会場風景より、《The End of Life is Moral》(2024)
「横尾忠則 連画の河」が世田谷美術館で4月26日〜6月22日に開催される。
横尾忠則は1936年兵庫県生まれの美術家、グラフィックデザイナー、版画家、作家。1950年代からグラフィックデザイナーとして活躍、1972年のニューヨーク近代美術館で個展を開催するなど、早くから国際的な知名度を得てきた。1980年7月、ニューヨーク近代美術館で見たパブロ・ピカソの個展に衝撃を受けたことから、いわゆる「画家宣言」をし、その後は絵画制作に邁進。近年、国内では新作を含む大回顧展「GENKYO 横尾忠則展」(愛知県美術館、東京都現代美術館、大分県立美術館、2021〜22)、新作約100点による「横尾忠則 寒山百得」展(東京国立博物館、横尾忠則現代美術館、2023〜24)を開催し、その息の長い驚異的な創造力にますます注目が集っている。
本展では150号を中心とする新作油彩画約60点に、関連作品やスケッチ等も加え、88歳の横尾忠則の現在を紹介する。キーワードはタイトルにもなっている「連画」だ。
2023年春、テーマも決めずに大きなキャンバスに向かううち、横尾の「連歌」ならぬ「連画」の制作が始った。連歌では和歌の上の句と下の句を複数人で分担して詠みあうが、横尾の連画はひとりでの制作。昨日の自作を他人の絵のように眺め、そこから今日の筆が導かれるままに描き、明日の自分=新たな他者に託して、思いもよらぬ世界がひらけるのを楽しむものだという。
「絵は、本当にわかりません。絵のほうが僕をどこかに連れていく。僕は、ただ描かされる。そのうち、こんなん出ましたんやけど、となる」(2023年6月)。川のように様々なイメージが流れ、合流し、流転し、悠々たる大河となる。そんな横尾の「連画の河」が明らかになるのが本展だ。
今回は通常の世田谷美術館とは逆回りの順序。この工夫に、内覧会に登場した横尾も「世田谷美術館とは違うみたい。鮮度が良かったです。会場構成が素晴らしかった」と担当学芸員の塚田美紀に賛辞を送っていた。
展示は1994年に描かれた《記憶の鎮魂歌》という大作から始まる。本作は1970年に横尾が故郷の西脇(兵庫県)で同級生たちと写った1枚の記念写真から着想したもので、写真を撮影したのは篠山紀信だった。1992年に刊行された写真集『横尾忠則 記憶の遠近術』に掲載され、序文は1970年に自決した三島由紀夫が遺していた横尾論が収録された。
本展はこの写真と作品を源流とする大河のような構成となっている。この後に続く約60点の新作には、記念写真のイメージが変奏されながら、広告やスポーツ写真から採られたモチーフや、川や水にまつわる物語や絵画の画像が登場。様々なソースからイメージが溢れ出るように交わる。
続く展示室は、塚田学芸員によると横尾が「とりあえず描いてみた」という時期の作品群で、「連画」をどのように描き進めていくか模索の時期にあたるという。そこから展示室の次の角を曲がると、絵画に筏が登場するようになる。最初の記念写真から水に関わるモチーフはこの後も一貫して出てくるのが面白い。
次の展示室はなぜかメキシコ風の図像が増え、色彩もカラフルで明るい。当時横尾がともに仕事をしていたカルティエ財団の担当者が《農夫になる》(2023)という作品を見て、「このような風景をメキシコで見たことがある」と言った一言をきっかけに、横尾のなかでメキシコのイメージがどんどん膨らんでいった結果だという。日々における人々とのやりとりやメディアを通して見たものなどから自然に影響を受け、それをさらに絵の中に受け流していく、東洋武術の達人のような技である。
その後も作品の中にはマン・レイやピカソ、ゴーギャンのタヒチでの作品など芸術作品をはじめとする様々なものから引用したイメージが溢れ出るように現れる。そうかと思えば、《コンヒューズした絵画》(2024)は「どうしていいかわからなくなってしまった」横尾の混乱ぶりがそのまま定着された作品だという。
横尾自身は作品に意図やテーマを込めたりしないと言うが、《略奪された心臓》(2022/2024》という作品には安倍晋三(ダジャレ!)と思われる人物が描かれていたり、《核の傘下》(2024)という作品には降り注ぐ核爆弾と巨大な恐ろしい瞳の下に画一的な群像が描かれていたりと、この社会や政治についてもいろいろと考えを巡らせたくなるような作品もある。
展示後半は、急に「壺」が様々な絵画に登場し始める。なぜ壺かは本人にもよくわからないというが、「流れ流れていく水と壺も無縁ではない。水を溜めたり汲み出したりするものですし、どのような文化でも壺は重要な意味を持っている。(横尾にとって)どういう意味かはわからなくとも、またひとつ根源的なイメージを投入してきたなと感じた」と塚田学芸員。
ちなみに、壺の中に人が逆さまに突き刺さっているような姿は、ヒエロニムス・ボス《快楽の園》の中央にいる人物から引用されており、さらにYOKOOの「Y」の字のようにも見える。
横尾がとくに気に入っているという作品が《The End of Life is Moral》(2024)だ。「人生の終わりくらい道徳的になったほうがいいでしょ、ふふ」と言いながらこうしたタイトルを付けていたという。
そして展覧会は、横尾の自画像で締め括られる。
内覧会で横尾は、先日夫婦でコロナに罹ってしまい、今日は美術館に来られないのではないかと思っていた、と語った。そこからさらに身体の不調と自身の制作についてコメントを続けた。
「このところ首が痛い。悪いところだらけで、生きているのが不思議なくらい。腱鞘炎がひどくて線が真っ直ぐ描けない。(展覧会を見たプレス陣には)下手くそな絵が並んでいると思われたかもしれないけど、もう下手にしかならないんです。でもかえって自由になれる。絵を描くのはつくづく、とっくの昔に飽きてますので、飽きた状態でいままだ描いている。この先どうなるかわからない。展覧会のたびに体調を崩す。絵を描くことと病気になることが僕のなかでは一体化している」(横尾)
生も死も、身体も意識も、自由も不自由も……あらゆるものが等しく入り混じりながら流れていく「連画の河」。現在の横尾が辿り着いたこの新境地、ぜひ美術館まで足を運んで、一緒に流されてみてはいかがだろうか。
なお、「横尾忠則 未完の自画像 - 私への旅」が東京のグッチ銀座ギャラリーにて8月24日まで開催中。こちらも合わせて訪れてほしい。
*横尾忠則のインタビューはこちら
福島夏子(編集部)
福島夏子(編集部)