公開日:2022年8月26日

橋爪悠也インタビュー。「軽さ」の美学と藤子・F・不二雄へのリスペクトが生む絵画

 Yutaka Kikutake Galleryとスパイラルで個展を開催。独学で制作を始め、「eyewater」シリーズで人気を得た橋爪悠也にインタビュー

橋爪悠也 スタジオにて

橋爪悠也は1983年岡山県生まれ、現在は東京を拠点に活動する。これまで藤子・F・不二雄のキャラクターから着想を得た人物が一粒の涙を流す作品シリーズ「eyewater」などを発表してきた。8月20日から9月17日まで Yutaka Kikutake Gallery(東京)にて個展「eyewater -everybody feels the same-」を開催中、また9月2日から9月11日にはスパイラルにて個展「eyewater」を開催。マーケットではすでに高い人気を得ているが、アウトドアブランドでの勤務を経て独学で制作を始めたという経歴は、現代アートの世界においては異色でもある。現代アートを専門に扱うギャラリーYutaka Kikutake Galleryでの2度目となる個展を機に、作家としての姿勢や新しい作品群について聞いた【Tokyo Art Beat】


橋爪悠也 eyewater animal ver. Manekineko -tokyo2022- 2022 キャンバスにアクリル絵具 162×112cm

オリジナルとコピーの境界を問う

——橋爪さんはマンガ家、藤子・F・不二雄の作風を参照した一連の作品で知られています。はじめに、こうしたスタイルを始められた経緯についてお聞きできますでしょうか?

藤子・F・不二雄の作風を扱った表現は、2017年に地元の岡山で開催した「FUJIKOGANSAKUSHI(藤子贋作師)」(the PLACEBOX3129)という展示から始めたものです。この展覧会で僕が考えたかったことは、「すべてのものは何かを参照しているのではないか」、「何かはつねに何かの真似なのではないか」ということでした。

こうした考え方を、僕はわりと古くから持っていました。あまり人に納得されたことはないのですが(笑)、たとえば僕が学校の先生の前でドラえもんを描き、先生から「上手い。将来は絵描きさんになれるね」と言われて実際に絵描きになったとしたら、僕の表現者としての人生の一部は、藤子さんの真似から始まっているのだと思います。あらゆるものはそうした「真似」や「踏襲」の上にあるのではないか、というのが僕の考え方です。

いっぽう、この展覧会の少し前、世間では東京オリンピック・パラリンピックのエンブレムの盗作問題を巡って、オリジナルとコピーについての論争が起こっていました。その議論を聞きながら僕が違和感を覚えたのは、世の中の多くの人たちが「完全なオリジナル」があると考えているように見えることでした。しかし、オリジナルとコピーの境界はそんなにはっきりあるものなのでしょうか。

僕はアーティストになる以前、アウトドアブランドでPRの仕事をしていたのですが、ファッションの世界ではあるブランドの製品や広告が別の場所で参考にされることは珍しくありませんでした。また僕自身は、要領の良い先輩の仕事の仕方を真似て、「自分は先輩の盗作だ」くらいの感覚で生きてきたところがあります。けれど、人はとても「オリジナル」にこだわっている。それはなぜなのか。この岡山での展示は、そうした個人的に感じる疑問を、古くから親しんできた藤子作品をモチーフにして扱ったものでした。

橋爪悠也 eyewater -everybody feels the same- / 普通について1 2022 キャンバスにシルクスクリーン、アクリル絵具 162×130,3cm

——橋爪さんの作品からは、ポップアートへの目配せも感じられます。アンディ・ウォーホルやロイ・リキテンスタインは、既存の広告やコミックのイメージを作品に応用しました。その意味でもたしかに、アートにおけるオリジナルとコピーの境界は自明とは言えません。しかし同時に、橋爪さんの作品や手法が過去に批判をよんできたことも事実ですね。

そうですね。ポップ・アートの時代といまの大きな違いは、SNSの存在だと思います。僕の作品は以前、SNSを中心にいわゆる「炎上」しました。当時は僕にとってとてもキツい時期でしたが、同時に、その騒動で僕の名前を知ったり、作品を良いと言ってくれる人が現れたりもしました。その意味で、この出来事は僕にとって両義的だったと思います。

——炎上は想定内だったんですか?

