道念邦子 撮影:編集部
道念邦子さんの作品を初めて知ったのは、金沢21世紀美術館の「開館20周年記念 すべてのものとダンスを踊って―共感のエコロジー」(2024〜25)の内覧会だった。1本の竹を丸ごと使い、長さを切り揃えて複数のキューブを作った《孟宗竹 キューブ》(1988/2024)、そして会場のパネルで写真を見た《房咲水仙》(1989)。その美しく凜とした姿に、一目で強く惹かれた。
同時に、キュレーターの長谷川祐子さんから、作家は金沢で活動する80歳の華道家で、美術館で展示するのは今回が初めてだと聞き、驚いた。また同日、金沢市内の空き家を使ったグループ展「消えつつ 生まれつつ あるところ」展(キュレーション:中森あかね、清水冴)でも道念さんの作品を見る機会を得、会場で購入した作品集『花 道念邦子』(2024)を開くと、“いけばな”のイメージを超えるようないけばなの数々に、ますます魅了された。その作品は、清廉で、意表をつく驚きに満ちている。そして森をわけ行って歩き、花と向き合って命を交わし合った、自然界と道念さんとの深い交歓の軌跡だった。
アートの視点から見れば、野外でのワイルドないけばなは、1960年代末のアメリカを中心に発展したランドアート/アースワーク、とりわけささやかな行為や身体の痕跡を感じさせるリチャード・ロングやアナ・メンディエタらの作品を思い出させる。また当時、日本においても前衛いけばなと現代アートが接近し革新的な表現を切り開いていた。
道念さんは1968年頃から、東京や金沢など様々な場所で個展、流展、グループ展、団体展などで作品を発表しており、こうした同時代の動きとももちろん無関係ではない。しかし本人も語るように、金沢を拠点にしていたこともあって、前衛芸術とはやや距離があったし、華道界の流派も飛び出して独自のいけばなを実践してきた、まさに「孤潔」の人だ。自分のなかの尺度と感性を、何より大事に仕事を続けてきたのだろう。
金沢21世紀美術館での展示を機に、その活動の場は少しずつ広がりを見せている。今年6月、建築家・妹島和世さんが監修したプラダ主催の「PRADA MODE 大阪」の一環として開催された瀬戸内海・犬島でのプライベートプレビューで、道念さんはいけばなのワークショップに抜擢。世界各地から集まった関係者やプレスと、特別な経験を共有した。また9月9日~10月13日には、妹島さんが館長を務める東京都庭園美術館の正門横スペースにて、特別展示「ランドスケープをつくる お庭を逍遥する」を開催。これまで様々な実績を重ねてきた華道家だが、その存在と仕事に、いまやっとアート界が、そして多くの人々が出会いつつある——。
そんないま、これまでの歩みと作品、自身のいけばなとアートの違いなどについて、話を聞いた。
——昨年、 金沢21世紀美術館の「開館20周年記念 すべてのものとダンスを踊って―共感のエコロジー」で道念さんの作品を初めて拝見しました。《孟宗竹 キューブ》(2024)、そして写真で紹介されていた《房咲水仙》(1989)も本当に素敵でした。
《房咲水仙》(1989)の水仙は、越前(福井県)の海岸沿いの崖地に自生していた水仙なんです。冬場の潮風に当たるせいか、とっても強いんです。茎を切るとトロトロと粘液が出てくるぐらい強い花なので、水なしの状態でも、こうやって長時間扱うことができました。越前で切っていただいたものを能登(石川県)の柴垣海岸へと運んでいけました。そこは私が幼い頃、両親と一緒に海水浴に行った遠浅の海岸です。本当に水も綺麗で、岩も綺麗。この空は北陸の空ですね。写真を見るとぼんやりして見えるかもしれないけれど、これが北陸特有の冬の空なんです。
——岩と空に挟まれた空間に、水仙が力強く凜とした美しさでそこにあり、とても印象的です。この場所でいけようと思ったきっかけは?
たいがい私の場合は、普段からお友達と一緒に神社やお寺に遊びに行ったりするなかで、空気が気持ちいいと感じた場所で花をいけたいと思うんです。陰影があったり清々しかったり、そういうところだと花も居心地が良さそうな感じがする。この海岸もそうで、私がかつていい気持ちを抱いた場所として思い出しました。カメラマンには、花と、その空気感、すべてを撮影してほしいと思いました。
——水仙が円形状に配されているこの作品も、同じときのものですか?
