フィンセント・ファン・ゴッホ 夜のカフェテラス(フォルム広場) 1888年9月16日頃 クレラー=ミュラー美術館 Ⓒ Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands.
神戸市立博物館でフィンセント・ファン・ゴッホの大規模展「阪神・淡路大震災30年 大ゴッホ展 夜のカフェテラス」が開催されている。会期は2026年2月1日まで。
今年から来年にかけて、東京都美術館の「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」、ポーラ美術館の「ゴッホ・インパクト―生成する情熱」など、ゴッホをテーマにした大規模展が相次いで開催されており、まさに「ゴッホ・イヤー」と呼ぶにふさわしい状況だ。
そのなかでも本展は、世界第2位のゴッホコレクションを誇るクレラー=ミュラー美術館の所蔵品を中心とした特別な内容となっている。
本展を語るうえで欠かせないのが、クレラー=ミュラー美術館の創設者ヘレーネ・クレラー=ミュラー(1869〜1939)の存在だ。生前ほとんど評価されなかったゴッホにいち早く注目し、1907年から1939年までの32年間で約11500点もの美術品を収集してきた。
彼女は「美術館のような家」を建てて地域に寄贈するという夢を抱き、1938年に「国立クレラー=ミュラー美術館」を創設した。本展は、同館が誇る珠玉のコレクションで構成される充実した内容の展覧会となっている。
展示は、ゴッホの初期作品に大きな影響を与えたバルビゾン派とハーグ派の作品から始まる。19世紀後半のオランダ・ハーグを中心に展開したハーグ派は、風景画のみならず農民の生活を題材とした風俗画で知られている。ゴッホは一時期ハーグに滞在していたが、1883年にその地を離れた後も、ハーグ派からの影響が強い絵画を制作している。
たとえば、初期の代表作《じゃがいもを食べる人々》(1885)の薄暗い室内表現には、ハーグ派の中心的な存在であったヨーゼフ・イスラエルスからの影響を見て取れる。
いっぽう、19世紀前半から中頃にフランスのバルビゾン村周辺で広まったバルビゾン派、とくにジャン=フランソワ・ミレーの描く田舎の労働者階級の人々の暮らしや村の情景も、ゴッホを強く惹きつけた。ミレーは1848年のフランス2月革命以降、それまでの歴史画の主題を捨てて農民画へと転換し、1850年代には農村で働く人々や「労働」そのものを主題にした絵画に専念していく。農民画家を目指したゴッホは、初期から晩年まで繰り返しミレーの作品に倣い、多くのモテーフを参照している。
ミレーの作品に憧れたゴッホはやがてフランスそれ自体に惹かれていった。それを後押ししたのが、当時パリで美術商として働いていた弟のテオであり、ゴッホをパリに呼び寄せようと説得していた。
牧師一家の長男として生まれたゴッホの複雑な人生の軌跡が、第2章で明らかになる。16歳から伯父が共同経営するグーピル商会ハーグ支店で働き始めたものの、宗教への関心の深まりとともに美術品取引への興味を失い、1876年に解雇される。その後、補助教員としてイギリスで働くなど職を転々とした後、1880年夏、ゴッホはついに画家として生きることを決意した。
教則本の模写から始まり、ブラバントの風景や人物の素描に取り組んだゴッホは、1881年末にハーグに移住し、従姉の夫で画家のアントン・マウフェから素描を学んだ。しかし、衝動的な性格や価値観の違い、そしてモデルとして同棲していた元春婦シーンとの関係が問題視されたことで、マウフェとの縁は断たれることとなる。
1883年末に両親の住むニューネンに移ると、そこで現地の風景と労働者の姿を描くことに没頭する。2章の最後に展示されている農民をモデルにした頭部の習作には明暗技法に対する研究の跡を見ることができる。当時、ゴッホは闇のなかに存在する光にこそ美があると考え、モデルの顔や衣服の色調を決め、そこから背景の明暗を調整することで、暗い色調のなかに現れる光の効果や奥行きを表現した。
ミレーを敬愛していたゴッホは、農民を理想的な人間の姿と考え、その姿をありのままに描いたが、やがて新たな刺激を求めてパリへと向かった。
1886年のパリ移住は、ゴッホの芸術人生における重要な転換点となった。第3章では、ゴッホの表現に影響を及ぼしたクロード・モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、ポール・セザンヌなどの作品が並ぶ。
