公開日:2025年6月3日

「ゴッホ・インパクト―生成する情熱」(ポーラ美術館)レポート。時代を超えて続く熱狂と影響をたどる

戦前・戦後の日本でのゴッホ・ブームや、福田美蘭、森村泰昌ら現代の作家にも光を当てる(撮影:編集部 [*]をのぞく)

「ゴッホ・インパクト―生成する情熱」展示風景より、左:森村泰昌《肖像(カミーユ・ルーラン) [ベルギー版]》(1985/1989) 右:森村泰昌《肖像(ゴッホ) [ベルギー版]》(1985/1989)

展覧会「ゴッホ・インパクト―生成する情熱」が箱根のポーラ美術館で開催されている。会期は5月31日から11月30日まで。

2025年から27年にかけて、「大ゴッホ展」「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」など、フィンセント・ファン・ゴッホをテーマにした大規模な展覧会が相次いで予定されている。ゴッホの作品が多数来日するそれらの展覧会に対し、本展はその後世への影響(インパクト)に焦点を当てるもの。ポーラ美術館がゴッホをテーマにした展覧会を開催するのは、開館以来初となる。担当学芸員は同館の工藤弘二。

ゴッホの「生成する情熱」をたどる

わずか37年という短い生涯で数多くの作品を残したゴッホ。その劇的な生涯と、うねるような筆触や激しい色彩による独自の画風は、現在まで多くの人々を魅了している。日本でも明治末期以降、美術だけでなく文化や社会にまで幅広く影響を与えた。本展では、ポーラ美術館所蔵の3点のゴッホ作品をはじめ、様々な時代の作家の作品を通して、ゴッホの作品や存在が生み出した“インパクト”を検証し、現代における新たな価値を考察する。

展覧会のサブタイトルには「生成する情熱」という言葉が添えられているが、これについて担当学芸員の工藤は次のように語る。「影響をただ受け止めるだけではなく、受け止めた後に、それを外に表現するのがアーティストの性。そのような『新しく生まれる表現』という意味で、“受容”ではなく“生成”という言葉を使った。(芸術家たちがゴッホの作品を)いかに受け止めて、自分の糧としてどのように新しい表現をそれぞれの時代で行ってきたのかを、歴史的にひもといていく展覧会です」

「ゴッホ・インパクト―生成する情熱」入り口

ゴッホとその時代、フォーヴィズムや表現主義への影響

展覧会は3つの展示室を用いて構成されており、ゴッホの生涯とその後のフォーヴィズムや表現主義への影響、明治から戦後にかけての日本における受容、そして現代の作家による作品を全10章で紹介する。

まず紹介されるのは、ポーラ美術館が所蔵する3つのゴッホ作品──南仏アルルで制作された《ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋》、入院した療養院のあったサン=レミで制作された《草むら》、最晩年にオーヴェール=シュル=オワーズで制作された《アザミの花》だ。これらの作品を中心に、ゴッホが過ごしたオランダ、パリ、アルル、サン=レミ、オーヴェールといった土地で作られた作品群と、同時代の画家たちの作品を併置しながら、ゴッホの足跡をたどる。

牧師の父のもとオランダに生まれたゴッホは、聖職に就く夢を挫折したのちに画家を志す。この頃の労働を主題にした暗い色調の作品には、ゴッホが尊敬の念を表していたジャン=フランソワ・ミレーの農民たちへの視線と響き合うものがある。

フィンセント・ファン・ゴッホ 座る農婦 1884-1885

やがてパリで印象派や点描技法に出会ったことで画面の色は明るく変化していく。ゴッホはこの地で浮世絵にも出会っており、展示ではクロード・モネ、ジョルジュ・スーラらの作品と並んで歌川広重の《冨士三十六景》も紹介される。さらにポール・ゴーガンと共同生活を送った光溢れる地・アルルでは、パリで学んだ色彩の効果を検証する機会を得る。ここで制作された《ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋》は、空と川の青、橋や土手の黄色といった色の対比が目を引く作品だ。

ジョルジュ・スーラ グランカンの干潮 1885
左:ポール・セザンヌ プロヴァンスの風景 1879-1882 右:ポール・ゴーガン アリスカンの並木路、アルル 1888
フィンセント・ファン・ゴッホ ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋 1888

有名な「耳きり事件」のあと、度重なる精神の不調からサン=レミにある療養院に入ったゴッホ。《草むら》はここでの戸外制作によって描かれた作品だ。様々な色調の緑とうねるような筆触で、生い茂る草むらが表現されている。亡くなる1ヶ月前にオーヴェールで制作された《アザミの花》でも、花瓶から広がる花々や同心円状の筆触が残る花瓶などに力強い生命力が感じられる。

フィンセント・ファン・ゴッホ 草むら 1889
フィンセント・ファン・ゴッホ アザミの花 1890

ゴッホの作品の影響を直接的に受けた最初の美術の動向が生まれたのは、画家の没後10年以上が経ってからのこと。展示では、若き日にゴッホの回顧展を訪れたモーリス・ド・ヴラマンクやアンリ・マティスらフォーヴィズムの作家たちの作品を通じて、色彩の実験と自由な表現がどのように展開されていったかを見ることができる。また、エーリッヒ・ヘッケルらドイツ表現主義の「ブリュッケ」の画家の作品も紹介されている。

「ゴッホ・インパクト―生成する情熱」会場風景
アルベール・マルケ 冬の太陽、パリ 1904

『白樺』を起点にした、日本におけるゴッホ熱

日本で最初のゴッホ・ブームが起きたのは、欧米で美術を学んだ者たちが日本に西洋美術の情報を持ち帰った明治末期頃。文芸・美術誌『白樺』をはじめとする出版物でゴッホやセザンヌ、ゴーガン、マティスらの作品の複製図版が紹介されると、その生涯や人間性、芸術論に多くの若い芸術家たちが惹きつけられた。

