリ / フランス)(上海 / 中国)、コロラド大学美術館(ボルダー / アメリカ)などに作品が収蔵されている。
イドリス・カーン(Idris Khan)
1978年 イギリス・バーミンガム生まれ。ダービー大学で写真を学んだ後、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートにて修士号を取得。2017年、大英帝国勲章(the Order of the British Empire)を受勲。
イドリス・カーンは、写真・絵画・彫刻を横断し、同一のモチーフやテキスト、楽譜を幾度も重ねる「反復」と「多層化」によって、時間と記憶の堆積を可視化する。初期の「every…」シリーズでは、コーランのページやベッヒャー夫妻の写真作品など既存のイメージを重ね合わせ、普遍的な形態と集合的記憶の輪郭をもつ新たな像を生じさせている。また、《65,000 Photographs》をはじめとする彫刻作品では、数年間にわたり自身の携帯で撮影した膨大な画像をプリントして積み重ね、無形のデジタルデータを量塊として物質化し、記録することに対して執着する我々の強迫的な態度と、記憶のあり方の変化を批評的に示す。2016年にアラブ首長国連邦・アブダビのメモリアル・パークで戦没者追悼記念碑を制作した他、2024年にミルウォーキー美術館(ミルウォーキー / アメリカ)で大規模個展「Idris Khan: Repeat After Me」を開催。作品は大英博物館、ポンピドゥー・センター(パリ / フランス)、ワシントン・ナショナル・ギャラリー(ワシントン / アメリカ)など、国際的なミュージアムに収蔵されている。