「生誕100年 森英恵 ヴァイタル・タイプ」 会場風景
世界的ファッションデザイナー、森英恵の生誕100年を記念した展覧会「生誕100年 森英恵 ヴァイタル・タイプ」が、島根県立石見美術館で開催されている。会期は12月1日まで。
2022年に96歳で亡くなった森英恵は島根県吉賀町出身。1950年代にキャリアをスタートさせると、戦後の高度経済成長期において、映画衣装の制作で頭角を現した。1965年にはニューヨーク、1977年にはアジア人初のフランス・オートクチュール組合正会員としてパリへと活動の幅を広げ、日本人として初めて海外で本格的なブランドを確立。出版や映像制作を通じた日本のファッション文化発展にも尽力し、生涯にわたってファッションに情熱を注ぎ続けた。
故郷・島根を舞台に行われる没後初の大規模展であり、島根県立石見美術館の開館20周年記念展でもある本展。美術館と森の関わりは深く、ファッションをひとつの軸とする同館のコレクション方針は、「森英恵さんなくしてはあり得なかった」(的野克之館長)という。開館準備期間中に森からたびたびアドバイスを受け、作品の寄贈も受けた。これまでに2回にわたって森の展覧会を開催しており、今回の展覧会はそういった深いつながりのある同館ならではの企画といえるだろう。
展覧会の特徴は、オートクチュールなど世界的な活躍を示す作品群の紹介にとどまらず、森の生き方や人柄にも光を当てていること。その象徴として、森が1961年に提案した、はつらつとした人物像「ヴァイタル・タイプ」をサブタイトルに掲げている。オートクチュールのドレスや写真、資料など約400点を通して、森英恵の創作哲学と生き様に迫る。担当学芸員は、同館学芸課長の南目美輝、専門学芸員の廣田理紗。2026年4月には東京・国立新美術館への巡回も予定している(会期:2026年4月15日〜7月6日)。
展覧会は時系列に沿った全5章構成で、ふたつの展示室にわたって展開される。
注目すべきは、ニューヨークのメトロポリタン美術館収蔵のドレス5点が里帰り展示されていることだ。会場入口では、墨絵をデザインに取り入れたオートクチュールのイヴニングドレスが来場者を迎える。
第1章「日本の森英恵」は、世界に羽ばたく前のキャリア最初期にフォーカス。森は1948年の結婚後、ドレスメーカー女学院に入学し、長男・顕の妊娠・出産を挟みながら2年間洋装の基礎を学んだ。専業主婦の生活に物足りなさを感じ、「家庭のなかの世界だけでなく、ひとりの人間として独立した生活を持ちたい」との思いが背景にあったという。
ファッションデザイナーとしてのキャリアの原点は、1951年に新宿駅東口に開いた洋装店「ひよしや」にある。「洋裁店」でなく「洋装店」と呼ぶことにこだわった森。店内に大きなショーウィンドーを設け、近隣の喫茶店でショー形式の受注会を行うなど意欲的な試みも評判を呼んだ。これが映画関係者の目に止まったことから映画衣装の世界に足を踏み入れることになる。
以降、自身が「修行時代」と呼んだ約10年の日々のなかで数百本の映画の衣装を手がけた。会場には『狂った果実』『波止場の鷹』をはじめとする映画の衣装がスチル写真を背景にずらりと並ぶ。当時は映画の衣装担当者をクレジットする習慣がなく、森が関わった映画の全貌は不明だという。
幼い子供を抱えながら、店や映画の仕事、雑誌や新聞への寄稿など幅広く活躍する森は「新時代の女性」として注目された。1955年には次男の恵を出産するが、働き続けるなかで過労を極め、長期休暇を余儀なくされてしまう。
「ヴァイタル・タイプ」はそうした状況下で、『装苑』1961年1月号で森が打ち出した概念だった。会場で展示されている『装苑』の該当ページには、森自身の言葉でこう記されている。
いろいろなものを飾りたて、それを美しいとする時代はすぎ去りました。こういうとぎすまされた生活感覚のなかでは生き生きと生命力に溢れ、敏捷げに目を光らせた女性が美しく見えるのです。そんな魅力をもった女性をヴァイタル・タイプと名づけてみました。
誌面には「ヴァイタル・タイプは颯爽とした活動家です」とのコピーも踊る。時代の変化や周囲の物事に敏感で、自分らしく前向きに生きることを理想とした人物像は、まさに森自身の生き方に重なっていた。
森は1961年にパリとニューヨークを初訪問。現地のファッションに触れ、デザイナーとしての新たな可能性を見出した。とくにニューヨークでは、日本製品が「安価で低品質」の代名詞として扱われる現実に衝撃を受け、日本人デザイナーとしてのプライドを刺激された。当時森が雑誌に寄稿した論考からは、海外渡航を機に世界を意識するようになった森の姿勢が読み取れる。
世界進出を決意した森は、日本のアイデンティティを海外で表現するため、日本の布地や紋様、美術を学び直した。そして1965年、ニューヨークで「MIYABIYAKA(雅やか)」と題した自身初の海外コレクションを発表。帯地と縮緬を軸に日本の布地をいかしたコレクションは、「East Meets West(東と西の出会い)」と評された。
第2章では、百貨店文化を背景にアメリカのファッション業界に挑んだ森の仕事を紹介する。見どころは、金糸を用いた絢爛な西陣織の帯地によるイヴニングアンサンブルや、伸縮性とさわやかな肌感が特徴の縮緬を用いたドレス、藍染の浴衣地をパッチワークしたワンピースやジャンプスーツなど、森による丹念な日本の素材研究の成果が結実した作品群。こうした日本の素材や紋様への視線は、後のオートクチュールの代表作にも受け継がれていく。
