古市憲寿 奥:川田知志《ゴールデンタイム》2024-25(部分)
現代美術から新たな側面を引き出すグループ展「MOTアニュアル」の第20回となる展覧会「MOTアニュアル2024 こうふくのしま」が、東京都現代美術館で3月30日まで開催中だ。清水裕貴、川田知志、臼井良平、庄司朝美の4名のアーティストをその最新作とともに紹介している。
展覧会タイトルにある「しま」には、4名の参加作家が拠点を置く「日本」の地理的条件に対する再定義が含まれているという。私たちの足元を形作る地形を、ほかの陸地から切り離されたものではなく海の下で地続きにつながっているものとしてとらえ直すという視点が込められている。
本記事では、展覧会を鑑賞した社会学者の古市憲寿に本展担当学芸員の楠本愛(東京都現代美術館)が話を聞いた。『絶望の国の幸福な若者たち』などの著書を通じて現代社会を論じてきた古市。同世代でもあるふたりが社会の分断や現代の若者、美術の持つ可能性などについて語り合う。【Tokyo Art Beat】
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楠本:展覧会を見る前に「こうふくのしま」というタイトルを聞いてどんなイメージを持ちましたか。
古市:幸せな家族や恋人をテーマにした展覧会なのかなと思ったのですが、いい意味で期待を裏切られました。むしろ「島」の印象が強かったですね。「幸福」というものが多義的で、ある面から見たら幸福なものが、違う面から見たら不幸というのは、寓話を含めてよく語られますよね。じつは「島」もそうなんだとはっとさせられました。「島」を通して風景や人間の表裏といったものの二重性が感じられて、とても面白かったです。
楠本:いま私たちが「日本列島」と呼んでいる島々は、海によってほかの島や大陸から孤立していると考えられていますが、氷河期には大陸と陸続きだったということがわかっています。そんなふうに周りから切り離されたように見える地形を海底では地続きにつながっているものとして想像してみることはできないか。そうすることで境界があいまいな重層的な世界が浮かび上がってくるかもしれない。そんな思いもあってこのタイトルになりました。
古市さんは展覧会を見た日(2025年1月24日)に「孤立しているような島でさえも、海の下では繋がっている。とにかく分断ばかりあおられがちな時代、とても居心地のいい空間でした。」とXに投稿されていました。ほかの陸地から切り離された地形としての島は、確かに私たちの身近な世界に広がる様々な分断を想起させます。いま社会に広がっている分断についてはどのようにお考えですか。
古市:分断は多様な意見を表明する回路が確保されているからこそ起こるものだと思うんです。たとえば民主主義国家で選挙をしたら、49対51はありえても、100対0になることはありえないですよね。分断による混乱がないのはある種、独裁国家だけで、日本のような民主主義の国では分断は受け入れざるをえない。いまSNSでもいろんなことが議論されて分断が起きているように見えるけれども、幸いなことにまだ日本では露骨な武力闘争には発展していない。分断が起きた後にそれを再修復して、人と人が手を取り合ってもう一度調和していく過程こそが大事だと思います。それを考えるうえでも「島」はヒントになると思いました。日本列島だけを見ても数え方によっては1万以上の島があり、一見分かれていても海の下では文字通りつながっている。それはこの時代において救いになる思想だと思いました。
楠本:古市さんはマスメディアだけでなくSNSでも積極的に発信されていますが、じつは私はテレビをほとんど見ないしSNSも使っていないんです。SNSは個人、とくに弱い立場に置かれた人が発信できる手段になるいっぽうで、デマや誹謗中傷はもちろん、何気ない意見であってもそれが増長されると暴力的なものになりうると感じて、距離を置いてきました。そんな私にとってSNSの世界はまさに「水面下にある見えざるつながり」であり、目を背けてきた現実のひとつでもあると考えています。現実の一部として社会への影響力を拡大し続けているSNSという手段や空間をどのようにとらえていますか。
