公開日:2025年2月1日

ペドロ・アルモドバル監督の新たな最高傑作『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』。女性たちの親密さと生と死を描く本作の見どころを、アート作品とともに解説

ティルダ・スウィントンとジュリアン・ムーアが共演。1月31日から全国上映されるおすすめの映画をレビュー

『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』 © 2024 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved. © El Deseo. Photo by Iglesias Más.

スペインの名匠ペドロ・アルモドバルによる初の長編英語劇の映画『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』が1月31日から全国公開される。2024年・第81回ヴェネチア国際映画祭で最高賞の金獅子賞を受賞したヒューマンドラマで、ティルダ・スウィントンジュリアン・ムーアが共演し、病に侵され安楽死を望む女性と、彼女に寄り添う友人がともに過ごす日々を描く。女性たちの連帯や母と娘の関係など、アルモドバル作品の一貫したテーマがさらに純度高く結晶化されたような本作の見どころを、作中に登場するアート作品とともに紹介する。

ルイーズ・ブルジョワの言葉が柔らかに響く部屋で

「地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ(I have been to hell and back. And let me tell you, it was wonderful.)」

つい1月19日まで森美術館で開催されていたルイーズ・ブルジョワの個展のサブタイトルは、ブルジョワの作品《無題(地獄から帰ってきたところ)》(1996)に刺繍された言葉から取られている。作家が亡くなった夫のハンカチに青い糸で縫いあげたものだ。

ルイーズ・ブルジョワ 無題(地獄から帰ってきたところ) 1996 刺繍、ハンカチ 49.5×45.7cm 撮影:Christopher Burke ©The Easton Foundation/Licensed by JASPAR and VAGA at Artists Rights Society (ARS), NY

この刺繍作品の複製が、ある女性の部屋に飾られている。『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』の主人公のひとり、ティルダ・スウィントン演じるマーサの部屋だ。彼女が暮らすニューヨークの見晴らしのいい部屋は、洗練されたインテリアに彩られ、なかでもきっといちばんのお気に入りの場所だと思われるソファの上に、この作品はある。

ペドロ・アルモドバル監督作品において、室内劇のインテリアは人物と同じくらい雄弁だ。有名無名問わず様々なアート作品も登場し、主人公たちの如何ともし難い人生の悲喜交々をともに歌い上げる。監督の自伝的作品『ペイン・アンド・グローリー』(2019)では、アントニオ・バンデラスが演じた主人公の家は客人から「美術館みたいだ」と称賛されるほど。著名デザイナーが手がけた家具の数々が並び、スペインの前衛画家ギジェルモ・ペレス・ビジャルタの絵画なども掛けられている(作中MoMAから貸出依頼が来るが主人公はにべもなく断る。自分の唯一の友だからと)。これらのインテリアの約半数が監督自身の私物だということも、公開時に話題になった。

だから、アイキャッチなアートがアルモドバル作品に登場するのは決して珍しいことではない。それでも今回のブルジョワの作品は、主人公マーサのひとつの肖像画と言いたくなるくらい、控えめながらもはっきりと、物語を示唆するものであったと思う。「地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」という言葉はマーサの人生そのものであり、さらにアルモドバル監督が繰り返し描いてきた母とその子供たちの人生、そして彼の映画そのものの標語のようにすら感じられた。

『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』 © 2024 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved. © El Deseo. Photo by Iglesias Más.

ふたりの中年女性、その生と死

映画の主人公はマーサと彼女の古い友人であるイングリッド(ジュリアン・ムーア)というふたりの女性だ。戦争記者として働いたマーサは、いまは末期がんに侵され高度医療の治療を受けている。その病室に、若い頃に同じ編集部で働き、いまは作家として成功しているイングリッドが面会に訪れ、ふたりは多くの時間をともに過ごすようになる。

しかし、苦痛を伴う治療がうまくいかないと悟ったマーサは、自分の尊厳を守るために安楽死を望むようになる。そして、人里離れた美しい家を終の住処として用意し、自分が最期のときを迎えるまで、隣の部屋に一緒にいてほしいとイングリッドに頼みこむ。悩んだ末にその気持ちに寄り添うことを決めたイングリッドは、マーサが借りた森の中の家で暮らし始めるのだった。「ドアを開けて寝るけど、もしドアが閉まっていたら、私はもうこの世にいない」。そうマーサに告げられたイングリッドは、毎朝恐れと不安を抱えながらその部屋のドアを確認するーー。

本作の根幹をなすのは、マーサとイングリッドというふたりの関係における親密さだろう。かつては熱気に満ちたニューヨークをともに渡り歩き、その後それぞれの道を歩むなかで自然と疎遠になっていたふたりが再会する。そしてマーサは自分の最期の時間をともに過ごすパートナーとしてイングリッドを選び、お互いに精神的な葛藤を抱えながらもそれぞれを思いやる。

『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』 © 2024 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved. © El Deseo. Photo by Iglesias Más.

