日常にあるあらゆるものから視覚的なイメージを抽出した絵画や立体作品を制作し、近年はゲームから引用した画像イメージを用いた絵画を手がける末永史尚。そして、軽やかで豊かな色彩とバリエーションに富んだかたちの絵画を通して、既存の絵画の制度を問い直す佐藤克久。2024年8月、二人展となる末永史尚 + 佐藤克久「エラー」が広島のアートスペースTHE POOLで開催された。本展を美術批評家の沢山遼がレビューする。【Tokyo Art Beat】
末永史尚と佐藤克久の仕事に共通点があるとすれば、それは、彼らの絵画が、絵画制作それ自体を目的としてなされたものではなく、絵画という表現体系がもつ歴史や論理を制作における批評的な枠として取り上げ、そのことによって〈絵画〉や〈絵画的なもの〉の自明性を疑うという基本的な姿勢によってである。
自明のことだが、彫刻や写真と同じように、絵画は、個々のオブジェクトであると同時に、ひとつのジャンルである。絵画は、その意味でつねにオブジェクトレベルとメタレベルのふたつの領域のあいだで揺動している。言い換えれば、異なるレベルにあるふたつの「絵画」は、言葉のうえでは同じ「絵画」として表現される、ということだ。そのため、このふたつの「絵画」は重なり合いながら完全に一致することはない。たとえば「(この)絵画は絵画である」という言明は、たんなるトートロジーではないが、いっぽうで、明快な主語と述語の関係に還元されるものでもない。
佐藤と末永が扱うのは、このふたつのレベルの「絵画」のあいだにある認識のズレである。彼らの「絵画」では、「絵画」を「絵画」というジャンルとして認識させ、社会的に流通させる認識の枠そのものの自明性が解体されると同時に、その解体作業が、オブジェクトレベルでの「絵画」制作に送り返され実行される。つまり、言い換えれば、彼らの仕事においては、「絵画」の制作が、「絵画」の解体と直結するというパラドクスが生じるということだ。
だから彼らの仕事では、絵画の解体と絵画の制作が同時に進行する。彼らの作品を見るときに生じるのは、それが明らかに絵画であるにもかかわらず、その目の前で、絵画の絵画らしさが撹乱され壊れていく感覚である。個々の作品を通じて前景化するのは、意図的にフレームアップされた絵画の絵画らしさや絵画の不確かさである。
であれば、彼らの作業をこのように言い換えることができるかもしれない。それは、絵画の総体的な歴史(とくに抽象絵画以降のモダニズムの絵画の歴史)から「言語」として析出された様々な機能や構造を、語彙、論理、タイプ(類型)としてとりだし、それを個々の作品構造としてあらためて扱うことである、と。
異なる要素群から共通する特定の構造的な特徴やパターンをとりだし、「類型」として扱うことを「タイポロジー」という。たとえば建築においてタイポロジー的手法を扱った建築家にアルド・ロッシがいる。佐藤と末永は、抽象絵画以降のモダニズムの絵画の歴史をいったん閉じられた歴史的な語彙体系とみなし、そこで展開された様々なアプローチを類型としてとりだし、それを再度組み立てることで、絵画そのものというよりは「絵画」と「絵画的なもの」が重なりあう界面を作りだすのである。
彼らの作品は、そのことによって個々の「絵画」を絵画たらしめている論理体系が取り出され、さらにその根拠となるものの不確実性がフレームアップされる。結果として、それぞれの作品によって、絵画を絵画として規定し、限定する形式的諸条件が批評的に脱構築される、というプロセスが展開される。よってそれは近代絵画の遺産の継承とその解体の双方を目論むものとも言えるだろう。
具体的に見ていこう。佐藤の作品はきわめて軽やかだ。たとえば彼の《もともこ》《とんがり》は、蝶が枝にふわりととまったかのような印象を与える。その軽やかさはあきらかに、木枠と色が塗られたキャンバス地の関係が非固定的で仮設的な印象をあたえることによるだろう。壁に掛けられることなく地面にそっと置かれた絵は、のんきに休憩中である。
