日本の写真史においてその名を残す写真家、安井仲治(1903〜42)。その20年ぶりとなる大個展が、10月6日〜11月27日に愛知県美術館で開催される。その後、12月16日〜2024年2月12日に兵庫県立美術館、2024年2月23日〜4月14日に東京ステーションギャラリーに巡回予定。
10代から関西の写真シーンで頭角を現し、38歳の若さで病没するまで旺盛な活動を見せた安井は、生前から高く評価された。戦後しばらくは評価が下火になるものの、その後再評価が進み、土門拳や森山大道といった写真家からも賞賛を受けた。
本展は、戦災を免れたヴィンテージプリント約500点とネガのコンタクト約3800シートの調査を経て、ヴィンテージプリント140点、モダンプリント60点の合計約200点が展示される。企画は、中村史子(愛知県美術館学芸員)、小林公(兵庫県立美術館学芸員)、若山満大(東京ステーションギャラリー学芸員)。
Tokyo Art Beatによるキュレーター陣への事前取材(近日公開予定)で、「これほどまとまったかたちで作品が並ぶのは今回が最後になるのではないか」と小林が語るように、安井の初期から晩年作までを展覧できる貴重な展覧会だ。
安井仲治は1903(明治36)年に大阪に生まれた。実家は洋紙店を営む豊かな商家で、明星商業学校在学中に親からカメラを買い与えられたことで、その後、写真家としての道を歩むことになる。学校卒業後は家業の洋紙店で働きながら、趣味として写真を続ける。
安井は早熟な芸術家だ。10代末に関西有数の歴史と伝統を誇る写真同好会「浪華写真倶楽部(なにわしゃしんくらぶ)」に入会し写壇デビュー。20代半ばには関西の写真シーンで一目置かれ、スター作家かつ指導的存在として活躍した。
展覧会は、まだ10代だった安井の作品からスタート。《分離派の建築と其周囲》(1922)は、東京旅行中に上野で開催された「平和記念東京博覧会」の動力機械館を撮影したもの。初期の安井は、本作のようなソフトフォーカスによるピクトリアリズム(絵画主義)的な作風が印象的だ。
印刷技法にもこだわりをみせ、たとえば《クレインノヒビキ》(1923)はピグメント印画の一種であるブロムオイルによって、独特の表面を生み出している。
《猿廻しの図》(1925/2023)は、旅芸人とそれを見る人々の社会的階層の違いをも鋭利に写し出し、安井の卓越した観察眼を世に知らしめた。
1927年、安井は銀鈴社という写真家のグループを立ち上げ、さらに精力的に活動を重ねていく。安井が若者として過ごした時代はまさに「大正デモクラシー」の時代。近代化する日本の都市風景と、そこで生きる人々へとそのカメラは向けられた。
自身は経済的に恵まれた身であったが、《猿廻しの図》の旅芸人や、都市の成長を陰で支える労働者、デモ隊など、社会的に厳しい立場に置かれたり、周縁化された人々も、安井の関心をとらえた。こうしたまなざしは、のちの朝鮮半島出身の人々が暮らす集落を写した作品や、「流氓(るぼう)ユダヤ」シリーズへとつながっていく。
また当時の写真界では、「芸術写真」から「新興写真」と呼ばれる表現へと潮流が移り変わっていった時代でもある。安井は「新興写真」から大きな影響を受けながらも、そこには収まりきらない独自の作風を模索していた。
ところで、「安井仲治」と聞いて、その代表作が思い浮かぶ人はどれだけいるだろうか? じつは安井の写真家としての特徴として、ひとつの作風にとらわれず、様々な技法に取り組みスタイルを次々と変化させたという点がある。ピクトリアリズムに影響を受けた初期から、社会の不平等や戦争へと向かう世界をまなざしたルポルタージュ的写真、新興写真、そしてシュルレアリスムから影響を受けた作品までじつに多様だ。
同時代を生きた写真家・田中雅夫(1912〜1987) も、安井には代表作があるのかと首を傾げる。
「何を以て君の代表作とすべきか。さうなると一寸私は迷ふ。皆相当の立派な作品だ。一点飛び離れて一世を驚倒せしめた底のものは思ひだせない。君は小悧巧な天才ではない。非常に偉大なる凡才だ」(*1)。
こうした特定のジャンルや作風にとらわれない安井の作品を紹介するのが、本展の中盤だ。
1930年代には、道端にあるものや日用的な道具を撮影した静物や、小さな虫などを撮影した写真が多い。この時期に安井が弟と妹、そして次男を相次いで亡くした経験が、「カメラを蛾や犬のように小さな生き物たちに向かわせたのだろう」(*2)と本展では説明されている。
また1932年に「半静物」という言葉で安井が語った、「撮影場所で静物を即興的に組み合わせる手法」(*3)が、1930年代の中心的なテーマとなる。この傾向の先行例である《斧と鎌》(1931)は魅力的な1作だ。2つの道具の柄が生み出す斜めの直線と、階段による効果で生まれたジグザグの影。抽象的な画面はシンプルだが力強く、いっぽうで軽やかでもある。もともとは写真に撮る気もないまま、斧と鎌の配置を置き換えているうちに気持ちが乗って、撮影に至ったそうだ。作者による作為が確かにあるが、それが押し付けがましくなく、軽やかな遊び心を持って感じられるこうした作品が、個人的にはとても印象に残った。
《海浜》(1936/2004)も写っている要素は多くないが、灯台が斜めに傾いたように見える構図と籠、人影の様子が崩壊へと向かう不穏な雰囲気を醸し出している。本作は浪華写真倶楽部の展覧会で発表されると、模倣者が続出するほど周囲にインパクトを与えたそうだ。
展示ではその後、よりシュルレアリスムに接近した写真が紹介される。
展示の後半は、日中戦争から太平洋戦争へと向かう頃の社会を反映した写真が並ぶ。
安井と丹平写真倶楽部による「流氓ユダヤ」シリーズ(1941)は、杉原千畝による「命のビザ」によってホロコーストから逃れ、神戸に到着したユダヤの人々を撮影したものだ。
同じく1941年には「上賀茂」と「雪月花」の連作を発表しているが、翌年、日米開戦の3ヶ月後である1942年3月に安井は38歳の若さで病没した。
本展では、安井が晩年に語った、松尾芭蕉の「不易流行」という言葉が紹介されている。不易とは「変わらざる事」で不変の本質を指し、「流行」とは絶えざる変化を指す。このふたつを等しく重視した安井のまなざしがとらえた写真は、100年後のいまなお、普遍性と新鮮さを持って観る者を魅了するだろう。
*1──田中雅夫「思い出の名作アルバム・2 安井仲治作品」『カメラ』1949年9月号
*2──本展図録「中井仲治作品集」、河出書房新社、P78
*3──同上
福島夏子(編集部)
福島夏子(編集部)