イタリアのヴェネチアで1895年より2年に1度開かれるヴェネチア・ビエンナーレは、「美術界のオリンピック」とも称される、世界でもっとも有名な芸術祭のひとつ。ドクメンタ(5年に1度)、ミュンスター彫刻プロジェクト(10年に1度)と並び、ヨーロッパを代表する三大芸術祭でもある。
日本は1952年の第26回から国として公式に参加を始め、56年にジャルディーニ内に日本館を建設、今日まで参加を続けている。今年のヴェネチア・ビエンナーレ(11月24日まで開催中)で日本館は、毛利悠子が代表作家に選出。初となるファンドレイズ(資金サポート)チームが発足した。
日本館史上初となる支援の取り組みはなぜ立ち上がったのか。また、日本におけるアートシーンの課題や、支援者が担うべき役割とは? 日本館支援チームの指揮をとった大林剛郎(株式会社大林組 取締役会長)と、ファンドレイズに参加した田口美和(タグチアートコレクション共同代表、タグチ現代芸術基金設立者)、牧寛之(株式会社バッファロー 代表取締役社長、anonymous art project)の3名に話を聞いた。
──今回の第60回ヴェネチア・ビエンナーレの日本館において、みなさんが協賛を決断された理由を教えていただけますか?
田口美和:私は過去5回ヴェネチア・ビエンナーレを見てきて、そのたびに日本館のプレゼンスの低さについて、思うところがありました。オープニングではどこの館も祝賀会を盛大に開催し、ある意味国際的な文化力を誇示する「覇権争い」の場でもあるわけですが、日本館には日本政府が介入しないので、参加作家やその所属ギャラリーが、裸一貫で対応しなければならないんです。そういったところに、日本における文化の立ち位置の低さや、日本国民の意識がシンボライズされてしまっている。もっとミニスターなどのキーパーソンが出席し、ネットワークの広さを示して、国をあげてアーティストを応援しているという姿勢を押し出していかねばならないと思います。今回、私は大林さんを筆頭に皆さんが準備してくださった仕組みに乗っただけなのですが、この取り組みがそうした状況に一石を投じ、根本的に変える動きにつながるものになるということはすぐにわかりました。
大林剛郎:ヴェネチア・ビエンナーレというのは、あらゆる芸術祭の頂点と言っても過言ではありません。スポーツで言うならば、まさにオリンピックのようなもので、ここに出ていくからには、やはり最高のものを出していかねばならない。ですが以前から、ヴェネチア・ビエンナーレの日本館については、出展作家やキュレーターの渡航費を含めた諸費用や制作費などの予算が非常に限られているという話を聞いていたので、支援をさせていただこうと。
ただ、その金額が多ければ良いかというと、そう単純でもない。重要なことは、田口さんも懸念していらっしゃるように、政界、経済界から一般まで、もっと皆さんに関心を持ってもらうことです。日本において現代美術というのは、印象派や日本美術といった根強い人気を誇る分野と比較すると、やはりまだまだ展覧会の動員数の確保に苦労をしています。ゆえに、美術館も現代美術を敬遠するという悪循環に陥ってしまう。現代美術をもっと知ってもらうためには、ひとりでも多くの方に、展示を実際に見てもらうこと、あるいはなんらかのかたちで参加してもらうということが大切です。
牧寛之:そうして参加することの意義は、今回のビエンナーレで身をもって体験しました。ヴェネチア・ビエンナーレのことを愛知県美術館館長(註:当時)の拝戸雅彦さんから教えていただいたのち、私が師事する大林さんがその支援プロジェクトの音頭を取られていると知り、これはぜひとも貢献しなければと参加を決めて。当初はもっと軽く考えていたのですが、実際に現地で各国のアート関係者と交流するうち、世界のアートコレクターにおけるヴェネチア・ビエンナーレの位置付けは日本とは明らかに違い、パトロングループに入ること自体が大変な名誉であり、ハードルもとても高いということを知りました。この経験が、ヴェネチアから帰国後、海外のアート関係者とお話する際、引き出しや名刺代わりにもなりました。アートコレクター1年生の私にとっては大変な財産です。
大林:ヴェネチア・ビエンナーレの日本館を主催している国際交流基金に過去の寄付の受領歴について聞いてみたところ、体制上の制約もあり、ビエンナーレで十分なプレゼンスを示す活動をするための資金が足りていなかったようです。そして国の予算で足りない部分は出展作家の所属ギャラリー等が資金集めを行い、なんとか補填していたと。
ですので今回、私はまず、国際交流基金を説得することから始めました。支援という行為を通して、より多くの人に関心を持ってもらい、1万円でも寄付してくれた方々を大切にする。そうして関係人口を増やすことが結果的にアートファンも増やすことにもつながるということにご理解をいただき、実現と相成りました。
──日本館に限らず、⽇本のアートシーンの国際発信⼒を⾼めるための課題はなんだと思われますか?
