公開日:2025年1月30日

スマホ以後の造形批評:ジャスパー・ジョーンズの再検討から日本の現代作家まで【連載】クリティカル・シーイング:新たな社会への洞察のために #6最終回[後編](文:石川卓磨)

「美術批評」はいかにして新たな可能性を示すことでできるのか? 美術家、美術批評家として活躍する石川卓磨の連載最終回・後編。

千葉正也個展「横の展覧会」シュウゴアーツ 2023 Copyright the artist Courtesy of ShugoArts Photo by Shigeo Muto

「クリティカル・シーイング:新たな社会への洞察のために」は、これからの「美術批評」を「つくることの思想」と定義し、新たな批評とアートの在り方に迫る連載。

第6回となる今回はスマートフォン以後の造形批評がテーマ。ジャスパー・ジョーンズから環境運動団体「ジャスト・ストップ・オイル」、マリーナ・アブラモヴィッチ、近藤恵介や千葉正也までを横断しながら、造形芸術のパラダイムをいかに展開させるかについて前後編で論じる。【Tokyo Art Beat】

【前編はこちら】

有用性を切り離して道具を見ること

前編まで、《石膏鋳型のある標的》を通じて、絵画が鑑賞者を誘惑し、挑発する状況を見てきた。ここでの画面はたんなる平面ではなく、操作性を予感させるインターフェース的性格を持っており、デザインとの結びつきを確認できる。

では、デザインと芸術を切り分ける要素とは何か。両者を分けるものとして有用性の有無が挙げられる。そしてデザインを、批判的に考察するためには、道具と使用者の間で直感的に交わされる関係を一度切断し、観察することが重要である。有用性とは、私たちが信頼することで生まれる透明性を前提にするからだ。そのため、道具のデザインや存在を使用の状況から切り離してみる必要がある。それは、道具を芸術作品としてとらえ直すことにほかならない。マルティン・ハイデガーは、このような道具に対する分析をゴッホの《靴》(1886)を対象にして行った。靴という道具は、足を痛めたり疲れたりすることから保護してくれるものであり、農作業において靴がなければ大きな負担を強いられるだろう。

フィンセント・ファン・ゴッホ 靴 1886 oil on canvas 38.1cm x 45.3cm Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)

ハイデガーは「農婦が労働にさいして靴のことを考えなければ考えないほど、あるいはそれどころか靴を注視しなければしないほど、あるいはただ感じさえしなければしないほど、それだけ靴はますます真正に靴が〔本来〕それであるところのものとなる。」(*1)と説明する。道具は身体の延長として機能し、私たちの能力を拡張する。道具がその存在を透明化することで、有用性を発揮し、道具的な存在となる。しかし、この有用性は有限であり、使用を続けることで磨耗し、信頼性が徐々に失われていく。道具が壊れたとき、その延長としての機能は障害を抱え、不透明な存在となる。ハイデガーは、道具を身体(使用)から切り離すことで、道具を対象化し分析できると考えた。道具が壊れるという出来事は、道具を対象化する契機となる。また、ハイデガーは、道具が壊れるのと同様に、芸術作品として描かれた道具も似たような効果を持つと考えていた。

「芸術作品が、靴という道具が真実のところ何であるかを知るようにうながした。(略)たとえさしあたりそのように見えたとしても、ただ道具にほかならないものをよりよく具体的に説明するためだけではない。むしろ、道具の道具存在は、作品によってはじめて、そして作品においてだけ、ことさら輝き現れてくるのである。」(*2)

以上のようなハイデガーの道具と芸術に関する分析を踏まえて、ジョーンズの《電球Ⅱ》(1958)を検討することは可能である。この作品における鋳造された電球は、ジョーンズ自身の手の癖や解釈が関与していないため、手作りのレディーメイドとも呼べるオブジェ的な作品である。しかし、そのリアルさにもかかわらず、この電球は実際の電球とは大きく異なる。

