岡田利規、磯野真穂 東京芸術劇場にて
舞台芸術祭「秋の隕石2025東京」
2025年秋、東京芸術劇場(池袋)を中心に開催される舞台芸術祭「秋の隕⽯2025東京」。本芸術祭は、演劇作家、小説家/チェルフィッチュ主宰として国内外で注目を集める岡田利規がアーティスティック・ディレクターを務める初の試み。特筆すべき点は、徹底して「ひらかれた」芸術祭を志向していることだろう。
今回、アーティスティック・ディレクターの岡田と、文化人類学者・磯野真穂による対談が実現した。異なる領域に立ちながら、ともに身体性と言葉の関係について探求し続けてきた両者が、「隕石」という言葉に込められた意図、そして象徴や言葉を超えて現実を変容させる試みについて語り合った。
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──印象的なワードである「隕石」とはなんでしょうか?
岡田利規(以下、岡田) 隕石は外から来るもの、いまここにないものの象徴という意味もあります。いまここにないというのは、いまの演劇の文脈のなかにないものや、あるいは人のことです。
国際的な舞台芸術のフェスティバル自体は、以前から国内外を問わず数多くあるんです。でも、そのあり方や現状について個人的にはある種のもどかしさというか苛立ちを覚えるんですよね。今回の芸術祭を作り上げるうえで、それを隕石というイメージで打破したいと思っているんだと思います。
──差し支えなければ、「もどかしさというか苛立ち」の内容についてもう少し詳しく教えてください。
岡田 舞台芸術に限らず、機能する文脈は非常に限定的で、現在はそれが好きな人にしか刺さっていない。もちろん、「演劇や舞台を見に行くのが好きです」という人たちの存在は非常にありがたいんです。
だから「もどかしさというか苛立ち」というのも、舞台を見に来てくれない人に対するそれではなくて、むしろ逆です。そのような状況しか生み出せていない自分たちに対するもどかしさであり苛立ち。外側に影響を与えられていない現状への。
磯野真穂(以下、磯野) 私の専門分野の人文社会科学領域にも通じるところはあるかもしれないですね。現代は人文書を手に取る人は本当に限られているし、その広くない業界のなかでさえも内向きになっている現状はあります。
本来、人文社会科学は世界の視界を晴らしていくような役割を担っていたはずなのに、内側にいる仲間の外側には言葉が飛んでいかない。そのような感覚を持つときがありますね。
──お話を伺っていて、演劇界・学術界に共通して、いわゆる「界隈」現象が起きているのだと思いました。界隈内の文脈は強固ですが、それゆえにそれぞれが島宇宙のように孤立し、閉じられてしまっているようにも感じます。
岡田 そうですね。とにかくいまのままだと面白くない。だからその文脈を変えていきたいんです。
磯野 ちなみに、私と文化人類学との出会いは本当に隕石に打たれる感じだったんですよね。もともと運動生理学を学んでいて、23歳のときに初めて文化人類学に出会ったときに、文化人類学というものが見せてくれた世界の広がりや深さに感動したという原体験があります。
岡田さんご自身にとって、演劇との出会いは隕石のようなものだったんですか?