そうですね。これは、岩と水との関係性の中で、水仙の形をまん丸にしたかったんです。でも、そこに波が寄せては返して、どうしても正円にはならない。それが自然ではあるのですが、でも自然界にはない、まん丸の形を作りたいと思ってしまった。自然に逆らって、四角とか三角とか、どうしてもそういう形にしたいときがあるんですよ。
《孟宗竹 キューブ》もそうです。金沢21世紀美術館での展示のため、昨年9月に制作を開始しました。竹まるごと1本を使って、太いところから先っぽの細いところまでを切り出して、太さをそろえてキューブにする。切ったばかりのときは、青々としていて、切り口からじわじわ水が出るくらい新鮮。本当に竹そのものだった。でも、展覧会の会期が11月から3月までだったでしょう? 竹はその間ずっと変化し続けていました。色も変色しましたし、ちょっと割れた竹もあったりして。この展覧会は、そういう変化も含めて見ていただくものになりました。それに、いけばなは、この美術館の企画展示室ではそれまで展示されたことがなかった。途中で虫がわいたり、カビが生えたりするようなことは美術展では厳禁ですから。結果的に、最初の生々しい竹より、色が変化したあとのほうが、美術館の空間には合うような気がしました。不思議ですよね。変化をちゃんと見ることも大事なことなんだなと思って。
——いけばなは1日でも経てば少しずつ変わっていくわけですが、作品としての完成というか、「決まった」というタイミングはあるんですか?
私が「あ、もうこれでいい」って手を離したその瞬間が、ベストな状態だと思います。花は3日間ほど鮮度を保ちますが、その間もどんどん変化し続けていきますね。
——これほど美しくできた作品が、3日間ほどで変わってしまうことについては、どういうふうに思われているのでしょうか?
私はずっとこんなことばっかりしているので、惜しいという気持ちよりも、私が花をいけているということ、私自身と花が一体感を持てたときに、それで十分という感じがします。以前、お茶屋さんのアンテナショップでお花をいけるときに、その過程の状態を記録したんです。どういうふうに花と出会って、集めて……という。けれど、いけているときのことは記録にならないんです。何も考えてなかったな、と後で気がついて。いけている最中のことは言葉にしようがないんです。
——花との一体感というのはどういう感覚なのでしょう。「こうなってほしい」というイメージをもとにいけていくのでしょうか?
花にああしてほしい、こうしてほしいと期待しても、そうなりません。花には花の歴然とした形や色があって、それは変えられない。もし変えるんだったら、違う素材を使えばいいと思うんです。ですから、その花の持つ色と形、それだけは失いたくないなと思って仕事をしています。
《花仕事 一笑》(1998)はお茶屋さんのアンテナショップの茶房の中庭で、ワイヤーにチューリップの花先だけ挿しています。チューリップって、お日様のほうを向いてしなるんですね。暖かいほうにばぁーっと花開く。私はいわゆる伝統的ないけばなを習ってきたのですが、そのなかでは、チューリップの形を整えるために、茎の中にワイヤーを通して、そしてそのワイヤーを曲げることで、伝統的な形に従わせるということをしていました。ただ、ワイヤーが届いているところまでは人工的な形を作れるけれど、ワイヤーが届かない茎の上部から花先までのあいだはやっぱり動いたりするんです。どうしても形が崩れる。それでね、どうしてこんな無理なことをするのかな?という疑問が湧いてきた。結果的に、もういっそのことワイヤーに花だけいけるというこの作品を生んだんです。
——いけばなの作法や決まりへの疑問に、花と向き合うなかで自ら応えた。
そうですね。数日は保つ花だけど、そこには限界がある。そのなかで花らしくしたいと思うとこうなるんです。
——こんなに綺麗にいけられているのに、本当に短いあいだしかもたないのは、どうしても惜しいという気持ちがしてしまいます。でも、「花らしさ」を追求するなかで、作品ごとに様々な手の入れ方をされているのが面白いです。ただ自然に任せるということではなく、人工的に幾何学的な形にしようとすることもある。
そうですね。《水仙》(1989)は、水仙の花のところだけを使った作品なんですけど。これを蟻地獄みたいって言った人もいました。面白いですよね。
——これはどういった作品なんでしょうか。