まず、《電球Ⅱ》には中空が存在せず、光を発することもない。そのため、通常は明るさを象徴する電球が、ここでは暗さや死を意識させる。まるで死産した胎児のように、生まれると同時に死んでいるかのような印象を与える。この作品は、道具としての形態を保持しつつ、その機能が完全に失われている。ハイデガーの視点に倣えば、電球がその機能を失ったとき、私たちは初めて電球そのものに注視し、それを再考する契機を得るのである。《電球Ⅱ》は、道具の有用性を異化し、「暗さ」を浮かび上がらせる「輝き」として私たちに新たな感覚をもたらしている。

クリストファー・ウィリアムズにおける美の問題

クリストファー・ウィリアムズは、より批判的な立場からハイデガーの道具分析を作品で展開している。彼の写真作品《Kiev 88》(2003)は、ウクライナ製の中判カメラ「Kiev 88」を広告写真の専門的な撮影技術でとらえたものである。「Kiev 88」は、中判カメラの最高峰とされるハッセルブラッドの安価な模造品であり、鑑賞者は一見するとハッセルブラッドの美しいデザインのカメラだと見誤ってしまう。それは、「Kiev 88」がハッセルブラッドを巧妙に模倣しているだけでなく、高級感を引き立てる撮影技術による演出のためでもある。「Kiev 88」は、模造品であるがゆえにオリジナルなカメラとして単独のアイデンティティを持っておらず、スウェーデンに拠点を置くハッセルブラッドというカメラメーカーや製品と結びつき、模造品を生産するウクライナのメーカーという帰属性を持って存在している。

クリストファー・ウィリアムズ Kiev 88 2003 出典:https://kunstvereinbraunschweig.de/exhibitions/christopher-williams-for-example-dix-huit-le%C3%A7ons-sur-la-soci%C3%A9t%C3%A9-industrielle-first-draft/

ただし、ハッセルブラッドについての知識がなければ、この写真は単に美しい広告写真のように見えるかもしれない。しかし、そのような知識を持たない鑑賞者であっても、《Kiev 88》が持つ美しさの中に孕まれている空虚さや不毛さに気づくだろう。なぜなら、この写真がどんなにプロフェッショナルな美しさを示していても、現実の広告写真ではなく芸術作品だからだ。したがって、なぜその高度な技術が美しい自然や人物などではなく、カメラそのものを撮影することに用いられているのか理解できないはずだ。また、ゴッホの《靴》のように、使い古された道具が持つ時間性や痕跡がここにはない。鑑賞者は、この写真の美しさを認めながらも、芸術的な「つまらなさ」を直感的に理解するようになっている。

つまり、《Kiev 88》の高級感を持ったニセの美しさには、ハイデガーが賞賛した農婦の靴の本質性や輝きはない。ウィリアムズの《Kiev 88》は、その表象の空疎さを露わにすることによって、主観的に見出される現象学的な美を批判している。その代わりに彼は、ハイデガーが行わなかった、メディウム・メディアへの反省性を踏まえている。ハイデガーはゴッホが描いた農婦の靴について論じる際、靴という対象には言及するものの、ゴッホの表現や技術、絵具というメディウムについてはほとんど触れていない。つまり、靴を表象している絵画そのものを透明化し、あるいはブラックボックス化している。それに対して、ウィリアムズの「カメラでカメラを撮る」という自己言及的な振る舞いは、対象としてのカメラだけでなく、そのイメージを作り上げるカメラや写真というメディウム自体にも批評的な眼差しを向けている。ウィリアムズは、この写真で用いている撮影技術と《Kiev 88》の経済的なギャップを「NASA タイプの技術を使用して銛を表現しているようなものだ。」(*3)と説明している。私たちは、高級な商品が高級な技術と演出によって撮影された映像の経済原理を、自然なものとして受け入れている。しかし、ウィリアムズの作品は、広告写真の慣習を覆し、鑑賞者にその「自明性」を問い直させる。つまり、「見ること」を考える際、肉眼の視覚にカメラやレンズなどが与える影響力を認めるとき、身体には資本主義的な構造が自然と不可分に入り込んでいることが明らかになる。

