芹沢銈介 日本民藝地図(現在之日本民藝)(部分) 1941(昭和16) 日本民藝館蔵 撮影:来田猛
特別展「民藝誕生100年—京都が紡いだ日常の美」が、京都市京セラ美術館で開催されている。会期は12月7日まで。
近年、民藝関連の展覧会が増えている。2021〜22年には「民藝の100年」(東京国立近代美術館)、2024〜25年には「民藝 MINGEI—美は暮らしのなかにある」(名古屋市美術館ほかに巡回)。2025年4月〜7月アサヒグループ大山崎山荘美術館では「つながる民藝 縁ぐるり —山本爲三郎コレクションより」が開催された。各地の民藝関連館でも、柳宗悦没後60年、民藝という言葉が生まれて100年のアニバーサリーイヤーに合わせた展覧会が企画されている。
今展では、そのルーツにかえり、民藝運動が生まれた地である京都で、民藝がどのように受容され、どんな作り手が育ったのかをたどる。“京都目線”から見る「民藝と京都と100年」は、これまでの民藝観をちょっと変えるかもしれない。
思想家の柳宗悦は、1923年関東大震災で被災し、翌年に京都へ転居。約10年にわたって居住した。東寺の弘法市や北野天満宮の蚤の市で、「下手物(げてもの)」(高級な工芸品ではない民具)の収集を始め、1925年に「民衆的なる工芸=民藝」のコンセプトを社会運動として展開した。
この「民藝」の発案に先んじて、柳は陶芸家の河井寬次郎、濱田庄司と、当時は知る人ぞ知る民間仏だった木喰仏(もくじきぶつ)の調査旅行に出かけている。いわば民藝運動への背中を押したともいえるのがこの木喰仏。のどかなお顔立ちの仏像たちが、展示の序章に紹介される。
柳宗悦は、民藝という言葉を使う以前に、高級な工芸品=上手ものに対して日用の民具を、「下手物」と呼んでいた。その「下手物」に柳が初めて遭遇し、面白みを感じたのは、墓参りでタワシを見た時だという。なんと柳は、それまでタワシのような庶民の日用の品を見たことがなかったのだ。
柳の上流階級育ちっぷりが伝わるエピソードだが、その彼が、日本各地の生活の民具の調査と収集に熱中した心境が想像できるようだ。地方の庶民の暮らしぶりと道具、柳にとっては未知の(未開の)世界との遭遇だっただろう。さらに、そうした器物を求めて選ぶ自分と、それを作った工人とのあいだには当然のように、とてつもなく大きな階級差意識があった。「民」の暮らしへの共感や敬意があったのかというと、疑問は残る。これは民藝運動を知るうえで、押さえておきたいポイントだ。
ちなみに柳は、蚤の市では、品に手を触れずにステッキで指して値段を聞き、収集した布製品の洗濯は妻任せだったという。
2章「三國荘〜最初の民藝館」、3章「式場隆三郎と自邸」は、民藝作品で飾られた住空間の実例が紹介される。三國荘は1928年、東京・上野公園で開催された御大礼記念国産振興東京博覧会の「民藝館」として展示されたものを、アサヒビールの初代社長・山本爲三郎が買い取って大阪の三國に移築したものだ。和風、洋風を折衷したインテリアの中に、朝鮮風のデザインの民藝作家の作品も配置した空間は、いま見ると、相当にブルジョア的だ。民藝には「器物は日用に使われてこそ」というモットーがあるが、民藝の器物と空間を受容したのは、アッパークラスの人たちだった。
4章は「日本全国の蒐集」。日本民藝館の所蔵品が展示される。多くが柳自身の目を通して収集されたものだ。柳は民藝を「工人が無心でつくった無作為、無銘の、素朴な量産品」と規定したが、法被の大胆な菊紋や熨斗文様、奇抜なデザインの霰釜などを見ると、素朴というより、気品とユニークさに目を引かれる。
柳は「無学な職人達に美を解せよと云ふのは無理ではないか」(『民と美』)「彼等自らの力がそれ(素晴らしい作物)を産んだのではない。他力に助けられて様々な不思議を演じたのである」(『工芸文化』)と書いたが、これほどの創造は、熟練の作り手が意識的に美を求め、創意工夫を凝らした成果としか思えない。
これらの蒐集は、あまたある道具の中から、優品を選び抜いた柳の類稀な目利きと、品に注ぎ込まれた工人ひとりひとりの技と美意識とが、他力ではなく、お互いの自力で出会った結果。そう考えるほうが、フェアだろう。
