公開日:2025年7月7日

伊藤ガビンが見た「積層する時間:この世界を描くこと」(金沢21世紀美術館)。美術館でタイムトラベルのような

『はじめての老い』を刊行した伊藤ガビンが、絵画やドローイング等を中心とする展覧会をレビュー。会期は9月28日まで

ユアサエボシ作品の前にて 撮影:編集部(Xin Tahara)

石川県の金沢21世紀美術館で、「積層する時間:この世界を描くこと」が9月28日まで開催されている。「時間」と「描くこと」をテーマに、絵画や版画、アニメーション、映像インスタレーションなどを紹介する本展を、5月某日、編集者・大学教員の伊藤ガビンが訪れた。自身の体と心に直面する「老い」によるあらゆる変化をつぶさに綴った単著『はじめての老い』(Pヴァイン)を刊行したばかりの伊藤は、自身の身体を通して、本展でどのように「積層された時間」を体験したのか?  【Tokyo Art Beat】

*展覧会のフォトレポートはこちら

作品と対峙して感じた「目眩」の正体とは

金沢21世紀美術館で『積層する時間:この世界を描くこと』という、「描く」ことと「時間」を扱う展覧会が開催されている。

参加作家は、淺井裕介、サム・フォールズ、藤倉麻子、今津景、風間サチコ、ウィリアム・ケントリッジ、アンゼルム・キーファー、近藤亜樹、松﨑友哉、西村有、ゲルハルト・リヒター、チトラ・サスミタ、ヴィルヘルム・サスナル、杜珮詩(ドゥ・ペイシー)、リュック・タイマンス、ユアサエボシ。

この展覧会は「時間」を主題として扱っているが、集められた作家たちはタイムベースド・メディアを扱うばかりではない。これまで「時間」をテーマとしている、として扱われて来なかった作家も含まれている。ここに「描くこと」を時間ととらえるキュレーターの視線がある。

ペインティング作品にも時間が折り畳まれ、積層されていることは言うまでもないが、今回集められた作品群の「描く」はそうした意味ばかりでもない。モチーフや手法、作家の来歴など様々な部分を「時間」という紐で括り上げたようなキュレーションとなっている。

美術館を訪れた帰り道、目撃した作品たちを反芻すると激しい目眩を感じた。その目眩は決して不快なものではない。そのことについて書いていこうと思う。

チトラ・サスミタと今津景の作品がある「2.女性と神話:植民地化された土地」の展示室 撮影:編集部

たとえば今津景の作品。

デジタル画像のアーカイブからイメージを採取し、デジタル加工したものを下図としてキャンバスに油彩で描くという手法で知られる作者は、その特異な手法ばかりが取り上げられてきた。しかし近年はインドネシアを拠点とし、彼の地の神話、あるいは日本が過去にインドネシアで行ってきた蛮行の数々、現在進行系の都市開発や環境汚染などのリサーチが作品に取り込まれ、作品に「時間」や「歴史」というパースペクティブが生まれている。

会場風景より、今津景《Memories of the Land/Body》(2020) 撮影:来田猛

これが元来フラットなデジタル画像として一旦操作され、それが再び巨大なキャンバスに作家の手を持って転生するという複雑な構造を持って眼前に現れる。歪んだ時空に取り込まれるようだ。

今津景の作品の前にて 撮影:編集部

杜珮詩(ドゥ・ペイシー)の場合にも、デジタルによるアーカイブ画像のコラージュが制作の工程にある。今津同様にここでも、植民地支配や虐殺など凄惨な過去が現在と接続されている様が描かれる。カラフルで、牧歌的なアニメーションのトーンで、おぞましい光景が展開される様から目が離せなくなる。アニメーションというシーケンシャルな時間軸を持った形式の中に、画面上にも、時間軸上にもコラージュされた歴史の断片が散りばめられると、それを見ている側の脳内に新たな「時間軸」が生成されるようにも感じられる。

会場風景より、ドゥ・ペイシー《玉山の冒険5(ミシェル・フーコーから輝かしい未来へ)》(2011) 撮影:来田猛

いっぽうで、メディアの中のイメージを取り扱った作家も取り上げられている。

ヴィルヘルム・サスナルの作品《ベネズエラとコロンビアの国境》では、2019年にコロンビアからベネズエラに入る高速道路を封鎖したコンテナ数個の報道写真を元にしたペインティング作品である。明るい色調の爽やかな作品だが、これはベネズエラが、米国からの介入に抵抗する事件がモチーフになっているという。作家は時に熱帯雨林が消失したニュース映像のいち場面を荒々しい黒で描き、家族の何気ないポートレイトを元に繊細に筆を走らせる。歴史や世界情勢や家族との暮らしという作家の網膜に映った時間を追体験するような時間となっている。

会場風景より、ヴィルヘルム・サスナル《ベネズエラとコロンビアの国境》(2019) 撮影:来田猛

歴史ばかりが「時間」ではない。

西村有が描くのは、「日常の何気ない風景や人物」である。

《scenary passing (out of town)》という作品は、一見すると「なんでもない郊外の風景」に見える。しかし画面に反射する光を意識した時、それが電車の車窓からの眺めであることに気がつく。絵画の額縁とは、世界を覗く窓であり、車窓はあちらとこちらを切り離し、観賞を可能にする装置として言及されてきた。西村の描くこうした光景は「なんでもない風景」を繊細な操作で再度「なんでもない風景」化する。いま目の前を通り過ぎゆく時間から、一歩後ろ側に飛び降りるような視線がある。