見ることへの抵抗

道具を使用や有用性から切り離して見ることの批評的分析の方法を示したが、ここからは、反対に造形芸術における「見ることへの抵抗」についての考察を進める。ジル・ドゥルーズは、芸術と抵抗の密接な関係をこのように述べる。「あらゆる抵抗行為が、芸術作品であるというわけではないにしても、ある意味で、芸術作品は抵抗行為なのです。あらゆる芸術作品が抵抗行為であるというわけではないにしても、それでもなお、ある意味で、芸術作品は抵抗行為なのです。」(*4)。では、現代において「見ることへの抵抗」は何を意味するのか。ジェニー・オデルは『何もしない(原題:How to Do Nothing: Resisting the Attention Economy)』(2021)で、「『何もしない』とは、まず注意経済から身を引くことであり、その後何か別のものとのかかわりを持つことだ。『何か別のもの』とは、ずばり時間と空間のことであり、注意のレベルでは、そこで私たちが出会えるのはいちどきりしかない可能性である。」(*5)と述べている。説得的デザインや注意経済(アテンションエコノミー)は、スマートフォンなどの画面に私たちの注意を常時向けさせ、中毒性を引き起こしている。スマートフォンを操作できないと落ち着かなくなるほど日常に深く浸透している。私たちは、この中毒性によって、さまざまなデジタルプラットフォームに無償で参加し、貢献するように駆り立てられている。これは、誰にも強制されることなく自動的に行われている現象である。そのため、オデルは注意経済から自らを切り離し、目の前の対象をじっくりと観察することを提案している。本論では、視覚によって接続・参加を強いられる注意経済に抵抗するものとして、視覚を一時的に不能にし、他の感覚に接続する作品を検討する。

まず、見ることと触れることの両立不可能性から論じていこう。ジョーンズの作品《オハラの詩のある皮膚》(1963〜65)は、自身の顔や手に油を塗り、それを紙に押し付けて手や顔の痕跡を残したものだ。肌の質感や輪郭を忠実にとらえ、それを石版に転写することで、親密かつ具体的な痕跡が作品として現れている。この作品では、オハラの詩とともに、ジョーンズの顔が皮膚の痕跡として残されているが、目の部分が欠落している。いっぽうで、両手は手形として克明にプリントされており、そのコントラストは即物的な結果にとどまらず、象徴的な印象を作品に与えている。なぜなら、この作品では、画面に身体を押し当てる制作過程において、制作者自身がそれを見ることができない「盲目的時間」が存在しているからだ。この盲目的時間は、目の欠落と密接に結びついていると考えられる。

《男に噛まれた絵画》(1961)は、分厚い蜜蝋で覆われたキャンバスにジョーンズが自らの歯型をつけた作品である。キャンバスの上に塗られたメディウムに、筆も手も使わず、口で直接に痕跡を残すことは、キャンバスの全体が見えない状況で行われる儀式的なプロセスを示している。

拘束と解放の弁証法

ここからは、ジョーンズが画面に接触することで生まれる「盲目的時間」とプロセスを、鑑賞者の体験に展開した作品として、マリーナ・アブラモヴィッチの「Transitory Objects」シリーズに含まれる作品を論じていく。「Transitory Objects」は、1988年にアブラモヴィッチが万里の長城の端から中央まで歩くという過酷な長時間パフォーマンスを終えた後、1989年に開始された作品シリーズである。

1989年に制作された酸化銅と黒曜石でできた《White Dragon : Standing》《Red Dragon : Sitting》《Green Dragon : Lying》では、鑑賞者が、壁に設置された構造物に、立つ、座る、横たわるといった行為を通じて体験する作品である。この作品に参加する鑑賞者は、作品に身体を載せることで、床から切り離され、作品を背にしながら不安定な状態で姿勢を固定し続ける。身体を拘束させることで、瞑想的な行為を鑑賞者に行わせる作品だ。

ファーレ立川には、《Black Dragon: for family use》(1994)が屋外に設置されている。本作は、壁に15個のピンクの水晶の枕が、3つずつセットで垂直に配置されている。一見すると、その形態はドナルド・ジャッドの「Stack」シリーズにも似ているが、「Stack」とは異なり、この作品は人間の身長を想定した高さに水晶が設置されている。副題の「for family use(家族用)」が示すように、5人分の異なる身長を想定し、頭、心臓、性器にあたる位置に枕が配置されている。この作品は、見ることを主とした作品ではなく、水晶の枕に身体を押しつけて体験することが重要な鑑賞の形式になっている。