いえ、もともと岡山でやっていたくらいで、そこまでの反応は想定していませんでした。

ただ、世間の反応という点で言えば、僕はPRの仕事をしていたこともあり、イメージの流行には敏感なところがあるんです。僕が藤子さんのスタイルを参照し始めた頃は、ちょうど女性のバストアップの構図が人気を集めつつある時代でした。たとえば、KYNEくんのブレイクもその流れにあると思うのですが、僕も自分で作品を作ろうとしたとき、女性のイメージを意識的に選んだところはあります。炎上はそこまで想定していませんでしたが、そのモチーフの選択は意図的であったとも言え、「あわよくば」という思いはあったと思います。

とはいえ、そもそも当時は、アート作品というよりおしゃれなイラストレーションっぽい絵という意識が強く、それがTシャツになったりして展開したら面白いな、というくらいの気持ちでした。実際、当時はほとんどの作品をデジタル上で作り、複製可能な印刷のかたちを通して発表していました。僕がアーティストと名乗り出したのは結果的なことで、最初は人から依頼を受けて描こうとも思っていたんです。単純に、お金がなかったのもあります。数をこなさないといけないと思っていた。一言で言うと、当時の僕は「魂を売っていこう」と思っていたんです。

橋爪悠也 スタジオにて

絵画化への思いと、「軽さ」の美学

——登場人物が一筋の涙を流してこちらを見ている、橋爪さんの代表的なシリーズ「eyewater」はどのように生まれたのでしょうか?

「FUJIKOGANSAKUSHI」展では、作品は全然売れませんでしたが、ファッションブランドの方から声をかけてもらって、今度は展示の名前だった「藤子贋作師」名義で展示に参加することになりました。ただ、ここでも作品が問題になり、結果的に自分の作品の展示ができなくなってしまったんです。「危ういと思っていた」と言う人や、「このバズり方がファッション的だ」と言う人など、反応は様々でしたが、この頃に周りの人から「何か自分らしいものをひとつ加えて、一度、しっかり絵画作品を描いてみたら?」と言われたことが「eyewater」のシリーズにつながりました。

藤子作品には大人モノの作品もありますが、その多くは子供が登場人物で、泣いている描写はわりと多くあります。その意味で、涙は藤子的なモチーフですが、それをこれまでの印刷物ではなくきちんと一枚の絵画として見せてみようと思ったわけです。

涙には、とくに限定的な意味はありません。僕はこのキャンバスを、上下の物語から切り離されたマンガの一コマのようなものとしてとらえています。ネガティブにもポジティブにも受け取れるし、このあとに続く話があるのかもしれないし、このコマが結論かもしれない。実際、鑑賞者の見方や反応がバラバラなのが面白くて、解釈は見る人に委ねればいいかなと思っています。

——橋爪さんは過去のインタビューで、IKEAや無印良品のような、同質の製品が無機質に並んでいる光景への愛着を語られていました。涙のような感情的なモチーフを扱いながら、それが色違いで何枚も反復していく構造もポップアート的ですね。

「eyewater」の反応で多かったのは、ポジティブなものより、やはり「悲しそう」「つらそう」というネガティブなものでした。あまりそちらに偏るのも違和感があり、ポップな要素を入れようとしたことが、反復的な構造や、鮮やかな色使いにつながりました。

あと、僕はジュリアン・オピーやgroovisionsの作品の工業的な質感が好きで、デザイナーズ・リパブリックという、エイフェックス・ツインなどのジャケットを手がけているイギリスのデザイン・スタジオの仕事にも影響を受けてきました。さらに、年齢的に『relax』などのカルチャー誌が盛り上がりや、KAWSの登場に刺激を受けたりしてきた世代なので、そうした当時の自分にとっての「カッコいい」という感覚を、自分の作品の中で昇華して周囲に理解させたかったという思いが、こうした表現になっていると思います。

というのも、その頃の上司から、自分の思う「カッコよさ」を否定されることが多かったんですね。だから、自分で表現を始めたとき、自分の感覚や考えていることを「押し付けたい」と思ったんです。とくに活動を始めた頃、僕が印刷で作品を作ったり、Tシャツのような大量に出回るものにこだわっていたのは、その背景があります。大量に刷られたものが作品として家の中に入っていけば、日本人にとっての「アート」を、理解不能なよくわからないものではなく、よりファッション的にできるのでは、とも考えていました。

ただ、僕も欲が出てきて(笑)、「手描きで描いたらもっと価値が上がるのに」という声も聞くようになり、それで絵画に移行した部分もあります。こういう態度は「作り手としての軸がない」と言われてしまうかもしれませんが、そのふわふわした感じが僕はファッションっぽいと思うし、自分がこれまで働きながら身につけた生きる術でもあるんです。