会場風景より、西村有《scenary passing (out of town)》(2018) 撮影:来田猛

さて誰がどう見ても「時間」を扱っていると感じられる作品ももちろんある。

ウィリアム・ケントリッジによる『時間の抵抗』という大規模なインスタレーション作品は、メトロノームの映像から始まる。

空間中央にエレファントと呼ばれる巨大な木製装置が会場全体を動かす動力装置のように、あるいは呼吸器のように動き、周りを映像が取り囲む30分に及ぶ大作だ。

この作品には明白に始まりと終わりがあり、インスタレーションと呼ぶより、生身の人間が登場しない演劇作品、あるいはダンス作品と呼ぶ方が正確かもしれない。

会場風景より、ウィリアム・ケントリッジ《時間の抵抗》(2012) 撮影:来田猛

モチーフとなっているのは、タイトル通り「時間」である。映像内で扱われる「舞台装置」には、古めかしい科学の道具、すなわち観察の道具、計測装置がある。時間の存在や同時性について、作者の独自の解釈がすすんでいく。その間、中央のエレファントは、休むことなく動き続け、時を前へ前へと進めていく。

いくつかの作品を例に、この展覧会における「時間」の扱いの多様さに触れてきた。これ以外にも、風間サチコの『ディスリンピック 2680』は国威発揚イベントとしてのオリンピックのいびつさを強烈に風刺しており、万博開催中に見るにふさわしいものであるし、架空の画家ユアサエボシの各作品は、架空の歴史と歴史改ざんの可能性との狭間という落とし穴に見るものを落とすようなスリルがある。

ユアサエボシ作品の前にて 撮影:編集部

また、「歴史」そのものと対峙しつづけてきたキーファーやリヒターという大御所の作品も、このテーマでの展示にかかせないものとして据えられているのであろう。

さて、冒頭でわたしは、展覧会を見た後に激しい目眩を感じたと書いた。それはつまり、多様な「時間」の取り扱いをいっぺんに見ることで「時間酔い」のような状態になったということだ。

アンゼルム・キーファー作品の前にて 撮影:編集部

「時間」を扱う作品を眺めるとき、人は時間の外側に立たされることになる。それ自体はタイムリープものの映画を見るような楽しさがあるのだが、連続して別のトポロジーを見続けていると、自分の戻る場所があやふやになってくる。ドラえもんでもなんでもそうだが、タイムトラベル中のシーンの歪んだ暗闇は恐ろしい。

展覧会を通して、あちらこちらに存在するそれぞれの「時間」をみて、あのタイムトラベル中の暗闇に取り残されたような気分になったのだ。さらにいえば、金沢21世紀美術館の丸い空間を歩くたび、自分自身が時計の秒針になったような気分になる。それが「時間酔い」に拍車をかけた。

近藤亜樹作品の前にて 撮影:編集部

描画の再生装置としての絵画

ところで、展覧会のタイトルは「積層する時間:この世界を描くこと」となっている。

絵画において描くことは、絵具を重ねる=積層させていく行為である。

その結果、絵画の表面ができあがる。

我々は図録などで、こうした絵画の表面を写真にとらえたものを作品のイメージとして扱っている。そして、これまでイメージとして十分に咀嚼してきたつもりの作品を目の前にして、震えることがある。それが実物の持つアウラと言ってしまうことは簡単だが、わたしの場合それは「実物を目にすると、それが描かれた時間が再生されてしまう」ことで改めて驚くことが多い。

絵画の実物には実物大の筆の軌跡があり、見た瞬間、自動的に画家がそれを描くストロークが自動再生されてしまう。作家がそれを描いている様が脳内に再生されて止まらなくなる。停止ボタンは効かず、絵画から脳に一方的に伝達されてしまう。つまり、絵画を、描画の再生装置のように見ている。

作品を見ると、そこに塗り重ねられた断面が見えてくる。

リュック・タイマンス作品の前にて 撮影:編集部

最近わたしは『はじめての老い』という本を出版した。これは自分の身に次々とプッシュ配信されてくる「老い」というコンテンツを日記のように記録したものだ。この記録を通して気付いたことのひとつが、「老いとともに時系列がどうでもよくなる」という感覚だった。

ある年齢を過ぎると、それが5年前のことなのか、それとも10年前のことなのかよくわからなくなってくる。どちらも「ちょっと前」という同じ引き出しに入ってしまって、その厳密な前後関係に対する興味が薄くなってくることは、多くの人が語っている。

若い頃は、そうした記憶の前後関係があやふやになることにネガティブな印象を持っていた。しかし、いざ自分の身に降り掛かってくると、これはそう悪くない感覚だった。記憶の前後があやふやになるという状態は、私的なタイムマシンに乗っているかのような、時間の断面を見るような面白さがあるように思う。

この展覧会のテーマである「積層された時間」を見るためには、その断面を見る必要がある。個人的には、いまわたしが感じている、時間の断面を見るような感覚が、この展覧会にはあるように感じた。展覧会場には、土を使った淺井裕介の巨大な壁画がある。露呈した断面のような作品だ。

この展覧会はテーマとして「積層する時間」を掲げたことで、見る人の視線を断面へと誘っているのである。大いに時間に酔ってほしいと思う。

淺井裕介作品の前にて 撮影:編集部

伊藤ガビン

伊藤ガビン

編集者、京都精華大学メディア表現学部教授。1963年 神奈川県生まれ。学生時代に(株)アスキーの発行するパソコン誌LOGiNにライター/編集者として参加。さまざまな特集企画を編集する。1993年にボストーク社を起業。編集をベースに、ゲーム制作、展覧会のプロデュースなどに従事する。