ムルヤナ 海流と開花のあいだ 2019-
国際芸術祭「あいち2025」が9月13日〜11月30日に愛知県で開催される。主な会場となるのは、愛知芸術文化センター、愛知県陶磁美術館、瀬戸市のまちなかの3つ。今回は62組のアーティストが集う国内最大級の芸術の祭典となる。
芸術祭のテーマは「灰と薔薇のあいまに」。芸術監督は、昨年イギリスのアート誌『ArtReview』におけるアート界の影響力ランキング「Power 100」で1位に選出されたフール・アル・カシミが務める。
Tokyo Art Beatでは「あいち2025」の速報レポートを2本に分けてお届け。本稿では愛知芸術文化センターの展示と、パーフォーミングアーツ、記者会見の様子をお伝えする。
*愛知県陶磁美術館・瀬戸市のまちなかのレポートはこちら
記者会見には、大林剛郎(国際芸術祭「あいち」組織委員会会長)、フール・アル・カシミ(芸術監督)、飯田志保子(学芸統括)、入澤聖明(キュレーター[現代美術])、中村茜(キュレーター[パフォーミングアーツ])、辻琢磨(キュレーター[ラーニング])が登壇した。
アル・カシミ監督は、アラブ首長国連邦をはじめ中東、そして世界中のアートをつなぐ支援者として知られ、2009年にシャルジャ美術財団を設立し、現在は理事長兼ディレクターを務める人物。今回のテーマに掲げた「灰と薔薇のあいまに」は、現代シリアを代表する詩人・アドニスが1971年に刊行した詩集の題名にちなんでいる。その背景にはアドニスが目の当たりにした1967年の第三次中東戦争の惨禍があり、詩人はその破壊の先に再生と刷新とともにある希望を見出した。
アル・カシミ監督は会見で、このテーマについてよく質問を受けると切り出し、その背景に第三次中東戦争があること、そして現在パレスチナで起きている虐殺を終わらせたい、パレスチナの解放を強く願っている、と語った。また、こうした問題はこれまで世界各地の先住民族のコミュニティで起きてきたことであり、本展にはグアテマラの先住民やアイヌなど、多様な先住民の背景を持つアーティストが集まっていると述べた。そして世界における暴力や虐殺を終わらせるために、人々の「連帯」の重要性を強調。「この芸術祭は、私たちすべてが同じ空の下に生き、“すべての人が自由になるまで、誰一人自由ではない”ということを思い起こさせる芸術祭でもあるのです」というメッセージを発信している。
パフォーミングアーツ部門のキュレーター中村茜は、本芸術祭が打ち出すステートメントを読み上げ、「これに応じられる芸術祭になるように最後まで走っていきたい」と意気込みを語った。ステートメントは以下。
国際芸術祭「あいち2025」は、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」(2007年)をふまえ、すべての先住民族および先住民のアイデンティティをもつ人々の歴史、文化、権利、そして尊厳を尊重します。
また、民族や国籍、人種、皮膚の色、血統や家柄、ジェンダー、セクシャリティ、障がい、疾病、年齢、宗教など、属性を理由として差別する排他的言動や、その根幹にある優生思想(生きるに値しない命があるというあらゆる考え方)を許容せず、この芸術祭が、分断を超えた未来につながる新たな視点や可能性を見出す機会となることを目指します。
先に、愛知芸術文化センターでの展示を見終えた所感を書いてしまおう。まず、会見での発言からうかがえるように、本芸術祭には、いままさに世界で起きている虐殺や暴力に対して即時的に応答し、問題を可視化することで鑑賞者と共有し、自由と解放を訴える作品たちが多数展示されていた。そして、「いま・ここ」で起きている構造的暴力と搾取を取り上げるうえで、植民地主義や近代化などの歴史的背景にまで遡り、歴史・神話・科学・文学・テクノロジーなど多様な視点から深く掘り下げる作品たちが揃っていた。