古市: SNSはやらないほうがいいと思いますよ、そんなにいいことはないので(笑)。最近はとくにSNSの負の側面が議論されていて、規制の動きもありますよね。ただ、そもそも世の中を撹乱させてきたのはSNSだけなのかな、とも思うんです。たとえば書籍はまさにその筆頭で、1486年に出版された『魔女に与える鉄槌』という本が、ヨーロッパでベストセラーになりました。魔女狩りを正当化する本です。活版印刷技術という新しいテクノロジーによってヨーロッパの各地でこの本が読まれて、魔女狩りが広まった。人類はいつも新しいメディアとの付き合い方に翻弄されてきたんです。SNSもつねに称賛も批判も過剰にされてきましたが、結局はどう付き合っていくかを見つけるしかないと思うんです。
ただ、オルタナティブとしての文学やアートの役割も重要になっていると思います。世の中と遮断された空間でアートを見るって、すごくスローな体験ですよね。時間をかけて美術館に行って、ゆっくり作品を見る。めちゃくちゃな速度で情報が更新されて、嘘も本当もわからないSNSの空間ではなく、いかに人々がスローな空間、落ち着ける場所を確保するかを考えたほうが、社会はより豊かになるのではないかと思います。
楠本:私が古市さんを知ったきっかけは2011年に発表された『絶望の国の幸福な若者たち』でした。「社会のために何かしたい」と思いつつも「今日よりも明日が良くなる」とは到底思えない状況で「身近な人々との関係や小さな幸せを大切にする価値観」が若者のあいだに広まっているという分析に、同世代の当事者として共感しました。現在の若者についてはどのように見ていますか。その後、2015年に出された文庫版のまえがきでは「もう二度とこのような本(若者論)を書くことはできないだろう」と書かれていましたが……。
古市:いまは、僕が本を出した2011年頃よりも、10代、20代の人口がさらに減って、必然的に若者の価値が上がっていますよね。新入社員を採りたくても人が来ないから初任給も上がったりとか。昔は若者バッシングがたくさんありましたけど、いまはむしろ若者が称賛される機会が増えたと思います。
とくに「Z世代」という用語の使われ方は、若者論の歴史を振り返っても画期的だと思います。若者自らが肯定的に「Z世代」を名乗りますよね。そこには「Z世代以外お断り」みたいな含意があったりする。いっぽうで実際の若い人たちのメンタリティや価値観の変化はグラデーションだと思うんです。たとえば戦前世代と戦後世代には劇的な価値観の断絶がありますけど、現代では世代差よりも情報環境の影響が大きい気がします。InstagramやTikTokを見ていればもはや地域差もほとんどない。むしろ日々何を見て何を見ないのか、そういう情報環境の差のほうが大きいと思います。
楠本:『絶望の国の幸福な若者たち』が書かれた2011年から14年が経ち、社会のなかで大きく変化したこともあれば変わらないこともあると思います。いまの社会が抱える様々な課題のなかで気になっていることはありますか。
古市:みんながすごく忘れやすくなって、過去を顧みることがないのは気になっています。たとえば新型コロナウイルス時代の日本は法律的な制限ではないとはいえ厳しい対策をして、社会の緊張感や自粛を求める声は諸外国と比べても強かったと思います。ただ、それが正しかったかという検証は本格的にはされていません。僕自身が関わった委員会はありますが、コロナ時代の最中の開催だったうえに、ごく短期間で終わってしまいました。たとえばアジア・太平洋戦争に関しては膨大な検証がいまも続いているのに、世界中を巻き込んだコロナの3年間に対して、ただ通り過ぎるのがよしとされているのはすごく違和感があります
楠本:そうですね。美術館もやむをえず休館したり入場制限をしたり、大きな影響を受けましたし、いわゆる「アフターコロナ」に向けての議論もされていましたが、いまでは「アフターコロナ」自体ほとんど聞かれなくなっています。それでもあの時期に東京都現代美術館に足を運んでくださった方々にとって美術館がどのような場所だったのか。息苦しいところだったのか、安心できるところだったのかということは、あらためて考える必要があると思います。美術においても膨大なアーカイブのなかから何を引き出し、どのように語り直していくのか。過去の忘却に抗い、語りを紡いでいくことはこれからの大きな課題です。