大林:やはり日本のアート界はかなりガラパゴス的なところがあると思っていて、関係者がもっと海外の美術館やギャラリー、コレクター、キュレーターなどとグローバルにつながっていく必要性を感じます。僕は若いコレクターの方々によく、海外の美術館やアートフェアを見に行ってください、すると世界ではどういったものが受け入れられているかが分かるから、という話をしています。今回、牧さんがキュレーターをヴェネチアに派遣して勉強の機会を作っておられましたが、これは大変素晴らしい取り組みでしたね。
牧:ありがとうございます。私が取り組んでいる「anonymous art project」では、ビエンナーレに先駆けて、3月に日本館代表作家である毛利悠子さんの壮行展「Vaghe onde sole」を東京表参道交差点で開催しました。ヴェネチアのヴェルニサージュ(プレビュー)には全国の国公立美術館から20人以上のキュレーターを、6月にはさらに範囲を拡大して30人以上を派遣しました。今回、ヴェネチアに派遣した日本人キュレーターには、海外の美術関係者からのインビテーションが大量に送られてきたとのこと。それくらい、海外ではキュレーターの社会的地位が高いのですね。
事実、私のような1年生が海外でアート関係者とお会いするときには、キュレーターの方に同行していただかないと、ほとんど相手にしてもらえません。彼ら・彼女らと一緒に行動をすると、アートフェアでも美術館でも非常に有利で、私自身が単独で動くのと比較しても、知識の深まり方が全く違うのです。今後は、そういう機会に、アーティストも派遣する機会を拡大していきたいと思います。
大林:逆に海外のキュレーターに日本に来てもらい、日本のアーティストを見つけてもらうということも必要です。かつて日本は、渡航費も滞在費も高くて敬遠される向きがありましたが、とにかくいまは円安なので、むしろチャンスです。手前味噌になりますが、私が組織委員会の会長を務めさせていただいている国際芸術祭「あいち2025」では、シャルジャ美術財団理事長兼ディレクターであり、国際ビエンナーレ協会の会長でもあるフール・アル・カシミ氏を芸術監督として招致しました。
田口:本当に素晴らしい。そういうところにお金が集まるようにしていきたいですよね。あとは、アーティストたちが内向きにならないこともとても大切です。やはり日本って、文化を発信するという点では地理的にも圧倒的に不利で。世界でいま一番ホットな展覧会を“いつでも”やっているような、ロンドンやニューヨークと同じ状況を日本で作ることはなかなか難しく、それだけに、日本でアーティストを目指している人にはハンディがあるんです。キュレーターやアーティストの海外派遣や、逆に海外からくる方をこちらで受け入れるエクスチェンジは、そのギャップを少しでも埋めてくれるはずですし、日本を客観視する機会にもなる。また、世界で評価される展覧会の巡回先に日本がリストアップされるようにもなるかもしれません。国内で何かしらのアワードをこじんまりと開催する経済力や労力があるなら、むしろそういったところに使っていただけると良いのかなと。
──アーティストが国際舞台で持続的に活躍するためのサポートのほか、支援者に求められる役割は、他にどういったものがあると思いますか?
大林:企業のなかで文化芸術への支援に対する理解を深めていくことはなかなか大変だと思いますが、すでに音楽のコンサートやオペラなどを支援している企業は結構あります。美術展でも、印象派や古美術・仏像展といった分野はサポートされていますので、そういった中に、現代美術も少しずつ押し込んでいく必要がありそうです。クオリティの高い現代美術を支援することが、結果的に企業イメージを高めることにもつながるのです。
それから、そもそも経済界にいる私が文化芸術活動の支援を始めたのは、成熟国家となった日本がその先へとブレイクスルーし、より強い経済力を発揮して国力を高めるためには、日本が元来もっている素晴らしい技術開発力に加えて、クリエイティビティが必要になってくると実感したからです。各界の方々が芸術を支援し、さらにそれを日頃の生活や企業活動に取り込んでいただく。そのことで、日本の経済活動を高めていくということを目指しています。
田口:具体的かつ長期的な視点で言うと、美術館への支援が必要です。コレクションや人材の増強、そしてなにより展覧会開催のための予算が、どこの館も逼迫しています。予算がなくて良い展覧会ができないというのは本当に泣けてくる話で、たとえば作品を借りる際の保険が払えないから展覧会規模を縮小せざるを得ないというような憂き目にも遭っている。そういったところに公的な予算がつかないなら、あとは民間で支えていくしかないんです。
牧:「小さなフィランソロピー(社会奉仕、慈善活動)」を積み重ねていくこと。具体的には、毎年の納税分から、一部をアートに関連するふるさと納税として関連自治体に寄付していくという方法があります。たとえば、国際芸術祭「あいち」や京都府が主催する「Art Collaboration Kyoto」の開催支援を、実はふるさと納税で行うことができます。美術館単位でも、京都市京セラ美術館の「村上隆 もののけ 京都」展を、弘前市が弘前れんが倉庫美術館の「蜷川実花展 with EiM: 儚(はかな)くも煌(きら)めく境界」展の開催支援や協賛を、ふるさと納税で受け入れました。また、静岡県をはじめ、収蔵品の充実をふるさと納税で支援できる自治体もすでに複数あります。最近では、京都市の「Art Aid for Kyoto」という仕組みで事業認定されたアーティスト本人に直接寄付できる仕組みもできました。
税控除を得られる寄付を使った支援の仕組みは、プロスポーツの世界ではすでに各競技で広がっています。私はバレーボールVリーグ1部のVCトライデンツ長野でオーナーをしていますが、「とにかく支援してほしい」というアプローチだとなかなかお金は集まりません。しかし、自治体が税控除を担保するふるさと納税と、地域にスター性のある選手がいると、知名度と安心感が相まって、一気に支援の輪が広がります。現代美術の世界も同様で、アーティストやキュレーターから、パブリック・スターとなりうる方が出現すると、より多くの注目を集めることができる。そして、整備され始めた寄付の仕組みを通して支援の輪が広がりやすいでしょう。
──最後に、アートへの関心と、その延長線上にある支援をより集めるには、今後どうしていくべきでしょうか?