印象派の表現から大きな影響を受けていたゴッホだが、同時代の画家たちと深いコミュニケーションを得る機会を得たのは、パリ移住以降のことだった。たとえば、1886年から1887年にかけて、アゴスティーナ・セガトーリのカフェ「ル・タンブーラン」に自作を展示する機会を得て、カミーユ・ピサロやアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、エミール・ベルナールと出会う。
さらに注目すべきは新印象主義との出会いだ。ジョルジュ・スーラやポール・シニャックの点描画法に影響されたゴッホは、彼独自の点描画法を試みるようになり、1887年夏の終わり頃には新印象主義を独自に解釈した作品を完成させた。
また、美術商として働く弟テオの存在も重要だ。テオはポール・ゴーガンやエドガー・ドガとも交流し、ゴッホ兄弟はパリの若手画家たちとの縁を深めていったのである。
パリ時代のわずか2年間で、ゴッホの絵画は色調だけでなく筆触まで大きく変化した。この変化が顕著になったのは、花の静物画を描き始めた頃からだ。モデル代の捻出が困難だったため、望んでいた人物画ではなく自画像や静物画を描けざるを得なかったという現実があったものの、結果的にこれがゴッホの色彩感覚を飛躍的に向上させることとなった。
弟テオの役割も重要だった。印象派の熱心な支持者であったテオは、兄に経済的援助を行うだけでなく、兄の制作活動を兄弟による共同事業と考えるようになっていた。テオのおかげで印象派の絵画を容易に観ることができ、画家本人に直接会うことも可能だった。
パリの喧騒に疲れたゴッホは、1887年夏から秋にかけて陽光にあふれた南フランスに憧れを抱くようになった。1888年2月にパリを離れアルルに向かった彼にとって、素朴で明るい風景と都会の喧騒から離れた生活は、日本の浮世絵や近世以前の農村社会を思わせる「理想の場所」だった。そして、アルルでの15ヶ月足らずの間に、ゴッホは約200点の油彩と100点以上の素描・水彩を制作し、200通以上の手紙を書き記した。
そして、本展の最大の見どころが、通常はオランダ国外に出ることのない傑作《夜のカフェテラス(フォルム広場)》(1888年9月16日頃)の特別出品だ。同時代画家による街頭風景や、日本の浮世絵版画などから構図のヒントを得た可能性もあるが、それ以上に本作の制作動機として重要なのは、ゴッホの星空への憧憬だった。
愛読したギ・ド・モーパッサンの小説『ベラミ』に現れる星空、あるいは、1888年6月初めに地中海で見た色彩豊かな星空に刺激を受け、その絵画化に取り組むことになる。同年9月半ば、アルルの中心フォルム広場で、ゴッホは夜中に本作を油彩で描いた。妹への手紙で、本作の主題が『ベラミ』の冒頭シーン、主人公が目にしたカフェの夜景と同じだとも述べている。
1958年にクレラー=ミュラー美術館所蔵のゴッホ作品の大半が日本で初公開されてから約70年。本展は、ゴッホが芸術家として歩み始めた不安な一歩から、アルルで真の画家として開花するまでの軌跡を、彼が敬愛した画家たちの作品とともに追体験できる貴重な機会である。
また、本展は神戸市立博物館での開催を皮切りに福島県立美術館、上野の森美術館へと巡回予定。会期は第1期と第2期に分かれており、2025年9月から2028年1月まで約2年間にまたがる大規模な巡回が行われる。さらに、2027年から2028年に開催される第2期では、約70年ぶりに《アルルの跳ね橋(ラングロワ橋)》(1888年3月)の来日が予定されている。これにより、ゴッホの芸術的発展の全貌を2期にわたって包括的に理解することが可能となる。
充実したグッズのラインアップも本展の見どころのひとつ。編集部おすすめのオリジナルグッズはこちら。
【巡回情報】
■ 第1期
神戸会場:神戸市立博物館 2025年9月20日~2026年2月1日
福島会場:福島県立美術館 2026年2月21日~5月10日
東京会場:上野の森美術館 2026年5月29日~8月12日
■ 第2期
神戸会場:神戸市立博物館 2027年2月6日~5月30日(予定)
福島会場:福島県立美術館 2027年6月19日~9月26日(予定)
東京会場:上野の森美術館 2027年10月頃~2028年1月頃(予定)
灰咲光那(編集部)
灰咲光那(編集部)