「ゾフィー・トイバー=アルプとジャン・アルプ」会場風景
アーティゾン美術館で、「ゾフィー・トイバー=アルプとジャン・アルプ」展が3月1日に開幕した。会期は6月1日まで。
20世紀前半を代表するアーティストカップルであるゾフィー・トイバー=アルプとジャン・アルプ。スイス・ダボス生まれのゾフィー・トイバー=アルプ(1889〜1943)は、テキスタイルデザイナーとしてキャリアをスタートさせ、幾何学的抽象と色彩理論の研究を基盤に、テキスタイル、家具デザイン、建築設計、絵画など領域を横断して創作を行った。いっぽうドイツ領シュトラースブルクに生まれた夫のジャン・アルプ(1886〜1966)は、絵画と詩を起点に、偶然的に生まれる形態に基いたコラージュやレリーフ、彫刻などを制作した。
本展では、ドイツとフランスのアルプ財団をはじめとする国外のコレクションから、両者のコラボレーション作品も含む88点の作品を展示。それぞれの創作活動を紹介するとともに、ふたりが互いに及ぼした影響や協働制作の試みなど創作におけるパートナーシップのあり方にも目を向ける。担当学芸員は島本英明。
展覧会は全4章からなり、両者の作品をパラレルに配しながら、時系列に沿ってその創作活動の軌跡をたどる構成だ。
ドイツで4年間にわたって美術を学んだゾフィー・トイバーだが、ミュンヘンでは応用芸術とファインアートを教える先駆的な教育機関に通った。第一世界大戦が始まると、中立地であるスイスに戻り、チューリヒで刺繍や木工、ビーズを扱う作家としてキャリアをスタートさせる。いっぽうジャン・アルプは18歳からヴァイマールの造形芸術学校に学ぶが、旧来的な教育になじめず退学。両親の暮らすスイス・ヴェッギスに移ってからは詩作を行いながら造形芸術における表現を模索し始め、開戦を受けてドイツの徴兵を逃れるべくパリを経て、1915年にチューリヒに逃れる。ふたりはこの年に出会った。そして2年後にはこの地で始まったダダの運動に参加する。
「ジャン・アルプは日本で紹介が進んできているが、彫刻家として顔が主だったところなのではないかと思います。今回は彫刻家としての顔というより全般的なジャン・アルプの再考を考えました。それはゾフィー・トイバーとのペアリングすることによって可能になるのではないかと思います」と島本。
ふたりの出会いの時期の作品を紹介する第1章では、まず冒頭にふたりの作品が並べられて展示されている。ともに幾何学的なかたちで構成されている平面作品だが、より動的なジャン・アルプの作品に対し、ゾフィー・トイバーの作品はタイトルのとおり垂直・水平の構成が特徴的で、両者の共通点と違いが見てとれる。
ゾフィー・トイバーは当時、「女性的な芸術」とみなされがちであったビーズ編みの手法を用い、紙作品で培った構成力や色彩表現を生かしたバッグやアクセサリーを制作した。手帳カバーとして作られたという作品は、垂直と水平の線で区切られながらも幾何学的なかたちにとどまらない有機的なモチーフが見られ、かわいらしい色使いも目を引く。
ジャン・アルプも当時からジャンルにとらわれない制作を続けており、平面を重ねたレリーフ《トルソ=へそ》などの作品を制作している。
また、ゾフィー・トイバーはこの時期、舞台装置や小道具などのデザインも手がけた。人形劇『鹿王』のための人形は、幾何学的なパーツで手足が構成された斬新なデザインだが、1920年代頃からダダの女性の作家を代表する作品として同時代的な評価を受けたという。
1920年代〜30年代に入ると、第一次大戦が終わり芸術家の交流がさかんになる。第2章の展示室でまず目に入るのが、クッションやモードなデザインのパンツなど、ゾフィー・トイバーによるテキスタイルの作品群だ。この時期、ゾフィー・トイバーはチューリヒで教鞭をとっており、その傍で紙の作品などで追求した方法論を異なるメディアでも発展させた。
いっぽうジャン・アルプは、《トルソ=へそ》で見られたような、日常的なモチーフを簡略化した抽象的な造形を洗練させていく。壁に並べられたリトグラフは、雑誌に提供されたもの。生き物にも見えるような不思議なかたちの絵は「口髭=帽子」「へそのある瓶」など、タイトルと作品のつながりに想像を掻き立てられる。ジャン・アルプは異なる対象を自由に組み合わせ、言語の語彙のように運用できる「オブジェ言語」を用いて、これらのユーモラスなフォルムを生み出していった。