——お話を聞いていると、橋爪さんには決して悪い意味ではなく、一種の「軽薄さ」があるなと感じます。「オリジナルなんてない。コピーでいいじゃん」という考え方自体がそもそもとても「軽い」ですし、活動の方向も人の意見や時流に合わせて変えていく。世界への構え方がとても「軽い」。それはおそらく、影響を受けた多くのカルチャーや、ファッションの世界での社会人経験から形成した、独自の美学なんでしょうね。

そのとらえ方はとても嬉しいです。「チャラい」とか、「アートってそういうものじゃないだろう」と言われることもあるんですが、僕はある意味でとても真面目に、自分の生き方としてこうした活動の仕方をしています。

——ところで橋爪さんには、バストアップではなく何人かの登場人物が絡まり合っている変形キャンバスの作品もありますね。こうした作品はどのように生まれたのですか?

このタイプの作品は、藤子や手塚治虫などの作品に見られる驚いた人物の表現を参照しています。僕が面白いと思うのは、そこにどこか組体操のような感覚があること。自分は多くの作品で、こうした視覚的な気持ちよさを感じさせるパズル的な要素を入れています。

——日本のマンガのボキャブラリーの豊富さは、たしかにもっとアートの世界でも注目されていいかもしれませんね。

以前、ある方から、藤子の表現を扱うことに関して、「それはパンドラの箱だ。みんなそれが良いということは知っていて、そこに少しオシャレな要素を入れれれば売れるに決まっている。パンドラの箱だとわかっているから、誰も使わないんだ」と言われたことがありました。

そのときは何も言えなかったのですが、僕は、藤子作品のようなものは日本人にとってあまりに当たり前になっていて、多くの人はその細部を意識などしていないのではないかとも思います。その意味で、僕の作品を好きになってくれた人が、それを通して、その起源にある表現の細部をより真剣に見るようなことがあったらいいな、とも思っています。

——ある場所で、藤子の作品と自分の作品の関係を古典落語にも喩えていましたね。

そうですね。古典落語は、ある話を、後の世代が少しずつ変化を加えて現代的にしながら継承していくもの。自分の活動にも、そうした部分があるのではないかと思っています。

「みんなが思っていること」を見せる

橋爪悠也 eyewater -everybody feels the same- / 死と蘇りについて 2022 キャンバスにシルクスクリーン、アクリル絵具 116,7×91cm

——今度のYutaka Kikutake Galleryの個展で展示される新作では、人物が従来の斜め向きではなく正面を向き、ニュートラルな格好ではなく地域が推測できるような服装やアイテムを身に付けるなど、どこかメッセージ性を感じさせる新しい展開を見せています。また、これまでのフラットな画面を離れて、人物の背景で筆の跡が強調された作品もあるなど、いろいろと実験をされている様子が伺えます。新作の背景について聞かせてください。

僕の活動の多くと同じように、そこにも真面目な動機と、ある意味で不真面目な動機の2つが混在しています。

真面目な動機で言えば、やはりこの数年は世界で起きていることが大きすぎると思うんですね。新型コロナウイルス感染症や、ロシアによるウクライナ侵攻もそうです。また、個人的にはネコを飼っていることもあり、戦争に伴う動物保護の問題も大きかった。そうした大きな問題が起きるなかで、少しばかり名前を知ってもらった人間として、何かピンポイントのテーマを掲げて作品を作ってみようと思ったことがひとつあります。

僕がこうした現実に対して思うのは、たとえば「戦争は嫌だな」という当たり前のことで、それは多くの人が感じることと同じだと思う。展示のサブタイトルの「everybody feels the same」はこの感覚を表しています。当たり前の感覚を、正面から見せたかった。

ほかにも、たとえばある絵の登場人物は、新聞紙で作った兜を頭に乗せて、割り箸の鉄砲を持っています。これも、いまの世界の状況を踏まえれば、実際の拳銃ではなくて割り箸の拳銃ならどれだけ幸せだろう、という気持ちを起こさせるかもしれません。あまりに直接的に「愛」などを語るのは恥ずかしいので、それを少しポップなかたちで見せているんです。

絵の中の登場人物にはほかにも、排気ガスの髪の毛や風車のイヤリングを身につけた「環境問題」への言及を感じさせる人物や、メキシコの死者のお祭りやフリーダ・カーロのような装いをした「宗教」や「死」の問題を感じさせる人物などもいて、おっしゃる通り、これまでに比べて地域性やテーマ性をはっきり打ち出す絵になっています。

