会場風景より、〈10の最大物、グループIV〉(1907、ヒルマ・アフ・クリント財団)
東京国立近代美術館で「ヒルマ・アフ・クリント展」が開催されている。会期は3月4日〜6月15日。
ヒルマ・アフ・クリント(1862〜1944)は、スウェーデン生まれの画家。その存在は長らく美術史の陰に隠れてきたが、2010年代に急速に再評価が高まり、近年は世界的に大ブレークしている。なぜいま、この画家に大きな注目が集まるのか。その魅力や、絵に込められた意味とは。そして彼女について言われる「カンディンスキーやモンドリアンよりも抽象絵画を早く創案したパイオニア」「美術史を書き換える存在」という説明は本当なのか?
「ヒルマ・アフ・クリント展」の企画を担当する三輪健仁(東京国立近代美術館美術課長)に解説してもらった。
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──かつては「知る人ぞ知る」画家であったヒルマ・アフ・クリントですが、ここ10年ほどで急速に再評価が高まり、今回の日本初回顧展も大きな話題となっています。アフ・クリントといえば、展覧会の概要にも書かれている「ワシリー・カンディンスキーやピート・モンドリアンら同時代のアーティストに先駆け、抽象絵画を創案した画家」との紹介に、とくに注目が集まりますね。それは本当なの?というのが気になるところです。
三輪 ヒルマ・アフ・クリントがスウェーデンで生まれたのは1862年、亡くなったのは1944年ですから、ワシリー・カンディンスキー(1866〜1944)やピート・モンドリアン(1872〜1944)とほぼ同世代と言えます。
また全193点からなる代表的作品群「神殿のための絵画」が制作されたのは1906年から1915年にかけて。いっぽう、カンディンスキーやモンドリアンの抽象表現は1910年頃以降とされます。20世紀初頭に制作されたので、生前まったくの無名だったわけではありませんが、当時は「神殿のための絵画」の全貌が明らかになっておらず、亡くなった後も、本国スウェーデンの美術史において重要な位置づけがなされていたとは言い難いと思います。
1980年代以降、スウェーデン国内を中心に彼女の作品は何度か展覧会で取り上げられてきました。国外では1986年から87年にかけてロサンゼルス・カウンティ美術館で開催された「芸術における精神的なもの:抽象絵画──1890-1985(The Spiritual in Art: Abstract Painting──1890-1985)」でフィーチャーされましたが、現在のような注目には至りませんでした。
状況が劇的に変わったのは2010年代。2013年にスウェーデンのストックホルム近代美術館で開催された回顧展が、2015年までの長い期間、ヨーロッパ各地を巡回しました。その後2018年にニューヨークのソロモン・R・グッゲンハイム美術館での回顧展が開催され、当時の同館史上最多となる60万人超もの動員を記録しました。これらの展覧会によって彼女の存在は世界的なものとなり、現在も注目を集め続けています。
2010年代以降、頻繁に使われるようになった「抽象絵画の先駆者」というタームは、非常に魅力的な売り文句となってきました。この語が使われ続けていることには、企画側の“押し出し方”の戦略が相応に影響しているとも言えます。
2010年代のブレークにはいくつか理由があると思います。前述の1986年「芸術における精神的なもの:抽象絵画──1890-1985」は、タイトルの通り秘教、心霊主義やオカルトと、19世紀末以降の抽象絵画との密接な関係を包括的に扱った展覧会でした。いまだにこのようなテーマとしては、まず参照すべき代表的展覧会です。この展覧会で、アフ・クリントは、モンドリアンやカンディンスキーとともに展示されています。つまりすでに近年と同じ構図が提示されていたのですが、当時はアフ・クリントのほうが「早かった」というような話題にはなりませんでした。モダンアートのメインストリームにしっかりと位置付けられていたカンディンスキーやモンドリアンの地位をアフ・クリントがおびやかすことはなかったのです。
1980年代といえばすでにポストモダニズム議論が隆盛の時期ですから、モダンアート(近代美術)が線的に発展していくという歴史観は疑われ始めていたとはいえ、その構図はまだ強固でした。スピリチュアリズムやオカルトという語は、1980年代でも現代でもある種の「うさんくささ」をともなって受け取られがちかと思います。そういった思想や主義をモダンアートの流れの真ん中、しかも出発点に位置づけるのは、それほど簡単なことでないのは想像に難くありません。