岡田 僕は演劇とは、別にそこまで好きでもないのに付き合い始めちゃった、みたいな感じだったんですよね(笑)。いまは大好きですが。いま、磯野さんのお話も聞いていて、参加する人や見に来てくれる人にとって、この芸術祭が隕石のようなものになってほしいと強く思っています。
──「いまここにない」という点だと、今回の芸術祭の柱としてパフォーミングアーツの演目に関連するプログラムである「上演プログラム」「上演じゃないプログラム」と、鑑賞サポートやアクセシビリティのみならず舞台芸術を上演する姿勢のあり方自体を問い直す「ウェルカム体制(=来場サポートのこと)」を並列している点も非常に印象的です。この設えからは、一般的な「インクルーシブ」や「アクセシビリティ」という言葉の含意を超えた意思を感じました。
岡田 この前、この芸術祭の記者発表があったんです。その際、演目への注目もさることながら、なんならそれ以上に、ウェルカム体制に、とりわけ上演時の鑑賞サポート──字幕をつけたり、音声のガイドをつける試みを充実させるという点に大いなる関心を持ってもらえたなという印象をえました。それはとても嬉しいことです。いっぽうで、そこにだけ食いつかれるというのはとてもわかりやすく、わかりやすすぎるくらいに、現代的だな、とも思いました。私たちのウェルカム体制に期待してもらえているのは、芸術それ自体があまり期待されていないことの裏返しかもしれない(笑)。
上演プログラム、隕石みにあふれてます。「隕石み」って何?ってなるかもしれませんが、見たらわかります。もともと「隕石」「隕石み」という言葉は、芸術祭をプログラムするチーム内で、コンセンサスや考え方を共有するためのキーワードとして使っていたんです。自分たちが良いと思っているプログラムを上演することと、これまで「劇場は自分の居場所じゃないのかな、自分のためのものじゃないのかな」と感じてしまっている人に対する来場サポートを充実させることは、「隕石み」を実現するという点においては等価なんです。これが伝わるといいなと思っています。
磯野 いまお話を聞いていて、「隕石」という言葉が重要な象徴として使われているんだなと思いました。私はずっと身体性をテーマに研究してきましたが、最近はよく組織のことを考えるんですね。たとえば、受け持っている大学の授業で、象徴・信念・実践というプロセスを通じて文化ができる、という話を学生にするんです。
往々にして、掲げられた言葉がお題目になってしまうことって多いですよね。この芸術祭をつくるチームの皆さんが「隕石」という象徴をもとに、それに込められた信念をどう実践し始めているのかが気になっています。
岡田 そこはこれからで、現在走りながら考えています。事務局内部だけでも関わるメンバーは40〜50人いるなかで、いままさにみんなが言葉を咀嚼しながら実践しているというところです。
磯野 少し脱線するかもしれませんが、最近ソニーについて調べていて面白いと思ったことがあって。アップルなどが台頭してきた時期に、ソニーは一度大きく業績を落とし、再び立ち直っていくのですが、興味深いことに、その拠り所となるのが第二次世界大戦直後の1946年に起草された会社の設立趣意書なんです。
そして、平井一夫さんが社長に就任してソニーが復活を遂げていく過程で、平井さんは「感動(KANDO)」という言葉を様々な場面で繰り返し使います。そのときも結局、設立趣意書の理念に回帰しているんですよね。言葉が生きて実践され、受け継がれていくとは、まさにそういうことなのかなと感じました。
今回の芸術祭も、皆さんが「隕石とは何か」ということを考える時間と場が継続的にあり続けること自体が、「隕石」をお題目でなく、実質のある象徴として鍛え上げることにつながると思います。言い換えるとそれは、隕石という象徴がチームメンバーのなかで共有され、身体化されていくこと。そのように象徴が組織に深く刻まれたチームが届ける芸術祭には、きっとどこかにその精神が宿る。そのときに「隕石」は比喩ではなくなるのではないでしょうか。
磯野 岡田さんは、ご自身の作品がどのように記憶されていったら嬉しいですか?