本展では、森のアメリカでの躍進を支えた重要な要素として、テキスタイルデザイナーの松井忠郎(1930〜2009)が手がけた絹地にも注目する。松井は日本の伝統的なモチーフなどを取り入れた多彩な図案を手がけ、手捺染と呼ばれる手法で絹に染め上げた。その絹地はファイナルコレクションまで森の創作を支え続けた。会場では貴重なテキスタイル原画や、布にプリントする前の「絵刷り」を初公開。色鮮やかで独創的なテキスタイルがドレスに生まれ変わるまでの過程に想像を喚起される。
キャリアの初期から精力的に執筆業も行っていた森は、衣服のみならずライフスタイル全体をデザインするのがファッションデザイナーの仕事だと考えていたという。自身の作品だけでなく言葉や映像、場づくりを通して、ファッションの魅力を日本の人々に広く発信し続けた。第3章では、森が生涯にわたって注力した、ファッションを文化に押し上げるための多様な活動に光を当てる。
その出発点ともいえる雑誌『流行通信』の創刊だけでなく、長男の森顕が原宿に開いたライフスタイルショップ「スタジオV」の広報誌として創刊した『STUDIO VOICE』、アメリカのファッションビジネス新聞「Women's Wear Daily」の日本版『WWDJAPAN』など、ハナエ・モリグループは最先端のファッションとカルチャーを日本に紹介する活動を精力的に展開した。会場ではバックナンバーが壁一面に展示されている。
さらに森は、ファッションを通じた交流の場づくりでも先駆的な試みを見せた。ハナエ・モリビル5階の多目的ホール「The Space」では、日本、パリ、ロンドン、ミラノ、ニューヨークを代表するデザイナーを誘致した国際合同ショー、通称「The Best Five」を1978年から1983年まで毎年企画。カール・ラガーフェルド、ジョルジョ・アルマーニ、ソニア・リキエル、カルバン・クライン、ヴィヴィアン・ウエストウッドといった著名デザイナーが参加し、来日してショーを行った。このショーが一般公開されていた点にも、ファッションを文化として日本社会に根付かせようという森の強い意志が感じられる。
第2会場で展開される第4章「フランスの森英恵」は本展のハイライトだ。森が「初めて自分自身の表現ができた」と語り、情熱を注いだオートクチュールの作品が集められ、高低差のある台座の上にぐるりと配置されている。1977年のデビューコレクションから2004年のファイナルコレクションまで、27年間にわたるコレクションが網羅的に展示される。
1977年、森はパリ・オートクチュール組合に正会員として加盟。東洋人として初の快挙だった。アメリカでは鮮やかな色使いや独自の柄で注目された森だが、パリではフォルムを重視した洋服づくりに挑戦していく。最高峰の素材と技法で作り上げられた一点ものならではのドレスが展示室を埋め尽くす光景は圧巻だ。
「月」や「花」といった漢字やかな文字が大胆に筆で描かれたモノトーンのドレスや、「折る」「重ねる」といった日本の意匠を取り入れたスーツ、手仕事で精緻にモチーフを描き出したビーズ刺繍のドレス、役者絵をあしらったファイナルコレクションのイヴニングドレス、各シーズンの新作コレクションの最後を飾っていたブライダルドレスなど、森がライフワークとして取り組んだ挑戦の軌跡を一望できる。
第1会場に戻って、展覧会を締めくくる第5章では、森と様々なジャンルのアーティストたちとのコラボレーションを紹介する。
親友だったモデルの松本弘子、森の作品やコレクションを撮影した奈良原一高、『流行通信』のロゴや店舗内装、ショーの広報物など幅広く手がけたグラフィックデザイナーの田中一光、森の強い依頼で1年間だけ『流行通信』のアートディレクションを担当した横尾忠則──森の仕事はこうした各分野のトップランナーの才能にも支えられていた。
さらには黒柳徹子、オペラ歌手の佐藤しのぶが着用した衣装や、浅利慶太の舞台のために手がけた衣装なども展示。俳優の岡田茉莉子は衣装だけなく私服も森に依頼していたという。
森の制服への関心や、インド・中国との関わりを表す展示も興味深い。日本航空の制服をはじめ、学校や企業の制服を多数手がけた背景には、「着る人を応援したい」という森の思いと、キャリア初期からの仕事着への関心があった。
インドでは現地の布に魅了され、1969年に「HANAE MORI Made in India」コレクションを開始。中国では刺繍の技術をいかした「HANAE MORI Made in China」を1979年に発売した。森のファッション哲学と各地の伝統文化・技法への関心が、多角的な表現へと向かわせていたことがわかる。
展覧会は森を知る家族や友人へのインタビュー映像で幕を閉じる。開幕前日に行われた内覧会で、森の長男・森顕は「母がいつも言っていたのは、原点を大切にするということ。原点を見失わず、自分が何かをちゃんと持って、好奇心をどんどん発見していけば、良いファッションにつながるのではないかと言っていました」と回想した。森顕の妻である森パメラやその息子でアーティストの森勉も、森英恵のものづくりへの厳しさと周囲の人への愛情深さを愛おしげに振り返る様子が印象的だった。
戦後復興期から現代まで、時代の変化を先取りしながら創作活動を続けた森英恵。新宿の店から始まりニューヨーク、パリへと躍進した彼女こそ、自らが提唱した「ヴァイタル・タイプ」を体現した人物だった。故郷・島根で実現した回顧展で、その類い稀なる創造力と美意識、そして時代を切り拓いた生き様に触れてほしい。