マリーナ・アブラモヴィッチ Black Dragon: for family use 1994  Rose quartz. Photo: Nick West 出典:https://www.tokyoartbeat.com/en/articles/-/public-art-4-faret-tachikawa

作品の近くに設置されたキャプションには、「壁にむかいあい、バラ色の水晶の枕に体を押しつけ、じっと待つこと」という指示が記されている。水晶に身体を接触させ、石の硬さ、冷たさ、形態を感じること。このとき鑑賞者は、作品に接しているため距離を取ることができず、視覚的に作品を把握することはできない。この指示から、作者は作品があらかじめ存在しているものではなく、壁に身体を固定することで到来すると考えていることが理解できる。本作はパワーストーンに類似した瞑想的で精神性を志向した作品であるが、視覚によって注意が誘導されるような外的要因から切り離されて、内観をよく観察することに結びついている。先述したように道具とは身体の延長として使用されるが、この作品では、反対に身体が作品の延長として接続され、まるで身体測定のように身体を固定する体験を伴うものである。

アブラモヴィッチのこれらの作品は、作品を自由に鑑賞することを奪い、視覚的な観察を退け、作品と一体化することで感覚に集中する。この拘束こそが、瞑想的な意味での解放につながっている。そして暗い部屋では、瞳孔が開くまで何も見えないのと同じように、石との感覚を意識しなければ到来しないものがある。私たちは、多動的に選択や参加を誘導される中で、ますます落ち着きのない存在となっている。しかしここでは、鑑賞者が「何もしない」状況に置かれることで、自らの感覚に集中する行為が現実の認識に対するひとつの抵抗となり、それが創造へとつながる状況が提示されているのだ。

日本におけるジョーンズの絵画モデルの展開:近藤恵介と千葉正也

次に、日本におけるジョーンズの絵画モデルの実践について考察していこう。これまでジョーンズの絵画モデルとして説明してきた、絵画とオブジェの境界を行き来し、視覚性や平面性に限定されない多感覚的な絵画を、日本においてももっとも批評的に展開させているのは、近藤恵介千葉正也のふたりである。彼らの作品には、イメージと支持体、絵画と壁といった絵画構造の基本となる物理的な関係性を脱構築していく点で共通性が見られる。 ジョーンズは、《おもちゃのピアノがある作品》や《石膏鋳型のある標的》に見られるように、水平と垂直、あるいは平面と立体の両義性を内在させる作品を作り続けてきた作家である。バックミンスター・フラーが考案した「ダイマクション世界地図」をもとにした《地図(バックミンスター・フラーの空海一体ダイマクション世界地図に基づく)》(1967〜1971)もその一例である。「ダイマクション世界地図」の特性は、上下や南北といった固定的な方向性を取り外し、地球を正確に再現しようとした点にある。本作は、三次元のものを二次元にトレースしようとする試みであり、《オハラの詩のある皮膚》とも結びつくが、とくに絵画のイメージに回転可能性を与えることを重視している。

宇宙空間では、東西南北や上下といった条件が消えるという考えがフラーの発想の根底にあるが、ジョーンズの作品もまた、床と壁、あるいは空間の上下という絶対性に対する懐疑を反映している。このジョーンズの絵画モデルは、「スマートフォン以降の造形理論」としてアップデートすることが可能だ。スマートフォンでは、映像が壁から切り離され、手に持たれるデバイスの画面が、傾きに応じて上下左右に回転する仕様になっているためである。絵画が壁から自立すること、そして上下や水平・垂直といった二項対立を瓦解させること。この2点は、近藤と千葉の作品を検討する際に不可欠な要素であり、ジョーンズの絵画モデルの体系に彼らを位置づける根拠となっている。

手で持たれる絵画

近藤の作品は、日本画というアイデンティティを出発点としており、鏑木清方が展開した「卓上芸術」と「フラットベット」を結びつける方法論を考案している。ここでは、近代日本画の作家たちの活動の中に見出せる芸術性と大衆性の双方向性に着目し、ベンヤミンが示した「絵画芸術(垂直性)」と「グラフィック芸術(水平性)」に類似した両義性を内在させる。