5章「民藝と『個人作家』」には、河井、濱田、富本憲吉、バーナード・リーチ、黒田辰秋、芹沢銈介、棟方志功の作品が並ぶ。
柳は「無銘、無作為に作られるものの中に美が宿る」と民藝を規定していたが、その考えと、民藝運動に賛同していた個人作家の活動とは、どうしても矛盾がある。河井寬次郎は、民藝からは後に距離をおき、木彫、エッセイと様々なジャンルで、作品にのびのびと内的な宇宙を開放した(生涯、作品に銘=サインは入れなかった。しかし箱への署名はおこなっている)。
6章「民藝と京都」。京都と民藝を語るうえで、いくつかのキーワードがある。
ひとつが、上加茂民藝協団(第1章に紹介される)。上賀茂は京都の北東に位置する地域で、木漆工の黒田辰秋、染織の青田五良らが、「新作民藝の制作集団」を結成し、ここで共同生活を営んだ。柳の「中世のギルドこそが、美しい器物を生み出す理想社会」というユートピア的な思想に鼓舞されたしたものだが、まだ未熟な彼らが制作しながら自給生活で生きてゆくのは困難が大きく、協団は2年余りで解散した。
柳の理論は崩壊していたが、それでも民藝に触発された作家たちは、京都でサバイブできた。彼らは京都のパトロン文化に助けられたところが大きい。
江戸の昔から、京都の富裕な旦那衆の遊びの「飲む、打つ、買う」の「買う」は、美術工芸品の収集だった(という人もいる)。富裕なコレクター/サポーターにとって、民藝は、若き才能が情熱を燃やす、新時代のモードな表現だったのではないだろうか。
短期間に終わってしまったものの、上加茂民藝協団は、毎日新聞の岩井武俊が展覧会を開催し新聞を使って広報して支えた。呉服屋の老舗・千切屋の西村大次郎は西村書店を設立し、河井寬次郎の言葉をおさめた書籍『火の願ひ』を刊行。北白川の山口書店創業者の山口繁太郎は、棟方志功の初めての随筆集『板散華』を刊行。棟方に京都での拠点を提供した。
いまも京都に残る民藝建築には、陶芸家・建築家の旧上田恒次家邸住宅、評論家の保田與重郎邸、十二段家、松乃鰻寮などがある。どれも贅を尽くした美しい建築で、民藝に賛同し、それをライフスタイルに取り入れることが彼らの誇りだったことが、強く感じられる。
柳宗悦は、器物への強い感情移入を宗教的な高揚感にまで高めた人で、それゆえ追随者、信奉者から教祖のように神格化されるのだが、京都での柳のイメージはどうだったか。
この展覧会での柳の姿は、京都神楽坂の自宅での宴会、十二段家でしゃぶしゃぶを、鍵善でくず切りを食べている写真の中に、控えめに登場する。民藝「教祖」の食卓シーンは微笑ましい。
実際、京都での民藝は、食とともに定着し、民衆に親しまれたところがある。
祇園の「十二段家」は、しゃぶしゃぶの発祥の地と言われ(「火鍋子(ホーコーツ)」で食べるモンゴル風の羊の水だきを牛肉で改良した)、河井寬次郎に技術を伝授された陶芸家・上田恒次が改装を手がけ、民藝同人がここでよく会合を開いた。和菓子店の「鍵善」は、十二代目の今西善造が、まだ若かった黒田辰秋に店の大棚などの什器、螺鈿のくずきりの器を注文。河井寬次郎とも交流し作品も収集している。ブランジェリー「進々堂」の創業者・続木斉は、1930年開店の進々堂 京大北門前のカフェに、黒田に長机と長椅子を注文している。洛北・木野の「松乃鰻寮」は、上田恒次に設計を依頼した、風格ある民藝建築の鰻屋だ。
どの店も、民藝作家をサポートしながら、結果的に、それをブランディングに活かしている。
「京都の人たちにとって、民藝は大したことじゃなかったんだね。ほとんど歯牙にも掛けなかったのではないでしょうか」。京都生活工藝舘 無名舎主宰の吉田孝次郎は会場内で上映されているインタビュー映像の中で、こう語る。
京都では、工芸が産業として長い歴史を持ち、多くの職人が様々な階級の用途に応じた品をつくり、時代時代の変遷に応じた美しさを編み出してきた。そこに、過去の器物を参照して「工芸の正しい美」「美よりも用」を訴える柳宗悦の理論がインパクトを持つ余地はなかった。ものづくりの都・京都は、柳の民藝の理論よりも、民藝からエッセンスを吸収し、活躍した作家たちのクリエイションに、より大きな値打ちを見出し、それを育てた。
なお、京都民芸資料館では、「秋季特別展 京都と民藝」を開催中。合わせて立ち寄ってみてはいかがだろうか。