三輪 1980年代と2010年代の差異のひとつは、女性のアーティストに対する再評価の流れです。モダンアートの歴史において、これまで女性はマイノリティでした。そして女性であることのみならず、アフ・クリントは、当時の芸術の中心パリなどから離れたスウェーデン国内でほぼそのキャリアが完結していたこと、そして神秘主義的思想を持っていたことなど、いくつかの点でマイナーな存在でした。
地理的、思想的、ジェンダー的、様々な面でマイノリティであるアーティストとして再発見されたアフ・クリントが美術の歴史のなかに入ってくることで、美術史自体を単線的なものから多様で新しい方向に開くことができるのではないか、と魅力的にとらえられるようになった。1980年代と2010年代とでは、アフ・クリントの存在を受け止める側が変わったということは大きな違いだと思います。ただし言うまでもなく、こういったマイノリティの評価の在り方は、ある種のブーム、トレンド的な面が多分にあり、短期的に消費されかねないので、注意が必要だとは思います。
とはいえ、こうした美術史的な価値観の変化だけでは、グッゲンハイム美術館に60万人も訪れる、ということにはならないでしょう。ではなぜこれほど需要が広がったのか。それはアフ・クリントの作品、その色彩や形態が持つ「新しさ」のためかもしれません。ここでいう新しさ、というのはモンドリアンやカンディンスキーより何年早く抽象絵画を描いたという新しさ、ではなくて、広く現代の人の感性を惹きつけるアクチュアルな魅力という意味です。
たとえば代表作である〈10の最大物〉についていえば、サイズの大きさや、10点組であることで、鑑賞者を包み込むような、あるいは空間全体をひとつの表現にするようなインスタレーション性が挙げられるかもしれません。
またアフ・クリントは、抽象表現の先駆者と言われているわけですが、果たしてこの作品を抽象と言ってもいいのか……という点も関係しているように思います。たとえば画面に現れる渦巻き型の形象は抽象的というよりは、カタツムリやオウムガイのように明らかに生物的なものです。バラやユリの花だとすぐに認識できる形も描いている。既知の約束事によって何が描かれているかを認識できる、という特徴が、多くの人々にとってある種のわかりやすい入り口のように感じられるのかもしれません。それとやはり色彩ではないかと思います。〈10の最大物〉では、パステルカラーを基調としたピンク、紫、オレンジの色面などが現れ、その色面の大さからも人の目を引く要素になっているのではないでしょうか。
近年は抽象絵画だけでなくポップアートなどと比較する研究者もいますし、前衛的で先駆的であると同時に、現代の大衆に強い訴求力を持つ点は、とても興味深い特徴だと思います。
美術史における価値観の変化、彼女の作品が持っている現代の大衆の感性に浸透する力、そのふたつが2010年以降の時代にフィットした、というところではないかと思います。
──アフ・クリントは正規の美術教育を受けていましたが、これは当時の女性としては先進的です。彼女がどのようにして画家になったのか教えてください。
三輪 ヒルマ・アフ・クリントの家系は、祖父、父、兄が、皆、海軍に勤務していました。いっぽう、女性は結婚し家庭に入ることが前提とされていたからでしょうか、何を学ぶかについては比較的自由だったようで、アフ・クリントは美術の道に進みます。また姉のイーダは、女性の権利運動を進める「フレデリカ・ブレーメル協会」の運営に携わりました。姉妹の活動から推測すると、それなりにリベラルな家庭だったのではないかとも思います。
アフ・クリントがなぜ美術の道に進んだのか、その出発点についてははっきりとはわかっていません。幼少時代の絵は残っていないのですが、美術を志す人々にとって当時いちばんの進学先であるロイヤル・アカデミーに入る前、10代の後半には絵の勉強を始めていた。彼女が通っていた私塾を開いたのはシャスティン・カードンという女性のアーティストです。スウェーデンのアカデミーが女性を受け入れ始めたのは1864年ですが、カードンはアカデミーに入学した最初期の女性のうちのひとりでした。