その場その場でつくる家族/伴侶

「子供ではなく類縁関係をつくろう(Make kin, not babies.)」

この言葉は「サイボーグ宣言」や「伴侶種宣言」で知られる科学技術論とフェミニズムの第一人者、ダナ・ハラウェイが提示したスローガンだ。人口が増加し続ける地球環境を前提に、人類は土とともに「堆肥」として生きていくべきだとハラウェイは言う。そして血統だけでつながる家族とは“違った感じ”で、ともに生きる類縁関係をつくろうと誘うのだ。

マーサの人生はまさにこの実践を繰り返してきたように思える。記者として戦地を行き抜くために、彼女はその場その場で“家族”と呼べる関係性を他者と築いてきたという。そして死を見据えた最期に、彼女が“伴侶”として求めたのがイングリッドだった。彼女とともに過ごす家も、そして植物と土や太陽光、それに鳥の囀りを感じるあの森も、同じく伴侶と言えるかもしれない。森のなかで土の上に身を横たえるイングリッドの姿も印象的だ。

森の家へと移り住むときにイングリッドが着ていた鮮やかな緑と赤の衣服は、マーサのニューヨークの部屋のキッチンの色でもある。彼女が長年暮らした家のエッセンスを、マーサが体に宿して森へと運んでいるようにも思えた。イングリッドがマーサにとってのホームになったのだ。

『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』 © 2024 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved. © El Deseo. Photo by Iglesias Más.

『オール・アバウト・マイ・マザー』(1999)や『パラレル・マザーズ』(2021)をはじめとするフィルモグラフィで、アルモドバルは女たちの連帯や、血のつながりだけに寄らない家族の在り方やクィアな親密さを繰り返し追求してきた。本作はこうしたテーマを、70代となった監督がもっとも静謐に、そして純度高く描き上げた傑作だ。

母と娘という永遠のテーマ

しかし、じつはマーサには血のつながった娘もいる。イングリッドと再び会うようになって早々に、マーサは自分の娘に嫌われていること、そして自分は「正しい母親」にはなれなかったという悔恨を語り始める。いかにして彼女が10代のシングルマザーとなり、娘とうまく向き合えないまま人生の最終局面を迎えるに至ったかはここでは書かないが、娘と精神的に断絶したままであることが、心にずっと引っかかっていることは明らかだ。

母と子がお互いにわかってほしいと思いながらすれ違い、自由な生き方を選択することでそれぞれの人生が離れてしまうという悲哀と、それでも捨てきれない愛情も、これまたアルモドバル作品のお馴染みのテーマだ。そしてこの「いい母親」「いい子供」でいられない葛藤とトラウマが、冒頭のルイーズ・ブルジョワと響き合う。ブルジョワも自身の母親への愛着や父との確執が生涯にわたるトラウマとなり、それを原動力に数々の作品を生み出してきた。

3つの肖像画が語るマーサ

『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』 © 2024 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved. © El Deseo. Photo by Iglesias Más.

ソファの上にかけられたブルジョワを含む3つの作品は、それぞれがマーサの人となりを表したポートレイトのようだと言えるだろう。

いちばんわかりやすいのは右にある肖像画だ。これは演じるティルダ・スウィントンの実生活のパートナーであるサンドロ・コップが、スウィントンを描いた作品が使われている。

中央の写真は、スペイン国籍の人物として初めて写真報道機関マグナム・フォトの会員になった写真家クリスティーナ・ガルシア・ロデロの作品。イタリア・プーリア州で聖土曜日にキリストの死を嘆き悲しむ女性たちの集団を写したものだ。死を悼む女性たちの悲嘆と連帯は現在のマーサとイングリッドと共鳴するし、またジャーナリスティックでありながら詩的な本作のチョイスは、戦場記者として活躍したマーサのパーソナリティをよく表現している。

そしてブルジョワの《無題(地獄から帰ってきたところ)》。マーサにとっての地獄とはなんだろう。直接的には、彼女が潜り抜けてきたボスニアなどの戦地だろうし、強烈な痛みによって自らの人間性が失われていく闘病中の現状でもあるだろう。そして、自由な人生と引き換えに、母娘関係の構築から逸脱せざるを得なかったという不完全感が通奏低音のように鳴り響く彼女の運命かもしれない。

そして本作の終盤、イングリッドはマーサが「帰ってきた」ところを目撃する。それも驚くような美しい在り方で。このラストには、血縁によるつながりと、それとはまた違う選び取ったつながりの、その両方の美しさと複雑さを描き続けてきた監督の、新しい到達点を見た気がした。

『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』 © 2024 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved. © El Deseo. Photo by Iglesias Más.