金沢では昔から生活の中に宗教が根付いていて、いまはちょっと違うかもしれませんが、私の幼い頃は家庭のなかにもまだそういう匂いがプンプンしていたんですね。私は特定の信仰は持っていませんが、お花をするなかで、そうした宗教に根付いた形が気になった時期があって。私の家は浄土真宗という比較的自由な宗派だったのですが、曹洞宗という宗派では形を重視する。たとえば洗顔をすること、歯を磨くことなんかにも全部教えがあるんです。そういう、すべてに教えのある/形のある世界ってどんな世界なんだろうと思い、曹洞宗が提唱している座禅の世界にも足を運んでいました。この作品はそんなときに、形にこだわって作ったものです。花っていつも雨風やお日様のもとで育っているから自由なんですよね。それをあえて自由にならないように形のなかに収めた。上から見ると、きっちりとした二等辺三角形になっています。
——《孟宗竹 キューブ》は、その前年の1988年に初めて発表したんですよね。
そうです。那美画廊というギャラリーで展示したんですけど、ある石川県の偉い工芸家の方が初日に見に来られて、「あらら、まだ準備中だね。ごめんね」って言って、私が「いいえ」と返す間も無く去ってしまったことがあって(笑)。準備中と間違えられたくらい、こういう作品がいけばなだと思われる世界がなかった。
——現代から見ると、美術の彫刻作品のようにも感じられます。でも、道念さんはご自身の作品が「アート」ととらえられることには違和感があるのでしょうか。
そうですね。それはやはり違って、いけばなだと思っています。もちろんアートの世界でも植物を使う人はたくさんいますが、美術では、まず考えていることを元に材料を選ぶと思うんです。でも、私の場合は「竹」という材料がまずある。そもそも竹は、伝統的ないけばなでは器としてしか使わないんです。でも若いときは、こんな頑固なものに花は合わないと思ったし、美しいとも思えなかった。根っこを切ったところには丸い印がいっぱいあって、なんかすごいもの見ているような気持ちにもなるし、とてもこれに花を生ける気になれなかった。
そこで、いっそのこと竹そのもので何かができるようにしたいと思って、竹を扱うようにしたんです。見た目はしなやかで、草みたいだけども、実際切ってみると、部分によってはすごく硬くて手に負えない。そう思いつつも、やっぱり素材そのものの魅力があった。この作品は、そんなふうに竹で色々と展開しようとしていたときに生まれました。あくまでキューブの正四角形にこだわったけれど、どうしても自然のものだから、限界と向き合いながら作っていった。この仕事をするにあたって竹藪を案内してくださった方がいて、そのとき初めて入りました。竹藪のなかは、本当にかぐや姫の世界だわって思うほど別世界なんです。地面はふかふかしてるし、上を仰ぐと葉っぱのあいだから空が見える。私はそういう体験ができてよかったなと思います。
それに、私がいけばなをやっている原体験としては、幼少期に自然のなかで遊んだ経験が何より大きいんです。近くの公園に、ひとりで入るにはとても恐れ多い森があって、友達と一緒に連れ立って入ってみたんです。森を抜けると川べりがあって、その先に見える発電所までどうしても行きたいから、怖くてもその森を抜けていきました。恐れと、別世界へのワクワクを胸にしながら森を抜けたことが、大人になったときにもつながり、私がいけばなをするときにどうしたいかとも関係していると感じます。
私も自分がいけばなにこれほど長く関わるとは思っていなかったんですけれど、ただ花をいけるだけではなくて、その背景に自然界があるからこそ続くのだと思います。幼い頃、自然のなかで遊んでいるときは本当に機嫌が良かった。小学4年生で転居して、まったくのアスファルトとコンクリートの世界に住むようになってしまい、それ以降のことはあまり思い出したくないんです。そんな極端な体験があったからこそ、お花に向き合う人生が待っていたのかなと思っています。
アートとの違いという点で言えば、私の場合は花一輪をいけても、背景には自然界がある。そしてそういう感覚を持つ人は、世界共通でいると思います。ヨーロッパの人が禅の世界に憧れたりね。ですから、私のいけばなでは、花だけを見るのではなく、その背景まで見る、ということができたらいいなと思います。
——道念さんの作品を拝見して、何かすごく憧れるような感覚を持ちました。幼少期のお話や、自然とのつながりというお話を聞いて、その理由が少しわかった気がします。14歳のときに習い事としていけばなを始めたそうですが、その頃のいけばなは幼少期の体験とは結びついていなかったのでしょうか?
そのときはまだ結びつかなかった。全然別のことで「ヒャー」って驚きました。
——それはどういう驚きですか?