古市:忘却には2種類あると思います。たとえば戦後の平和条約のように、お互いが行った悪いことを一旦忘れるふりをするような意図的な忘却は、平和にとって大事なこともあります。でも、形としての忘却ではなく、本当に忘れてしまうこと、つまり「忘れたことさえ忘れる」という状況をどう考えればいいのか。たとえば最近のイスラエルとパレスチナ問題において、イスラエルを批判するのはわかります。でもイスラエルのネタニヤフ首相とヒトラーを並べたミームのような形で、果たしてユダヤ人とナチスドイツのヒトラーを無邪気に並べていいのかと考えてしまう。そういう葛藤がなくなって本当の忘却が起きた後、社会はどうなっていくのか。それはひとつの関心事ですね。
歴史を語ることはつまるところ取捨選択だと思うのですが、とくに現代は映像や写真や言葉がすべてアーカイブされて残っていく時代です。取捨選択の幅がすごく広がるなかで、膨大なアーカイブとともにどのように歴史は語られるのか、もしくは語られるべきではないのかということには興味があります。生成AIが即興でアートや文章を生み出すように、歴史もその場で「生成」されやすくなる時代になるのかもしれませんね。膨大なアーカイブを組み合わせれば、偽史とは言えない範囲で、いかようにも歴史が語れてしまう。そのなかで、国家としての歴史、世界としての歴史を語ることはますます困難になっていきそうです。
楠本:本展の開幕と同時期の2024年12月に出版された『昭和100年』という古市さんの本を読みました。『昭和100年』の中で、「幕間」という章では戦後100年にあたる2045年の日本社会の未来予測がなされていたり、別の章では1990年代に日本が方向転換をしていたらこんな社会になっていただろうという仮説が示されていたりします。『絶望の国の幸福な若者たち』では「せいぜい自分と自分のまわりくらいにしか想像力が及ばない」とご自身のことを書かれていましたが、身近なところから社会へという想像力の広がりについては何かきっかけがあったのでしょうか。
古市:関わる領域や人が広くなって、自分のポジショナリティについて考えるようになったんです。僕は大学に属する研究者ではないし、専業の作家やテレビタレントでもない。立場が複数あるので、何事も自由に言いやすいことは意識しています。「昭和」という大きな主語でいろんなことを書いたのもそれが理由かもしれません。僕は世代的にも立場的にも橋渡し役の立場だと思うんです。昭和生まれで平成の温度感も知っていて、SNSのことも体感としてわかってはいる。だから『昭和100年』で、昭和と未来の両方を書こうと思ったのかもしれないですね。
あと、100年という時間も面白いですよね。100歳まで生きる人は増えていても、100年間を克明にすべて覚えている人はいないわけで、世代がそっくり入れ替わる時間だと思うんです。にもかかわらず「昭和」がまだ残っているなら、それをどう変えていけるだろうと書きながら考えていました。
楠本:100年といえば、本展のタイトルは東京都現代美術館がコレクションする作品のひとつで、いまから100年前の1924年頃に国吉康雄という日本の画家がアメリカで描いた絵のタイトル《幸福の島》から引用しています。「MOTアニュアル」は同時代の作品を展示するグループ展ですが、描かれた時代も地域も異なる作品を併置することで、展示室で過ごす時間や作品を見る経験がより多層的なものになればいいなと思い、最後の部屋にこの作品を展示しました。ちょうど100年前ということは意識していなかったのですが、古市さんの言うように100年はひとつの区切りと感じます。『昭和100年』では100年前の1925年の出来事についても言及されていますよね。