孤独と分断のアメリカ:ホッパーとワイエス

アルモドバルといえばメロドラマの名匠だが、近年は『パラレル・マザーズ』でスペインの内戦を取り上げ、短編『ストレンジ・ウェイ・オブ・ライフ』(2023)では西部劇の形を借りてアメリカ社会のマスキュリニティをクィアの視点から描き出した。本作もマーサの戦場記者という経歴が現在のウクライナやパレスチナでの戦争を想起させるし、彼女の出産の背景にも戦争が影を落としている。この世界の政治的問題に無関心ではいられないという監督の姿勢が映画に表れている。

その点で、本作は現在のアメリカ社会の一側面を描いたポートレイトでもある。暴力の歴史とそれにともなう人々の孤独。そして現代社会における右派左派のイデオロギー対立と分断が、登場人物たちのドラマの背景としてさりげなく描写されている。

『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』 © 2024 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved. © El Deseo. Photo by Iglesias Más.

たとえば身体の自己決定権気候危機をめぐる問題。本作では近年のアメリカ(だけではないが)を二分する中絶のトピックそれ自体は主題ではないが、マーサが自らの尊厳を守るために自分の意思で死を選ぶことについて、違法性だけでなくキリスト教の信仰心のもとに糾弾する人物が登場し、いわゆる宗教右派的で保守的なイデオロギーがアメリカ社会に強く根付いている印象を与える。いっぽうで、イングリッドと親しいある学者の男性は地球環境の行く末を憂うリベラルエリート層だ。彼女にとって力強い味方ではあるが、彼は自分の息子の妻が地球の人口増加を省みずに「3人目の子供を産もうとしている」ことに激しく立腹している。このエピソードからは、彼もまた自分のイデオロギーに則して他者の身体をめぐる自己決定やリプロダクティブヘルス・ライツに口出しできる権利があると思い込んでいるように感じられる。身近な人の生と死に直面するイングリッドの前では、彼のお題目はどこか空虚だ。

マーサが選択し実行する死の迎え方は潔く美しい。私だけでなくその生き様/死に様に憧れを抱いて「ああなりたい」と思う人は多いと思うが、同時に「とてもああはできない」と落胆する人だっているだろう。彼女の選択は、恵まれた経済的・文化的資本に支えられたものだ。彼女が「モルモット」のようだと自虐し、最後には否定する高度医療の治療だって、貧困層にとっては贅沢でしかないだろう。この物語が、気取ったリベラル層の浅はかな夢に過ぎないと、一部の人に思われはしないかと余計な心配もしたくなる。

それでも、強さとヴァルネラビリティ(脆弱さ)を併せ持つ人間の複雑さと、人々の信頼関係や親密さを描いた本作は、断末魔の叫びを上げる世界で、優しく温かな希望を示している。

ちなみに、上述のほかにも本作にはいくつかアート作品が登場するが、もっとも象徴的なのは20世紀のアメリカの画家エドワード・ホッパーの作品だ。そしてもうひとつ、アメリカの抱えたトラウマや病理、そして家をめぐるあるシーンで、同じくアメリカの20世紀の画家アンドリュー・ワイエスの《クリスティーナの世界》から構図が引用されている。ふたりとも、アメリカ社会における孤独を描き出した画家だ。これらの作品にもぜひ注目してみてほしい。

ポスター

『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』
監督・脚本:ペドロ・アルモドバル
原作:シーグリッド・ヌーネス「ザ・ルーム・ネクスト・ドア」(早川書房 刊行)
出演:ティルダ・スウィントン    ジュリアン・ムーア

製作年:2024年
製作国:スペイン
配給:ワーナー・ブラザース映画



福島夏子(編集部)

福島夏子(編集部)

「Tokyo Art Beat」編集長。『ROCKIN'ON JAPAN』や『美術手帖』編集部を経て、2021年10月より「Tokyo Art Beat」編集部で勤務。2024年5月より現職。