たとえばパレスチナ拠点のバゼル・アッバス&ルアン・アブ=ラーメの映像インスタレーション《忘却が唇を奪わぬよう:私たちを震わせる響きだけが》。パレスチナ、イラク、シリア、イエメンのコミュニティの人々が歌い踊るアーカイヴ映像やオンライン動画を組み合わせて編集し、コンクリートやスチールパネルに投影した作品だ。イスラエルとパレスチナを隔てる巨大な壁を連想させつつ、ユースカルチャーの感性が場所・時間を超えて鑑賞者と共振する空間を生み出していた。
近年、欧米を中心に、「親パレスチナ」と見做される振る舞いが直ちに「反ユダヤ主義」だと糾弾されるケースが、“先進的でリベラル”だと自認するようなアート界においても相次いでいる。このような状況において、アル・カシミ監督のもと本芸術祭が示すメッセージは、そうした分断の元凶となっている歴史的文脈からやや距離のある日本でだからこそ可能となった部分があるかもしれない。その真価は会期を通じて、世界に問われていくことになるだろう。
地下吹き抜けに設置された久保寛子による巨大な作品は、いま現在起きている虐殺や暴力、その背景にある植民地主義を扱いながら、人間や動物たちの共生、エコロジー、原爆、シヴァ神の神話など多数のレファレンスを含む多要素で成り立っている。
また、これは近年の主要な国際展全般に言える傾向ではあるが、アートシーンに根強い欧米中心主義とは異なる評価軸やナラティブを示し、中東やアジア、中南米等にルーツを持つアーティストが多数招聘されている。現代アートの専門家やファンにとっても初めて見る作家が多いだろう。鮮烈な印象を受けた。
そしてもっとも感銘を受けたのは、こうした非常に政治的・社会的にシリアスで複雑なことがらを扱いながらも、それぞれの作品が、誤解を恐れずに言えばとても“見やすい”ということだ。各作家に割り当てられたスペースは広さが確保され、天井高を生かした大型の作品が多い。作家の力量が存分に発揮されたこうした作品は、その場で対峙するだけで見る者に強く訴えかける力を持っている。絵画や陶磁器、映像作品も、そのヴィジュアルやサウンドが魅力的で、直観的に伝わるものが多い。鑑賞者一人ひとりにとって、各作家が扱う事象自体は決して身近なものばかりではないだろうが、そこにできる限りアクセスしやすいよう橋渡しする展示構成だと感じた。
たとえば、10階でもっとも広い展示室。大小島真木の巨大な絵画と、アラブ首長国連邦のアブダビ出身で美容師として働きながら美術を学んだというアフラ・アル・ダヘリの「髪」にまつわるこれまた大きな作品群、オーストラリア西部のフォーテスキュー川流域に先住する先住民であるインジバルンディの長老でありアーティストのウェンディー・ヒュバートの絵画数点が共存する様は圧巻だ。広い空間を生かし、それぞれの作家の持つミクロからマクロへと至る宇宙的スケール感が、干渉しすぎることなく微妙に響き合いながらぞれぞれに存在していた。
洪水神話である「ノアの方舟」をモチーフにしたダラ・ナセルの作品も、展示室を丸ごと使った本会場のひとつのハイライトだと言えるだろう。
本展の出品作はじつに多様だが、それぞれの作品のテーマやモチーフが重なりあったり、連想をうながしたり、つながっていったりと、自立しながらも緩やかなネットワークが生まれているのが印象的だった。
たとえば海。10階の入口に広がるインドネシア出身のムルヤナ《海流と開花のあいだ》は、かぎ編みの手法で「記憶の中にある理想的な海」を表現した。その背景には、深刻化する海洋汚染への問題意識がある。
是恒さくらは鯨類と人の関わりや海のフォークロアをフィールドワークを通して探り、様々なメディアを通して作品を発表してきたアーティストだ。
前述のダラ・ナセルがモチーフとした「ノアの方舟」は、動物たちを船に乗せ運んだ。人類が長きにわたる歴史において抱き続けてきた、「様々な動物を集め、支配したい」という欲望……それを暗示するのが、自然史博物館で動物の剥製を撮影した杉本博司の「ジオラマ」シリーズと、「猛獣画廊壁画」を並置した展示室だ。宮本三郎らによって戦後に描かれた「猛獣画廊壁画」は、戦時中に猛禽類を処分してしまった名古屋市東動物園のために、猛獣たちがいなくなってしまった寂しさを埋めるために描かれたものだ。こうした動物のイメージには生と死、現実と虚構、暴力と愛情が重なり合う。