左がゴッホの《包帯をしてパイプを銜えた自画像》を紹介した『白樺』第2巻第10号(1911)(復刻版)

洋画家・岸田劉生はそのひとりであり、本展では『白樺』に掲載されたゴッホの《包帯をしてパイプを銜えた自画像》の影響が指摘されている岸田の自画像2点を展示している。『白樺』に掲載されたのはモノクロの作品画像だったが、太い輪郭線や色使い、大胆に残された筆致などにその影響がうかがえる。また岸田や斎藤与里、清宮彬らが結成した美術団体「ヒュウザン会(フュウザン会)」の画家たちの作品もゴッホの影響を色濃く感じさせる。

岸田劉生 自画像 1912
岸田劉生 外套着たる自画像 1912
「ゴッホ・インパクト―生成する情熱」会場風景

当時日本では、雑誌などでゴッホの作品が白黒の図版で紹介されていたものの、実際の作品を鑑賞できた者はほどんどいなかった。本展ではそんななかで行われた日本人による「ゴッホ巡礼」にも光を当てる。ゴッホの最晩年を診察したガシェ医師のもとに20点ほどのゴッホ作品があり、1922年から1939年にかけて240人以上の日本人がオーヴェールにあるガシェ邸を訪れた記録が残っているという。

そんなゴッホに魅せられた日本人画家として、里見勝蔵、佐伯祐三、前田寛治らの作品が紹介されているほか、ガシェが所有し、セザンヌやゴッホが使用した版画印刷機も展示されている。この印刷機は版画家の長谷川清がガシェの息子を通じて入手し、海を渡って1976年に東京藝術大学芸術資料館(当時)に届けられたものだそう。

前田寛治 ゴッホの墓 1923
「ゴッホ・インパクト―生成する情熱」会場風景

さらに、1920年に神戸の実業家・山本顧彌太が購入し、戦時中に消失したゴッホの《向日葵》にも注目。わずか2回しか一般公開されなかったという本作を目の当たりにした吉原治良や、その影響を受けたとされる中村彝の作品とともに、“幻の《向日葵》”を再考する。また1日1万人を集客したという1953年の「生誕百年記念ヴァン・ゴッホ展」(日本橋・丸善)など、戦後に大衆が担った日本でのゴッホ受容についても、出版物などを通して紹介されている。

フィンセント・ファン・ゴッホ ヒマワリ 1888(陶板製作年:2023) 陶板による再現
中村彝 向日葵 1923
「ゴッホ・インパクト―生成する情熱」会場風景

現代に変奏される“インパクト”

最後に、福田美蘭、森村泰昌、桑久保徹、フィオナ・タンという4名の現代作家の作品を通して、現在まで続くゴッホの影響を探る。

福田美蘭は、2011年に東京国立新美術館で行われた「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」でゴッホの《薔薇》に心を奪われ、同作を翻案した《冬-供花》を制作した。四角く切り取られた花々のイメージがいくつも重なって描かれており、ここには自身の父が亡くなった際に届けられた花々の記憶や、東日本大震災の犠牲者への哀悼の意も込められている。

福田美蘭 冬-供花 2012

森村泰昌は歴史上の人物や芸術作品に扮したセルフポートレイト作品で知られるが、1985年に初めて扮装したのが耳に包帯を巻いたゴッホの自画像だった。本展では、初公開となるポーラ美術館の新収蔵作品を含め、これまで森村が制作したゴッホに由来する全6作品が集っている。これらの作品を一堂に展示するのは今回が初めてだという。

本展への参加に際して「色々学ぶことがあった」という森村は、「ゴッホに限らず、美術史、人間の歴史を考えたときに、何かかつてのものを壊して新しいものができていくわけではなく、かつてのものをなんらかのかたちで受け継いでいく。その受け継いでいくかつてのものといまとのつながりのなかに歴史が浮かび上がってくるのではないか。過去・現在・未来と続く歴史のチェーンの輪っかのひとつに自分の作品もなっていると良いなと、そんなことを考えながら参加させていただきました」と語った。

森村泰昌 自画像の美術史(ゴッホの部屋を訪れる) 2016/2025
森村泰昌 自画像の美術史(ゴッホ/青い炎) 2016/2018

架空の画家を設定し、その画家に「描かせる」という手法で絵画制作を始めた桑久保徹は、美術史における巨匠の想像上のアトリエを描く「カレンダーシリーズ」に取り組んでいる。そのうちの1作、《フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホのスタジオ》はゴッホのアトリエを描いた作品で、《星月夜》を思わせる夜空の手前に画家の「アトリエ」が広がる。よくよく見ると《向日葵》をはじめゴッホの代表作が散りばめられているのがわかる。

桑久保徹 フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホのスタジオ 2015

本展を締めくくるのは、オランダを拠点に制作するフィオナ・タンの映像作品と写真のインスタレーション《アセント》だ。映像作品は、公募で集めた約4000枚の富士山の写真を軸としたもので、撮影時期や撮影者、解像度もバラバラの写真がひとつになって「富士山」のイメージを物語る。かつて日本への憧れを抱いたゴッホと、その100年後の視点から日本を見るタンのまなざしが時を超えて交差する。

フィオナ・タン《アセント》展示風景 Photo: Ken Kato(*)

ゴッホの作品そのものだけでなく、時代ごとに異なるかたちで生まれてきた影響の発露に光を当てる本展。「ゴッホ・イヤー」とも呼ばれる本年、その魅力をより深く、多角的にとらえ直す好機となるだろう。

後藤美波

後藤美波

「Tokyo Art Beat」編集部所属。ライター・編集者。