古市:1920年代のアメリカは「狂乱の20年代」と言われる好景気でしたが、29年の大恐慌で軍事的にも緊張感が高まり、30年代にはドイツがファシズムに向かってしまいます。幸福の絶頂が5年程度で潰えた過渡期だと思うんです。その時代に描かれた最後の作品は、展覧会のテーマの通り多義的だと思いました。幸福に見えるけど質素にも見えて、現代の我々が思う幸福とはちょっと違う、地に足がついた作品でした。狂乱の時代のアメリカで華やかでもなく浮かれてもいない絵が描かれたという時代背景にも意味があると思うんです。あの作品を通じて「忘れちゃいけない大切なことってなんだっけ」と最後に問われた気がしました。
楠本:本展に参加してくださったアーティストのみなさんは表現手段こそ異なりますが、自分の身辺や足元に目を向け、それをイメージや形に置き換えることで、より大きな世界につながっていくような実践をしているという共通点があると考えています。古市さんは社会の構造を俯瞰するいっぽうで、『誰も戦争を教えられない』では世界各地の戦争博物館を訪れたり、『昭和100年』でも万博の跡地をはじめとする様々な場所を訪ねたりと、その場での取材や観察、実際に身を置いた実感から得られる知見も大事にされていると感じます。社会学者として「社会」という研究対象を見るとき、どのようなことを大切にされていますか。
古市:東浩紀さんが「旅をすると検索ワードが変わる」と言っています。現代はなんでもAIに聞けてしまう時代だけれども、何を検索するかは我々にまだ委ねられているわけです。旅先に行って人と会うと、知りたいことがどんどん変わり、深まっていく感覚があります。ノルウェーで偶然会った人が、普段東京で本を読んで人と会っても接することができない情報をぽろっと言ってくれたりする。普段のコミュニティから遠いほどそういう予期せぬ出会いがあるので、物理的に移動することは意識しています。
楠本:いまオーバーツーリズムが問題になるほど日本に来られる方が増えて、美術館の来館者数が増えているのも、いつでもどこでも情報が得られる時代だからこそ、実際にその場で体験することの意義が高まっているのかもしれません。
古市:確かにそうですね。アートって別にスマホでもVRでも見られるけど、実物でしか感じられないものは厳然としてある。コロナ時代を経ても人々は会うし、移動するし、旅行に行くという事実がそれを示している気がします。
楠本:古市さんがこれまで何度も東京都現代美術館に足を運んでくださっていることを知り、とても嬉しく思いました。
古市:単純に場所として好きなんです。これだけ天井が高くて、無駄な場所が多い空間ってあまりない。時間的にも物理的にも余白がどんどん潰されていく社会なので、その余白に価値があると思います。現代美術でも、たとえば投機目的でフリーポートに集積されて誰にも見られない作品があると思うんですが、東京都現代美術館はそれとは真逆で、とんでもない余白とともにアートを見られる空間です。世界の現代美術館を見ていても、こうした空間はあまりない気がします。
楠本:ありがとうございます。最後に古市さんが美術館や美術の実践に期待していることがあれば教えていただけますか。
古市:現代美術に求めるのは、社会に違う視点を与えることだと思うんです。いまここにある自分や社会がわずかな分岐点で違う存在でもありえたと示すことは社会学の役割のひとつでもありますが、アートはそれを照らしてくれる気がするんですね。アートってまさに宗教的な啓示のように「じつはこういう可能性もあるよね」と直感的に理解させるほどの影響力を与えうるメディアなので、とくにそうした力に期待しています。
古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学 SFC 研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を描き出した著書『絶望の国の幸福な若者たち』で注目されメディアでも活躍。「新型コロナウイルス感染症対応に関する有識者会議」メンバーなどを務める。他の著書に『だから日本はズレている』『正義の味方が苦手です』、小説作品に『平成くん、さようなら』『奈落』『ヒノマル』などがある。
楠本愛(くすもと・あい)
東京都現代美術館学芸員。担当した主な展覧会に、2023年「デイヴィッド・ホックニー展」(東京都現代美術館)など。
野路千晶(編集部)
野路千晶(編集部)