海流が象徴するように、地球上のあらゆる生物は移動していく。この「移動」というイメージも、鉄道を扱ったマユンキキの作品をはじめ様々な作品に見られた。人の移動は異文化の混淆というポジティブな作用を生み出すいっぽうで、植民地主義と結びつき、占領と支配、先住民族や元々の住民たちの排斥や虐殺、自然資源の搾取や環境汚染を引き起こしてきた。
こうした問題を鮮烈な映像インスタレーションで表現した、シンガポール出身のプリヤギータ・ディア《熱の哀歌》 。マレー半島のゴム農園における植民地の歴史を題材としている。
資源の搾取をともなうエネルギー産業の発展の裏には、労働力として使役されてきた人々の存在がある。1892年に九州・筑豊地方に生まれ、かぞえの7歳ではじめて坑内に入ったのを皮切りに、各地の炭坑を渡り歩いた山本作兵衛の炭坑記録画が展示されていたのも示唆的であった。本芸術祭との直接的なつながりもある。かつて筑豊などの九州の炭田で採掘された石炭の多くは、水運で名古屋市に運び込まれたのち、名古屋市の栄と瀬戸市のまちなかを結ぶ名鉄瀬戸線によって瀬戸市へと運ばれ、かの地の窯業を支えたという。
自然と結びついた産業という点では、今回会場にもなっている瀬戸市の主産業であった窯業は、本芸術祭で欠かすことのできない要素だ。
浅野友理子は瀬戸の植生や、やきものづくりと植物の関係性に焦点を当て、瀬戸で出合った植物を絵付けした大皿を発表。
スーダンに生まれ、同地の美術界の先駆者となったカマラ・イブラヒム・イシャグは、スーダンの伝統的な美意識に異を唱え続けてきた。女性に対する支配や束縛といったテーマを探求した作品において、女性はしばしば植物と絡みつく姿で描かれる。陶芸作品には、歪んだ表情の女性たち。自然と人間が一体の存在として表現されている。
最後に、テーマである「灰と薔薇のあいまに」を体現している2作品を紹介したい。
クリストドゥロス・パナヨトゥは、品種改良の過程で「商品化できない」と判断された種のバラを集めて、屋上にバラ園を生み出した。選ばれなかった存在が集まる様は、美術史を参照すれば印象派の画家たちによる「落選展」を思わせる。しかし、現代社会と照らし合わせれば、世界各地で見られる排外主義や植民地主義をも思い起こさせるだろう。自分の都合に合わない他者の存在を「不用」と決めつける人間の傲慢さを思う。毀損され、周縁化された存在の名誉回復を祈るかのような作品だ。
天井から吊り下げられたバーシム・アル・シャーケルの絵画《スカイ・レボリューション》も、ひときわ胸に迫る作品だった。一見花火のようで美しいが、じつは作家が2003年のイラク戦争での爆撃直後に目撃した光景を描いたものだという。灰と化す風景に花々が散る。作品の下に立つと、作家が身体で感じたであろう壊滅的な破壊の瞬間と、一瞬凍りついたような奇妙な静けさとを想像せずにはおれない。
このように、作品同士が生み出す響き合いとネットワークのなかで、「私たちすべてが同じ空の下に生き、“すべての人が自由になるまで、誰一人自由ではない”ということを思い起こさせる芸術祭でもあるのです」というアル・カシミ芸術監督のメッセージを再び思い出す。
またプレビューが行われた12日夜は名古屋市内のクラブで、バゼル・アッバス & ルアン・アブ⹀=ラーメが、バラリ、ハイカル、ジュルムッドという3組のアーティストとともにパフォーマンスを実施。残念ながらハイカルはアメリカから出国が許されずオンラインでつないでのパフォーマンスとなったが、会場は熱い熱気に包まれた。9月13日(土)、14日(日)にも開催されるので、足を運べる人はぜひ。
ほかにも様々なパフォーミングアーツが開催されるほか、ラーニングプログラムも充実。公式サイトを確認のうえ、ぜひ自分の関心が赴くまま、特別な体験をしに出かけてほしい。
福島夏子(編集部)
福島夏子(編集部)