岡田 あまり誰かの記憶に残っていくことはイメージしていませんが、作品を観た人が作品そのものではなくて、それを通じて自分のことを話してくれるのは嬉しいですね。あとは、本来はなかったシーンについて、「なんかこういうシーンがあった」という語り。そんなことがよくあるんですが、僕はそれがすごく嬉しいですね。つまり、作品が一方的でないかたちでメディウムとして機能したということなので。
芸術や演劇は、 様々なパースペクティブにまつわるアプローチや角度、様々なものを変えることによって、本質を引きずり出そうとする試みというか、観客に対してそれにどうやって出会わせるかということをずっと探求している試みのように私には見えたりします。
磯野 『急に具合が悪くなる』(宮野真生子との共著、2019)が映画化されることになった際、監督の濱口竜介さんとお話ししたなかで印象的だったのは、俳優は脚本を演じているんだけど、演ずるなかで、演技ではないものが生まれるときがあり、自分はそれを撮りたいんだという点ですね。
岡田 確かに濱口さんは「いいものが撮れた」という言い方、よくされますよね。演劇をやっているぼくには、それはとても映画の人の言葉だなって聞こえます。演劇は繰り返しますから、ものすごいことが一度起こってもそれで「最高!イェーイ!」とはならないんですよね。
──岡田さんも磯野さんの『急に具合が悪くなる』を読まれたそうですね。往復書簡という形式で、磯野さんと、当時がんの闘病生活を送っていた哲学者の宮野さんとの言葉を媒介としつつ、その外側に行こうとする試みがなされている点も、どこか本日の話と通じる部分があると感じました。どんな感想を持たれましたか?
岡田 後半にかけて、磯野さんの文章に現れている動揺が印象的でした。そしてそれが隠されずにそのまま本として出版されている点に敬意を覚えました。校正段階で修正しようと思えばできるはずなのに、それをされていない。
磯野 できなかったんですよね。本当はもし宮野さんがご存命の状況で校正に入っていたらそのだだ漏れ感を隠せた可能性はあるんですが、やっぱり宮野さんの文章を変えられないので、結果的に私の文章にも手を入れず、そのまま出版となりました。
目の前で宮野さんがどんどん具合が悪くなっているっていう状況のなか、私は明らかに動揺していてそれが文章にも溢れている。だから私は自分のパートが恥ずかしすぎて読み返せないんです。
岡田 あー、なるほど。だから本当に後半なんかぼくにとってはなんというかほとんど文学でしたね......漱石の『こころ』みたいな。
磯野 もう、必死でしたね。振り返ると、もう後半は言葉の応酬がすごくて、我々も20年くらい研究者をやっているから、それなりに言葉は上手なほうだと思うんですけど、たぶん、先ほど岡田さんが仰ったようなメディウムとしての言葉で双方がやり取りしていたという感覚が強かったですね。
宮野さんは2019年の7月22日の朝で時間が止まっているので、私の時間だけが過ぎていくんです。そうすると、版を重ねるごとに奥付けのプロフィールも当然私のところだけ更新される。当たり前なんですけど、時間が進んでいくこと、でもそこに残ったものを引き継ぎながら生きていることについて考えさせてくれる本でもありますね。
──最後に、この芸術祭への期待や思いを聞かせてください。
磯野 このようなかたちで試行錯誤しながら作り上げているチームとしての悩みや身体性のようなものが、この芸術祭自体に表現されてほしいなと思います。来た方がそれを言語化できなくても良くて、感じてしまったら成功な気がするんですよね。
岡田 じつは、舞台芸術が好きな人のうち、僕が作るものを好きではない人は少なくない。でも逆に、そこまで演劇は好きではないけれど、僕の作品は好きだという人は結構いるんです。
それをこの芸術祭に当てはめると、「舞台芸術ってよくわからない」という人にも好かれる可能性があるということです。作品を作ることと、舞台芸術をプログラムすることは、厳密には違いますけれど、そういう人間が舞台芸術のためにできるのは文脈を変動させることだと思うんです。
ところで、パフォーミングアーツ、舞台芸術を、磯野さんは普段あまり見ないんですよね。なんで見ないんでしょうか? なんでみんな興味がない、行かないでいいと思うんですかね。