おそらく、ここで佐藤が行っているのは、「絵画とは、色のついた平面とフレームの組み合わせにすぎない」というモダニズムの画家たちがその作品で繰り返してきた「記述」を、文字通りに解釈し、「再記述」してしまうことである。
つまり、佐藤の絵画に私たちが見るのは、一般にイメージされる絵画と、絵画をいったん記述的な形式に置き換え、その記述から復元された像とのズレである。佐藤は、そのような操作によって、木枠、布、絵具から構成される様々なコンポジションを生み出す。それは、絵画を絵画という枠から解放してしまうことだ。佐藤の作品が一貫して示すのんきさ、きままさ、そして休憩中の印象は、絵画をその職務、重圧から解くことに関わっている。
そのとき絵画のタイポロジー的な分析は、様々な要素の動的な組み換え可能性として展開される。あるいは色を塗るレベルにおいて、佐藤は、抽象絵画を抽象絵画として記述する際にメタファーとして繰り返し使用されてきた、「ストライプ」や「色層」といった表現を文字通りに画面内で展開することで、抽象を「具体化」し、かつ「モチーフ化」してしまうのである。言い換えれば、それはモダニズムの絵画において「概念」の具現化として展開されたものを、技法的な「パターン」へと変換することである。
同じことが末永の作品についても言える。末永は80年代から90年代の初期のコンピュータやゲーム機の技術的制約から使用された、いわゆる「ピクセル・アート」や「ドット絵」と呼ばれるものを、文字通りのアート=美術として捉え、そこから抽象絵画のタイポロジー的な変換を開始するのである。ここで扱われるのは、時差をもって展開された二つの美術(アート)に共通するグリッドによる表現である。初期のコンピュータゲームには、そんな低解像度の世界がひろがっていた。が、むしろそのことによって画面は、限定されたグリッドの配置から創造的に像がたちあげられるイメージの実験場へと展開した。
ピクセルに認められるのは、モダニズムの抽象絵画と共通する、単純化された要素による画面構成、同一単位の反復や繰り返し、そしてグリッドの美学である。ここでモダニズムの美学は、ピクセルというグリッドから像を生み出すための技法(アート)へと変換=再記述されている。
ピクセル・アートでは、限られた要素のなかで陰影や輪郭を表現するために、「ディザリング」という技法が使用される。この場合、ディザリングにおいて線はグリッドのパターンで表現される、と言える。ディザリングは、(「自然に輪郭線は存在しない」というセザンヌの教えに忠実に)輪郭を回避し、すべてをグリッド、クロス(十字)、筆触といった単位の反復から対象を解体し再構築したキュビスムやモンドリアンの絵画の美学と連続するだろう。末永の作品に見られるのは、古い美学と新しい美学、アナログとデジタルの遭遇であり、またそれを可能にする絵画のタイポロジー的変換である。
この絵画の「タイポロジー」的変換は、同時に「トポロジー」的変換でもある。両者の作品に見られる、グリッドとピクセル、あるいは概念とパタンの往還関係は、数学的なトポロジーの概念に接近しているからである。たとえば、よく知られた例として、トポロジー的には、ドーナツとコーヒーカップは、ともにひとつの穴を持つために同じものと見なされる。物体を伸ばしたり曲げたりしても、穴の数が変わらない限り、その物体は「同相」と見なされるからだ。
タイポロジー/トポロジー的変換によってたちあがるのは、ドーナツがコーヒーカップと連続してしまうような、異なるレベルにある表象と表象が結ばれ、伸縮し、回転しながら重なる運動である。彼らは、絵画というメディアそれ自体をタイポロジー/トポロジー的に変換し再記述すること、あるいはそこに意図的な「誤用(エラー)」を起こすことによって絵画を作る。