ふたりは1922年に結婚。1925年にパリに拠点を移し、翌年にフランス国籍を取得する。この時期、トイバー=アルプはストラスブール市内のホテルの改装や、18世紀に作られた歴史的建築物「オーベット」のインテリア改装などの依頼を受けたことをきっかけに、紙やテキスタイルで実践してきた造形の表現を空間へと広げていく。
奥の展示室では、「オーベット」の仕事の報酬でパリの南郊の街・クラマールに建設したふたりのアトリエ兼住居が紹介されている。建物はトイバー=アルプが自らデザインし、室内で使う什器や家具なども手がけた。引き出しや棚は、同じかたちの長方形が頒布する、制御されたデザインが美しい。
門のようにくり抜かれた仕切りをくぐって次の展示室へ向かうと、1930年代〜40年代の作品群が広がる。
トイバー=アルプは、オーベットが落成した翌年の1928年に教職を辞め、アーティスト活動に専念するうようになる。テキスタイルとの距離を置き、絵画において方形や円を組み合わせた幾何学的なモチーフによる表現の追求を進めていく。
《レリーフ・セル(長方形、幾何学的要素)》(1936)は、正面から見ると平面の絵画のようだが、横から見てみると、円の部分が出っ張っており壁に影を落としていて、立体的なレリーフ作品だとわかる。ジャン・アルプも平面が重なったようなレリーフの作品を制作していたが、そういった彼の仕事と呼応するような作品だ。
ここでは有機的なフォルムのジャン・アルプの彫刻作品も多数並ぶ。ジャン・アルプは、1920年代から30年代にかけてシュルレアリスムと抽象の双方に関わり、1931年には自身の論考において、非対称な絵画や彫刻こそが「葉や石と同様に具体的であり官能的である」との芸術感を示したという。非対称の丸みを帯びた彫刻は、視点によって見え方が変わる。これらの彫刻は果実の胚胎などに着想を得ており、どこか温かみを感じさせる。
またジャン・アルプは創作における偶然性を重視し、1930年頃から、紙片を破ってランダムに配置した「デッサン・デシレ」「パピエ・デシレ」の作品をスタートさせた。創作の主体としての作家、その作為を超え、雲や星の動きといった普遍的なイメージに近づこうとした。
こうした個人の意図や人為性を乗り越えようとする手法の追求として、ふたりの協働制作がある。本展では、現存するデュオ作18点のうち、5点が出品されている。
《デッサン(デュオ=デッサン)》(1939)は、ひとりが描いた線に呼応するようにもうひとりが線を描くといった、即興的な手法で制作したと見られている。直線や曲線などが組み合わさっているが、どの線をどちらが描いたのか判別が難しい。日常生活をともにするなかで行われたこの実践でも、個人が創作主体にならない協働制作のかたちが模索されている。
トイバー=アルプは1943年に不慮の事故で死去する。最後の第4章では、彼女の死後のジャン・アルプの創作が紹介される。
失意のなかで創作活動を中断したジャン・アルプ。ここでは喪失と向き合うなかで制作した詩のほか、新たな“コラボレーション作”も展示されている。
ジャン・アルプは、トイバー=アルプの死後、彼女の作品の修復や再構成など、亡き妻の作品に集中的に関与したという。トイバー=アルプ作の木彫に基づいて制作したブロンズ像《無題(頭部)》(1950年代)や、逝去直前に描いたドローイングをもとに金属のレリーフとして作品化したものなど、彼女の創作を世に残すとともに再解釈して新たに生み出した作品からは、大きな喪失感とそれでも人生を続けようとするジャン・アルプの意思が宿っているかのようだ。
そして1950年代以降、石膏をはじめ、様々な素材を用いた彫刻を制作に取り組むようになったジャン・アルプの作品群を紹介し、本展は幕を閉じる。
トイバー=アルプは、1910年代に抽象芸術をいち早く実践した女性アーティストながら、その評価は近年になって形成され、夫アルプに比べてその作品は日本ではあまり紹介されてこなかった。本展ではその多岐にわたる創作活動に触れることができるのが見どころのひとつだ。キャリアの起点であるテキスタイルがその後の幅広い創作につながっていることも示されている。またそれぞれに自立したアーティストであったふたりが互いに影響し合い、対等な立場で協働制作を行なったパートナーシップのあり方も興味深く、様々な示唆を与えてくれる展覧会だ。