近藤の作品は、絵画を安定した条件に設置することを避け、キューブ上の木枠の構造体、板、棚などに、図像が描かれた紙をそのまま配置する展示形式を中心としている。この形式は、琳派など日本美術において、絵画(装飾)が道具や建築と切り離されることなく、混合物として展開されてきた日本美術の在り方を、西洋的な美術制度であるギャラリー空間で展開させる脱構築的方法である。

近藤恵介 ひとときの絵画 2023 左:具墨、薄美濃紙 12.4×16cm 中央:朱、黄土、朱土、代赭、藍、洋紅、膠、墨、矢車、蘇芳、雅邦紙、糊 26.8×12.3cm 小林古径《臨顧愷之女史箴卷(第4場面)》の模写(部分) 右:代赭、膠、コンクリート 8×10.6cm 小林古径《右手(素描)》の模写(部分)

さらに近年では、DMや広報などに使用される作品のイメージ写真が特徴的なスタイルを示している点は注目に値する。これらの作品イメージでは、作品の構成要素である紙片、布、絵画などが接合されることなく、壁に掛けられることも、床に置かれることもなく、手で持たれたかたちで構成され、その状況が写真に撮影されている。この方法論は、スマートフォンなどのテクノロジーを直接参照しているわけではないが、目と手を切り離さず、物理的な条件の可変性を強調している点に、今日的な着想の特徴を見出すことができる。

窓と壁の両義性

千葉正也の展示方法には、よりアクロバティックなものがある。シュウゴアーツで開催された個展「横の展覧会」(2023)では、床に水平の高さで展示される絵画作品を90度回転させ、床・壁・天井に配置するかたちで展覧会を構成している。このような展示では、スマートフォンのように画面が動いてくれないため、正しい方向で絵画を見ようとすると、鑑賞者は腰や首を反ったり曲げたりしながら画面を覗き込むことになる。これにより、視覚と体勢の感覚が相互に干渉し合う、絵画/インスタレーションとなっている。

千葉正也個展「横の展覧会」シュウゴアーツ 2023 Copyright the artist Courtesy of ShugoArts Photo by Shigeo Muto

また、2021年に東京オペラシティ アートギャラリーで行われた個展でも、千葉は多くの絵画作品を壁にかけず、さまざまな方向に設置することで、絵画と鑑賞者の身体との関係性を問う展示を行った。

また、千葉は、近藤とは対照的に油絵(洋画)を出発点としているが、近年では幽霊画や日本の伝統的なお面など、日本美術の文脈がメタ絵画の構造を支える重要なモチーフとして扱われている。もともと、ジオラマ的に作り出されたモチーフを擬人的に見立てる絵画作品を制作していたが、物質主義的な絵画から、よりミステリアスで不可解な精神性を重視するように変化している。

《Inase-Hagi-no-Mikoto (Mediator / Denim Jacket Observer)》(2022)は、日本のお面が組み込まれた作品である。この作品では、キャンバスが壁から切り離され、自律するかたちで角材に設置されている。絵画の表面には、画面と向かい合わせでお面が取り付けられ、さらに別の角材には本物のデニムジャケットが掛けられている。

千葉正也 Inase-Hagi-no-Mikoto (Mediator / Denim Jacket Observer) 2022 oil on canvas, wood, mask, denim jacket 184.8 x 63.5 x 57.5 cm Copyright the artist Courtesy of ShugoArts

キャンバスには、高い写実性によってお面とデニムジャケットが描かれているが、実際に設置されたお面によって、正面からは描かれたお面が隠されている。そのため、絵画を斜めから見ることでしか、一部を確認することができない。また、お面に非常に近づいて視点を確認しようとすると、今度はお面自体が見えない仕組みになっている。このように、キャンバスに設置されたお面は、画面を隠すだけでなく、《オハラの詩のある皮膚》や《男に噛まれた絵画》に見られる「盲目性」をも含意している。鑑賞者は仮面の目の穴を通して絵画をまともに見ることができず、さらにキャンバスの背後にあるジャケットを見ることもできない。