田口:やはり根本的に、人々のアートに対するリテラシー、認知を高めていくことが必要です。ごく一部のお金持ちの道楽ではなく、アートに触れることが老若男女に良い影響をもたらすということを、もっと広く認識してもらう。たとえば公的な予算も、市議会、県議会などいろいろなところで揉まれてようやく決議されるわけですが、そもそも意思決定に関わる方々にアートへの理解がなければ、いつまで経ってもお金が回ってこないわけです。先ほどのパブリック・スターの話で言っても、たとえばTateから著名なキュレーターが来たとして、その方がいかにすごい方なのかというのは、おそらくほとんどの方がご存知ない。そうしたことを皆が認識できる下地作りを少しずつでも進めていかねばならないなと常日頃から感じていて、私が主宰するタグチアートコレクションでは、現代美術を鑑賞する機会の少ない地域を中心に展覧会を開催するなどの草の根活動を行っています。
牧:私の短い経験から僭越ですが、いちばんの問題は、新規でコレクションを始める経済人が、投機目的で入ってしまうこと。私も最初はそうでした。幸いにも、はやい段階で大林さんや田口さんから声をかけていただいたおかげで「本当の楽しさ」を学ぶことができました。ゴルフも楽しいですが、「アートの健全な楽しさ」は他に類をみないものです。もっと多くの経済人仲間とそれをともに分かち合いたいです。
田口:すごくよくわかります。アートって入り口を間違えるとそのあとが大変なんですよね。大林さんや牧さんのような方々が、もっといろいろな方とできるだけつながれるような仕組みがあっても良いのかもしれません。
大林:いっぽうで、非常にポジティブな体感としては、この10年くらいでコレクターの皆さんの意識が少しずつ変わってきているようにも思います。少し前にサンフランシスコ近代美術館(SFMOMA)のリニューアルオープンを記念して、日本からの応援団というかたちで「Japanese Friends of SFMOMA」というプロジェクトを実施し、多くの方に協賛をいただきました。また、杉本博司さんの写真作品の所有者の方々にお声がけしたところ、全員が賛同してくださり、TATEに16点ほど寄贈させていただくことができました。皆さん、ただコレクションするだけでなく、サポート活動への志を高くお持ちでいらして、企業としても個人としても、ごく自然に手を差し伸べられる。そうした時代に、日本もなりつつあるのかもしれません。牧さんのような方が出てくるとは思っていませんでしたし(笑)。
田口:本当にそうですね。
牧:ありがとうございます。
大林剛郎
大林組取締役会長、大林財団理事長。2009年より現職。森美術館理事、原美術館評議員、国際芸術祭「あいち」組織委員会会長、アートバーゼルグローバルパトロンカウンシル、テート(ロンドン)やMoMAインターナショナル・カウンシル・メンバーなど、国内外の美術館や財団の評議委員を務める。
田口美和
タグチアートコレクション共同代表。2013年頃よりミスミグループ創業者である父田口弘が始めた現代アートコレクションの運営実務を担う。各地の美術館の要請に応じてコレクション展を開催。2020年8月タグチ現代芸術基金を設立、小中学校へのデリバリー展覧会等コレクションの公益性をより高める活動を開始。現在、アートプラットフォーム「South South」アンバサダー、スタートバーン株式会社シニア・アドヴァイザー、サン・パウロ ビエンナーレインターナショナルアドバイザリーボードとして活動中。
牧寛之
バッファロー社長、牧誠財団代表理事、シマダヤ取締役、川崎汽船社外取締役。実父の逝去に伴い2018年より現職。大林剛郎氏との出会いをきっかけに現代美術の蒐集を始める。2023年よりanonymous art projectを主宰し「アートの社会実装」に取り組む。私財から国公立美術館や大学への寄付・寄贈、学芸員の在外研究派遣支援を行う。2023年度は15館160作品を寄贈、関連する展覧会協賛を実施。国外研究派遣した学芸員はのべ50名を超える。東京表参道を中心にチャリティアートイベントを展開。
野路千晶(編集部)
野路千晶(編集部)