剣山と水盤というものがあって、そこに木の枝を刺すんです。そして木の枝は斜め45°くらいに倒さなければいけないのですが、中学生で体が未熟だったのか、全然うまくできない。それに正座なんかしてられないし、立ったり、立て膝になったり、剣山に収めるために七転八倒という感じ。それでびっくりしたんですね、全然思い通りにいかないぞって。たとえば学校で紙の上に絵を描くときは、鉛筆で描いたり、クレヨンで描いたりしますが、それらはもっと扱いやすいし、体との関係が優しいんです。いけばなは全然優しくない。「これがいけばななんだ」と思って努力しました。でも、そうした伝統的ないけばなとは違うほかの世界を知るようになってからは、やっぱり変わりました。変えましたし、変えたかった。もうちょっと自然な感じで、紙に絵を描くように、優しい感じで花もさせたらいいなと。そんな乱暴にしたりしないでね。まあ、竹を切るときはノコギリで切りましたけれど(笑)。
——道念さんは1968年頃から個展やグループ展などで発表を始め、70年代後半からはより自由なかたちのいけばなを発表されました。
そうですね。この時代に中川幸夫さんが活躍されていました。華道家元池坊に属していたけれど、途中から自分の花をいけるといういけ方に目覚めた方です。私たちにとって本当に画期的な花でした。まさに中川幸夫そのものという花を見て、「ああ、同時代に生きていてよかったな」と思いましたし、彼からの影響は大きいです。花の扱い方は別として、生き方としてね。誰もが私自身の花をいけていいと思わせてくれた。
——その頃は前衛的ないけばなと現代美術の関わりも盛んな時代ですね。
私は金沢にいたからか、そういう情報に疎かったですが、東京あたりでは1960年代ぐらいから前衛的なグループも成り立っていました。私も80年代あたりからちょっと遅れてそういう花に近づきました。もう勢いづいて、発表活動をよくしましたね。それまでは、いけばなの発表は流派ごとに縛られていました。しかし70年代頃から、いろいろな流派の人が集まって、自分の考えで作品が作れる団体ができたんです。それには、私も大いに参加しましたね。誰に評価されるわけでもなく、自分の考えで作れるということがとても大きなことでした。
——ウェブサイト『チルチンびと広場』で2018〜2023年に連載された「卓上のひとはな」についても聞かせてください。これらの作品は、タイトル通りそれほど大きなスケールではないけれど、身近にある様々な、そして「いけばな」としては意外に感じるような素材をも使ったシリーズで、写真で見るだけでもとても魅力を感じました。
私はいくつかの事情から、一度いけばなをやめようと思い、離れていた時期がありました。結局はまた戻ってきたのですが、当時その編集をしていた友人が「いいことを思いついた」って、この企画を提案し、最初は彼女が運営する彗星俱楽部という町家のギャラリースペースでお花をいけ、撮影しました。最初は「卓上」も「ひとはな」もよくわからなくて……でも徐々にそうしたかたちに収まるようになっていったかなと思います。
——《如月 2018》は、雪球に房咲水仙がいけられていて、とても清々しいです。
雪が降ると、この辺の子供たちはまず玉にして、投げやったりしますよね。私は雪や氷も時間性があるという点で、お花と同じだと思っています。冬は、まさに雪が花だわと思うぐらいに、積もった姿が本当に綺麗なんです。溶けていくと醜い面もさらすけれど、それも花と同じ。私の作品に、雪はときどき登場します。金沢では冬になるとみんな雪でうずもれるから、雪が花の代わりになってくれますよね。雪は、雪害をもたらすけれど、私には有害というより、想像力を高めてくれる存在です。
——《如月 2019》では羊毛を使っていますね。驚きましたが、とても愛らしいです。
このときは雪がなかったので、代わりに羊毛をちぎって、細かくして。ふわっとしたところに、上から物が落ちてきたら、沈み込むじゃないですか。その重みをそのまま表現しようと、きんかんを落としました。雪も上から物を落とすと穴が開きますし、そういうのは人為的なことだけども、ちょっと面白いですよね。以前、アニマルセラピーのバスツアーで、能登町の施設を訪問し、羊たちと遊んだことがあります。その元気だったときのことを思い起こしながら作りました。
——道念さんは半世紀以上、いけばなを続けてこられました。その時々でお花との向き合い方は違いますか?
やりたいことは違ってきますね。この年齢になると、何かをやりたいと思っても体力は足りないし、自分だけではできないことも多くなってきました。金沢21世紀美術館でも、チームを組んで一緒に制作しています。これからはそういうふうに、共同でできるものもいいなと思っています。
——花との1対1ではなく、みんなと作品を作る。
これまでお花をいけたことがない人にもいけてもらって、一緒に取り組んでいけたらいいですね。
——「PRADA MODE」の犬島でのプロジェクトでは、ワークショップをご担当されました。まさに活動が協働へと広がっていますね。コロナ禍を経験した2022年には、「旅が恋しくなって世界地図を拡げてみました」という言葉とともに《初春 2022》を発表されていますが、これから行ってみたい場所はありますか?
イタリアに行きたいです。その土地の環境と花は結びつきが強いですから、きっと石の国イタリアならではのいけばなができるのではないかと思います。ヨーロッパに行ったら、お花をいけるのは教会がいいかもね。
道念邦子
どうねん・くにこ 1944年石川県生まれ、同県金沢市在住。幼少期を父の転勤先である鳥取県米子市、富山県魚津市で過ごし、小学校3年までは白山麓石川県鶴来町で過ごす。1957年に古流いけばな教室に入門し、1967年に古流柏葉会生華広岡理魁・自由花広岡紫穂に学ぶ。1970年代より、伝統にとらわれない自由な花をいけることを目指し、およそ半世紀にわたり、金沢を拠点に作品を発表。個展・グループ展多数。
福島夏子(Tokyo Art Beat編集長)
福島夏子(Tokyo Art Beat編集長)