ここでの絵画は、伝統的な絵画モデルが「窓」としての役割を果たしてきたいっぽうで、「壁」としての存在を提示している。本作は、アルブレヒト・デューラーの《裸婦を描く素描家》(1525)が示すような、対象と視点の間に置かれたグリッド状の装置を想起させる。さらにフォトリアリスティックな様式で描かれていることで、千葉が示す「絵画の自意識」あるいは「絵画芸術の寓意」が奇妙なものとして浮かび上がる。

アルブレヒト・デューラー 裸婦を描く素描家

ここまで何度も説明してきたように、ジャスパー・ジョーンズの再評価は、「スマートフォン以後の造形批評」を展開するための指針となり、「直感的な経験を通して直感を反省する」契機をつくる。この反省性は、美術の形式的な領域にとどまらず、デザイン・テクノロジーが持つポテンシャルに絵画が反応することであり、同時にそれらとの現代的な批評的緊張関係を構築する、ふたつの側面を含んでいる。つまり、現代アートは、デザイン・テクノロジーを肯定か否定に分けるような二元論を形成しない。

近藤と千葉は、ジョーンズが開発した造形言語の体系を、現代の日本においてアップデートしながら継承していると位置づけることが可能である。彼らは、過去と現在の結び目を解きほぐしつつ、新たな場所に結び直す。その弁証法的でアナクロニズムな方法論は、現代のテクノロジーやメディア環境との緊張関係が認められる。ゆえに彼らの試みと批評意識は、これからの造形批評に可能性として検討し続けていくべきである。

結び

最後に「クリティカル・シーイング」の姿勢を改めて説明して終わりにしたい。本連載では、できるだけ多くの作家や作品に言及することを心掛けた。それにより文章が冗長に感じられる危険性があるとしても、抽象的な概念だけでなく、具体的な作家や作品を通じて考える機会を提供したいと考えたからだ。

かつての美術批評では、ひとつのテキストで、多くの作家が扱われることが珍しくなかった。しかし近年は、批評家が自らの批評的な仮説を説明するために、自由に作品を選択して論じる機会は減少している。それはレビューにはなり得るが、批評理論にはなり得ない。そのため、現代アートのこれからをつくる批評理論が、提供されることがますます困難になり、作家自身の制作と美術批評の結びつきが弱められてきたことは否定できない。とくに絵画や彫刻などの造形芸術は、直接的に社会的・政治的な文脈が扱われていない場合、作品が社会、政治、歴史とどのように結びついているのかを理解することがますます困難になってきている。しかし、美術制作は、孤独な営みであるが、同時に孤立したものではなく、時間的あるいは空間的に離れた者とのネットワークを作り出している。そこには方法の開発と可能性が内在しており、社会や政治を含んだ現在との緊張関係が刻印される。批評家は、このネットワークや方法論を明らかにし、コモンとして人々が共有可能となる回路を切り開くことが仕事である。

世界情勢がこれほど矛盾を抱え、変動の激しい状況にあるいま、新たな社会への洞察を得るために、美術批評はかつてないほど重要になってきている。離れた他者の思考や活動を自らの実践と接続し、新たな可能性を構想すること。この批評の力を、美術は再び取り戻す必要がある。

*1──ハイデッガー『芸術作品の根源』関口浩訳、平凡社、2008年、41頁
*2──同上、46頁
*3──「Christopher Williams 25.08.–28.10.2007」 https://www.kunsthallezurich.ch/en/ausstellungen/719-christopher-williams (12月5日閲覧)
*4──ジル・ドゥルーズ「創造行為とは何か」『ドゥルーズ・コレクション 2: 権力/芸術』廣瀬純訳、河出書房新社、2015年、326頁
*5─ジェニー・オデル『何もしない』竹内要江訳、早川書房、2021年


「クリティカル・シーイング:新たな社会への洞察のために」

石川卓磨

石川卓磨

いしかわ・たくま 1979年千葉県生まれ。美術家、美術批評。芸術・文化の批評、教育、製作などを行う研究組織「蜘蛛と箒」主宰。