とはいえ、カードンの絵画はアバンギャルドな作風ではなく、古典的、自然主義的な肖像画を主に描いていた。アカデミーに女性が受け入れられたからといって、すぐにアフ・クリントのような先進的な作品が登場するわけではありません。アカデミーの授業も男性と女性とにわけられていて、先生になることができるのは男性だけ。平等と言える状況ではありませんでした。この時期の作品を展覧会でもいくつか紹介しています。
──そうした環境のなかから、アフ・クリントのオリジナリティはどのように芽生えたのでしょうか。
三輪 アフ・クリントは1882年に入学したアカデミーを87年に優秀な成績で卒業しますが、在学中からすでにスピリチュアリズム(心霊主義:人は肉体と霊魂からなり、肉体は消滅しても霊魂は存在し続け、現世へ働きかけてくるという思想)に関心を抱いていたとされています。大きな転機としては、1896年に友人で同じく画家のアンナ・カッセル(1860〜1937)らと神智学などの秘教思想に傾倒するグループ「5人」を作り、その活動が代表的作品群「神殿のための絵画」の制作へとつながっていきます。スピリチュアリズムは、アカデミックな様式から離れた、アフ・クリントの新しい視覚言語が生み出されていく際の大きな要因のひとつになりました。
──当時スピリチュアリズムは一般的だったのでしょうか。
三輪 19世紀後半、ストックホルムのとくに知識階級のあいだでは、最先端の科学技術に関心を寄せながら、同時にスピリチュアリズムを信奉するといった人々がかなりいたようです。この傾向はスウェーデン特有というわけではなくヨーロッパ各地で見られたものです。出発点のひとつには19世紀半ばのダーウィンの進化論があるとされます。進化論がキリスト教社会に与えたショックは大きかった。神が世界を創造したというキリスト教的創造論と、生物学的進化論の決定的な対立が生じるわけです。
そこで人々の拠り所のひとつとなったのが、アフ・クリントも影響を受けた神智学という思想です。神智学を創設したひとりヘレナ・ペドロヴナ・ブラヴァツキーは、創造論と進化論とで世間が揺れるなか、進化論は世界の物質的な側面しか見ていないものといったん否定します。いっぽうで硬直化した伝統的なキリスト教に代わる新しい宗教観を担うものとして、スピリチュアリズムがポピュラーになるのですが、ブラヴァツキーはこのスピリチュアリズムも低級な霊との交信でしかないといったん否定します。進化論とスピリチュアリズムを表向きは否定しつつ、低級な霊ではなく、高次の霊的存在にたどり着くためには、自分たちの霊性を“進化”させなければいけないとして、ここに“進化”という概念を持ち込みます。両者をうまい具合に折衷したのが、神智学とも言えるかもしれません。こうした科学と精神世界を結びつけるような戦略が功を奏し、多くの人々が神智学に大きな関心を寄せました。
アフ・クリントたち「5人」は、交霊の集いを頻繁に開き、高次の霊的存在と交信し、自動書記や自動描画によって霊的存在からのメッセージを記録していきます。そのような交霊会のなかで、アフ・クリントたちは、神智学的教えについての絵を描くようにと告げられたとされています。物質世界からの解放や、霊的能力を高めることによって人間の進化を目指すもので、これが「神殿のための絵画」の制作へとつながりました。
よく知られるように、抽象絵画を創始した存在として比較されるカンディンスキーやモンドリアンも、神智学に関心を寄せていました。美術の世界だけでなく、科学者たちのなかにも心霊現象に強い興味を持ち人々がいました。19世紀後半から20世紀初頭にかけては、トーマス・エジソン(1847〜1931)やニコラ・テスラ(1856〜1943)による電気に関わる発明、ヴィルヘルム・レントゲン(1845〜1923)によるX線の発見、キュリー夫妻(ピエール[1859〜1906]、マリー[1867〜1934])による放射線の研究など科学分野の画期的な発明や発見が相次ぎました。レントゲンやラジウムなどは、「眼に見えない、肉眼では捉えられないものの探求」という点で、霊的な存在と似ているところがあります。ですからこの眼に見えないものの把握は、この時代の社会全体の大きな関心事であったと言えるのだろうと思いますし、こうした精神的・科学的探究が、20世紀初頭の芸術運動を大きく動かしたことは重要でしょう。
──去年、パリ市立近代美術館で開催された「原子の時代:歴史の試練に挑む芸術家たち」展でも、冒頭にアフ・クリントがカンディンスキーらとともに展示され、原子などの不可視のエネルギーが当時の芸術家にとって新たな創造の泉となっていたことが紹介されていました。本展でもアフ・クリントの〈原子シリーズ〉が展示されます。