いっぽう、不真面目なほうの動機で言うと、触れられた筆跡に関しては、やはり最近、人から手数の跡を求められることが多かったこともあります。僕はフラットな質感が好きなので、「なるほど、アートの世界は手の痕跡が重要なんだ」と。それは勉強になりますが、同時にそうしたこだわりにアートの不自由さを感じたりもする。だからこの筆跡については、ある意味で皮肉というか、こうすればもっと作品に複雑さが増すんだろうな、という思いもあります。

スタジオにて。作品に描かれる猫は橋爪の愛猫がモデル

——一見、真面目と不真面目に分けられますが、「みんな同じことを思っているんでしょう」というものを見せることと、他人の意見でスタイルを変えることは地続きですね。求めに応じて自分が差し出すものを変えるというのが、橋爪さんの基本的なスタンスなんだなと。

それはアーティスト活動を始めたとき、お金を稼ぐ難しさをすごく感じたからかもしれません。僕は周りに迷惑をかけながら作家活動はしたくない。ビジネス全開にはしたくないけど、清貧も嫌。おそらくアート界の人は「こうしたらもっと売れる」という方法がわかりつつ、しがらみでできないのだろうから、僕はPRの経験を活かして、それを正面からやろう、と。僕は自分の活動は、「橋爪悠也のプロモーション」だと思っているんです。

僕は「東京モータープール」というグループ展を主催していて、たびたび作家さんに会いに行くんですよね。そこで僕が「この作品買います」と言うと、作家さんから「え、買ってくれるんですか!?」と言われることがあって。「いや、買われないと思って作っているんですか」と思うんですけど(笑)、売るという発想自体がそもそもないんだな、と。

アートの世界では売買が悪いことかのようにとらえられてしまうところもありますよね。僕は、そうしたアートの経済とは無縁のあり方に憧れもあるんですけど、社会人や販売員をやってきた身としてはそこには疑問や葛藤もある。そんな思いも、このストロークには含まれています。

——今回の絵画作品では、リサイクルの絵具を使われているともお聞きしました。

そうなんです。以前はデジタルでの制作が主だったので気にしていなかったのですが、アナログに移行して絵具を使い始めると、とにかくゴミが多い。これは何か嫌な感じがするなと思っていたんです。そこで考えると、僕の作品で人が好きなのは「絵柄」だろうから、色はある程度何でもいいんじゃないかと思って。もちろん、作品としての最低限のクオリティは考えるんですけど、それ以降は、制作中に余った同じ色の系統の絵の具を一箇所に貯めておき、次回の制作ではそこで自然に混ざった色を使っています。買う側にとっても、大袈裟ではなく環境負荷の軽減に協力できるので良いのでは、と思っています。

橋爪悠也 eyewater -everybody feels the same- / 環境の変化について 2022 キャンバスにシルクスクリーン、アクリル絵具 116,7×91 cm

——登場人物を正面向きにしたのはどうしてですか?

正面向きの絵は、じつは以前も「ミラー」というテーマで扱ったことがありました。炎上のあとだったので、鏡のように絵と向き合わせ、鑑賞者に「本当にこれがただの盗作?」と問いたかった思いもありました。今回はそうした表現の延長で、社会の大きなテーマを扱った作品が多いので、メッセージがブレないようにふたたび正面を向かせました。

また、今回の実験的な要素で言うと、一部の作品で、画面にシルクスクリーンで凹凸のある文字を刷ったことも挙げられます。これは、いま、Instagramなどで画像を見て、作品を見た気になる人が多いと感じていたので、現場に来ないとわからないものとして入れています。そうしたかたちで、今回は生の体験という要素にこだわった面があります。

「“人”で愛されるアーティスト」を目指して

——さきほどご自身の活動を「橋爪悠也のプロモーション」とおっしゃっていましたが、橋爪さんは「eyewater」シリーズだけでなく、似顔絵の自販機のような装置「ヘンナーベンダー」や、植物調査の映像作品など、まるで異なるジャンルの作品も手掛けてきました。一個一個の活動を動機づけるのは、その時々の「これが面白い」という感覚でしょうか?