磯野 う〜ん、確かにあまり見ませんね。なんでだろう……。「なぜこれをするのですか」という質問はよくあるけど、「なぜしないのか」という質問はあまりなくて、ちょっと面白いですね。
岡田 とにかくほとんどの人が舞台芸術を見ないから、僕の興味はこれしかないんです。舞台芸術祭のディレクターとしては「なぜ人は舞台芸術に興味がないのか」ということにしか興味がない、と言ってもいいくらい。
エンターテインメントのようなコンテンツに負けないようにするにはどうしたらいいか、という考え方になっていくのは、何か違う感じがしてしまうんですよね。悩ましいですが、競争ではない文脈のなかでこの芸術祭に興味を持ってもらえるように、引き続きチームで試行錯誤しつつ取り組んでいけたらと思っています。
様々な共存の枠組みを「アクセシビリティ」「インクルーシブ」などの言葉で小奇麗にまとめるだけでは、こぼれ落ちる何かがある。『秋の隕石2025東京』運営チームとして、これまで周縁化されてきた存在について思いを巡らせたうえでこの舞台芸術祭を設計することは、包摂を意味する言葉の実践でありつつ、決してそこにとどまらない。そこには、演劇の内と外、観客と非観客という境界線を根本から問い直し、新しい文脈を作り上げようとする意志が込められている。
そして、演劇と人類学、異なる分野でありながら、ともに言葉の向こう側に向かおうとするふたりの対話は、フックとなるような言葉が捨象してしまう複雑性や豊かさを伝える上で立ち現れる困難さ、それでもなお対話を重ねることの意味を浮かび上がらせた。
2025年秋、私たち一人ひとりが隕石として文脈の一部になることが歓迎されている「秋の隕石2025東京」に足を運び、予期せぬ出会いに遭遇してみたい。
10月1日〜11月3日
チケット発売中 詳細は公式サイトへ
岡田利規
おかだ・としき 演劇作家、⼩説家、演劇カンパニー「チェルフィッチュ」主宰。2005年『三⽉の5⽇間』で第49回岸⽥國⼠戯曲賞受賞。同作での2007年クンステン・フェスティバル・デザール(ブリュッセル)参加以降、国内外の90都市以上で新作を旺盛に上演し続けている。2015年⽇韓キャストによる『God Bless Baseball』、2018年ウティット・へーマムーン原作・タイキャストによる『プラータナー:憑依のポートレート』(第27回読売演劇⼤賞・選考委員特別賞受賞)、2023年ウィーン芸術週間委嘱作品『リビングルームのメタモルフォーシス』など、国際共同制作作品も多数。2016年以降、ドイツ語圏公立劇場のレパートリー作品の作・演出も継続的に務め、2020年『掃除機』及び2022年『ドーナ(ッ)ツ』でベルリン演劇祭に選出。2022年、『未練の幽霊と怪物 挫波∕敦(第72回読売文学賞・戯曲・シナリオ賞及び第25回鶴屋南北賞受賞)および歌劇『⼣鶴』の演出に対して、第29回 読売演劇⼤賞 優秀演出家賞を受賞。 ⼩説家としては、2007年に『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(新潮社)を刊⾏、第2回⼤江健三郎賞受賞。2022年に『ブロッコリー・レボリューション』(新潮社)で第35回三島由紀夫賞および第64回熊⽇文学賞を受賞。
磯野真穂
いその・まほ 人類学者。専門は文化人類学・医療人類学。2010年早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。早稲田大学文化構想学部助教、国際医療福祉大学大学院准教授を経て2020年より在野の研究者として活動。2024年より東京科学大学リベラルアーツ研究教育院教授。一般社団法人De-Silo理事。応用人類学研究所・ANTHRO所長。著書に『なぜふつうに食べられないのか──拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界──「いのちの守り人」の人類学』(ちくま新書)、『ダイエット幻想──やせること、愛されること』(ちくまプリマー新書)、『他者と生きる──リスク・病い・死をめぐる人類学』(集英社新書)、宮野真生子との共著に『急に具合が悪くなる』(晶文社)がある。『急に具合が悪くなる』は濱口竜介監督最新作として映画化が決定、2026年全国公開予定。