──改めて「5人」について詳しくお聞きしたいです。このグループがアフ・クリントの画家としてのあり方を決定づけたと言えますね。
三輪 先ほど、男性中心主義的なモダンアートの歴史の読み直しに、アフ・クリントが戦略的に使われている状況について触れました。ルネサンス以来、美術の歴史において、「天才的な個人が傑作を創造する」という定式があります。アフ・クリントを抽象のパイオニアとする際にもこのようなモデルが意識されていたでしょう。
しかし、徐々にこの考えは相対化されてきています。たとえば「神殿のための絵画」はアフ・クリントひとりの手による作品ではなく、「5人」のうち芸術的な才能のあったアンナ・カッセルがかなり手伝っていた、とする説が優勢になってきています。「5人」をある種のコレクティブとしてフィーチャーするのは、現代の美術動向とも親和性があります。たしかに共同作業であったことは事実のようで、巨大な〈10の最大物〉も、設計図のようなものはアフ・クリントが作りつつ、その図を拡大して絵画として仕上げるプロセスには複数人が関与していたようだと言われています。「5人」には美術的素養を持たないメンバーも含まれていましたが、少なくともカッセルは共同作業を担ったようです。
2021年にスウェーデン人智学協会でアンナ・カッセルの作品が多数発見され、レゾネも出版されました。今後、アフ・クリントの周囲にいた人たちの役割が精査されることで、アフ・クリントというひとりの天才、といった作家像が、多少相対化されることが起きるかもしれません。
──それはおもしろいですね。ところで、「5人」での交霊術を通して、アフ・クリントは霊的存在からのメッセージを自動書記や自動描画によって記録したとされています。実際のところ、それは本当に無意識で「描かされた」というような作為のないものだったのでしょうか?
三輪 残されたドローイング、とくに初期のものを見ていると個人個人の手癖のようなものもあるんですが、プランシェット(交霊の際などに用いられた車輪と筆記具がついた木の板。オートマティックな線描を生み出すための補助道具)などを使っていた可能性が高いように思われます。波線が続くような単純な線描は、ある種のトランス状態で恍惚としているときに、手が動いたまま描き留めただけということもあり得るかもしれません。
いっぽうで、このようなもの(下図)は交霊術の真っ最中に描かれたとは、なかなか思えません。
──込み入っていますね。
三輪 共同作業なので、ひとりのメンバーが霊的存在からメッセージを受け取り、別のメンバーが書きとめる、描きとめるということもあったでしょう。そういったものは霊的存在からのメッセージをもとに、アフ・クリントたちが事後的に、意識的に描いているのではないかとも思います。
──自動筆記というとシュルレアリスムが思い浮かびますが、そうした作家たちとはどのような違いがありますか。
三輪 「芸術表現」として行ったかどうかという違いはあるように思います。アフ・クリントたち「5人」はこの自動書記や自動描画をたとえば展覧会に発表しようとか、美術における新しい技法を生み出そうと考えたわけではありません。
アフ・クリントとカッセルは、この時期の自動書記、自動描画を年月がたってから整理して、かなり破棄したとも言われています。残されたドローイングを現在見てみると、「神殿のための絵画」に頻出するモチーフが登場することもあって、「神殿のための絵画」制作の準備として描かれたもののように、つまり明確な意志のもとに計画された、芸術表現として見えます。廃棄されたドローイングがどのようなものだったかは知りえないわけですが、秩序だった一貫性のある流れを残すために、そこにそぐわないものを廃棄したのではないか、というような想像もしてしまいます。そういった事後的な編集作業はあったかもしれませんが、少なくとも「5人」がドローイングを描き始めた初発段階では、本人たちはそれを芸術表現とは考えていなかったのではないかと思います。
──展覧会の後半では、アフ・クリントの後半生における自作の編集作業にフォーカスされていますね。「自分の仕事がどう残され伝わるか」を意識した作業が、生前に行われていたというのは興味深いです。
*後編へ続く
福島夏子(編集部)
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