そうですね。僕はお笑いが好きで「ビートたけし理論」と呼んでいるのですが、いろんな活動中でもいちばんカッコつけている「eyewater」は漢字の「北野武」で、それ以外の作品はお笑い色の強い「ビートたけし」名義みたいな、ゆるやかな使い分けをしています。

——「eyewater」を含む、「アーティスト・橋爪悠也」の全体の活動として、これからどのようなことをしていきたいと考えられていますか?

どうでしょう。若い頃は、世の中に何かのアンチテーゼを突きつけたいという思いも抱いていましたが、最近は歳も重ねて、バイクに乗ったり釣りを楽しんだり、どんどん「個」の方に向かっている自分もいます。「eyewater」はもちろん真剣に作っていますが、同時に人から求められたものを作っているという思いもあり、最終的には、みんながそれぞれに自分の楽しいことを見つけて、それを表現できるようになればいいと思っています。

他方で、「eyewater」に引き付けて言えば、日本人はもっとF先生に限らない「藤子不二雄」の作品について日常的に話したり、その良さを考えるべきだと思います。もっと大切にしてほしいなと思う。藤子不二雄って立ち位置的にある種見えづらくて、起源としての手塚治虫の存在が大きいし、アート方面の人だとよりアヴァンギャルドな赤塚不二夫が好きな人が多いじゃないですか。でも、藤子不二雄の、海外の文化も含めた様々な要素をうまく取り入れ、誰でも楽しめる作品を作るあり方はすごく日本的だと思う。そうした認識がもっと広まってほしいし、そうした雰囲気の小さな火種くらいにはなりたいです。

橋爪悠也 eyewater -everybody feels the same- / 普通について2 2022 キャンバスにシルクスクリーン、アクリル絵具 162×130,3cm

——今回の個展は、その今後の活動にとってもターニングポイントになりそうですね。

そうですね。今回はいままで以上に作品を通してメッセージを伝えることを考えた作品が並んでいるので、ぜひ見てほしいなと思います。また、ギャラリストの菊竹(寛)さんとの協働も含めて、いま僕は、従来の自分に足りていなかったアートの文法や価値のあり方を学んでいるところでもある。今回の個展で、その成果も感じてもらえたらと思います。

いっぽう、いまはありがたいことに多少注目していただいていますが、しばらくしたら僕の現在のスタイルが「ダサい」と言われるときが絶対来ると思っていて。そうなったときにやることがなくて立ち行かなくなることがないように、全然種類の違ういろんな活動をしている面もあります。そうしたたくさん蒔いておいた芽が、将来、再び評価されるようなことがあればいいな、と。芸人みたいなもので、「二度売れる」ようにしたいですね。

——自分のリバイバルを考えている作家というのも面白いですね(笑)。今日お話を聞いていて、橋爪さんの中でPRという前職の経験がすごく大きいんだなと感じました。自分のアイデンティティより、世の中の空気を信じていて、それに合わせて柔軟に活動の仕方を変えるスタイル。それはアーティストの中では珍しいタイプなのかなと思いました。

次男坊なんで、空気を読むんです(笑)。あと、僕はやっぱり長く活動したいんですよ。最大瞬間風速的に売れてお金を稼ぐことも重要で、ファッション的ですが、せっかくアーティストして活動をしているのなら、70歳を超えても続いている作家になりたい。それも偉そうな「先生」ではなくて、その歳でもやっぱり誰かに「買ってくださいよ〜」って言っているような新鮮さを持っていたいです。

僕の場合、個別のシリーズや作品そのもの以上に、「橋爪悠也」という人間の人生を面白くして、お金に変えていきたいという思いが強いんです。少し前まで、その人の一つひとつの動きが気になるような、「“人”で愛されているアーティスト」ってもっとたくさんいましたよね。そうしたアーティストに自分がなれたら、面白いなと思っています。

杉原環樹

杉原環樹

すぎはら・たまき ライター。1984年東京都生まれ。武蔵野美術大学大学院造形理論・美術史コース修了。出版社勤務を経て、美術系雑誌や書籍で構成・インタビュー・執筆を行なう。主な媒体に美術手帖、Tokyo Art Beat、アーツカウンシル東京、地域創造など。artscapeで連載「もしもし、キュレーター?」の聞き手を担当中。関わった書籍に、平田オリザ+津田大介『ニッポンの芸術のゆくえ なぜ、アートは分断を生むのか?』(青幻社)、卯城竜太(Chim↑Pom)+松田修『公の時代』(朝日出版社)、森司監修『これからの文化を「10年単位」で語るために ー 東京アートポイント計画 2009-2018 ー』(アーツカウンシル東京)など。